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◆会報第89号より-03 綿祔開①

綿 祔 開めんぷひらく(その1)
=木綿の伝来=

 倉田 美博(会員) 

木綿

 日ごろ我々の身近でお世話になっている繊維といえば木綿(もめん)だ。肌ざわりや通気性もよく、最高の繊維、日々の生活には欠かせられない繊維のひとつ。
 その木綿の原料は綿の実のガクがはじけて出てくる繊維。それを紡いだものが木綿そのもの。綿の花も見たことのない人にとっては実感がわきにくいかもしれないが、紡ぐ前の繊維は布団に入っている綿と同じです。
 綿は熱帯性の1年草。5月に種子をまき7月に花が咲く、そして9月の末から10月にかけてガクが弾けて綿が採れる。◆会報第89号より-03 綿祔開①_f0300125_10502574.jpg栽培もむつかしいものではなく、我々アマチュアでも栽培は可能です。
 現在綿花は100%外国産の輸入品だが、過去には100%国産品で賄われていた。現在では趣味や観光用に栽培されているだけで国内での栽培は皆無といっても過言ではない。私も何年か前までは知人に貰った種子で栽培していたが、何かの拍子に種子をまく時期を逸したのちは栽培しなくなった。
 綿の花はハイビスカスを少し小さくしたようなレモンイエローの可愛いく、美しい花を咲かせてくれますが、残念なことに一日で萎んでしまう儚い花。

綿祔開とは

 我が国のこよみでは1年を24に分割しそれを24節気という。さらに72に細かく区分してそれを72候といい、その季節を実感できる言葉で表す。綿祔開は処暑(秋の始まり)の初候で、太陽暦の8月23日ころから27日ころを指す。  
 ちょうど其の頃になると綿の実を覆っていたガクが弾けて、中から種子を抱いた綿毛が現れる。
 「綿祔開(めんぷひらく/わたのはなしべひらく)」と言われるようになったのは綿花栽培が盛んになってきた宝暦暦から以降で、それまでは「寒蝉鳴(ひぐらしなく)」といういかにも晩夏らしい呼び方をされていたとのこと。その方が現代人には実感があるのでは。

岩田帯

 どの地方から綿作がはじまったのかについては定かではないが、おそらく大和あるいは三河地方ではないかと言われ、それが河内、泉州をはじめとした畿内を中心に西日本全体で広く栽培されるようになった。
 岩田村(現在、八幡市岩田)にこんな逸話が伝えられている。
 綿栽培農家が綿の刈り取りに精を出していた秋晴れの昼下がり、お姫様の一行が岩田の村を通りかかった。お姫様が急に産気づき、それに気が付いた村人たちが、近くの野小屋に収穫したばかりの綿を敷き詰めて寝かせ、無事に赤ちゃんを誕生させた。その後「岩田帯」と呼ばれて安産のお守りとして、現在に伝えられている。
 安産祈願の帯は神功皇后が三韓征伐のおりにすでに利用しており、材料は別として古い時代からすでに使われていた。
 何時の時代から岩田帯と呼ばれるようになったかは定かではないが、なぜ改めて名付けられたのだろうか。

綿の伝来

 日本へのワタの伝来については、8世紀末の平安時代初頭(799)に三河の幡豆郡天竹村(現在・西尾市天竹町)に漂着した崑崙人(インド人)が綿の種子をもたらしたことが『類聚国史(るいじゅうこくし)』(菅原道真892)に記述がある。崑崙人がもたらした種子を朝廷が紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、大宰府で栽培を試みさせてみたが、いずれも栽培することが出来なかった。この綿の種子はおそらく高温地適種(インド綿)であったためではないかと推測でき、日本では栽培は困難な種類だった。
 ただ栽培には至らなかったものの、綿の保温性や柔らかさなどが我が国においても理解されるようになり、その後はもっぱら朝鮮半島や中国からの輸入品がもてはやされる時代が続いた。
◆会報第89号より-03 綿祔開①_f0300125_1164922.jpg 応仁の乱(1467-1477)はその状況にいっそう拍車をかけ、幕府をはじめ各地の戦国大名たちが競って朝鮮から木綿を輸入するようになり、朝鮮半島でも品不足となったらしい。
 室町時代中期に入って兵衣として抜群の性能を持つことがいっそう認識されるようになり、我が国の木綿需要が急激に高まりだした。木綿のよさが一般に認識されるようになったのはこの時代だった。
 15世紀に入り、朝鮮から日本の気候・土壌に合った綿〈アジア綿〉の種子が日本に渡来し、戦国時代になるとわが国でも綿の栽培とともに木綿織物の生産が始まり、しだいに関東地方にまで広まった。
 「山科家礼記」明応元年(1492)8月3日の条には、「宇治よりいほ(魚)上候、わた(綿)のあふら(油)たる(樽)七十上候」とある。すでにその頃には綿実油を70樽も納めることが出来たということからもかなりの面積で生産されていたことが窺える。
綿栽培の広がり

 綿の栽培、織仕事は女性が主流となり行われてきた。そのために「女かせぎ」と呼ばれる地方が多くあったが、綿の播種、収穫から果実の種取り(繰綿)、糸紡ぎ、機織りと女性にはかなりの重労働と、負担が大きかった。
 江戸時代の綿花の商品生産としての栽培はおおむね中期以降となるが、畿内や東海などの先進地では江戸前期からその骨格が形成されていた。
 大坂では17世紀前半に実綿・繰綿や木綿織物に関係する問屋組織の原型が成立し、すでに寛文6年(1666)には「綿(繰綿)屋仲間」が起り、大坂に送られてくる畿内や西国の実綿、繰綿の仲買を本業として、江戸や北國筋へと繰綿を売り出していた。
 江戸時代中期には生産品の販売用作物として定着し、農村部にも貨幣経済を前提とした経済活動が定着していった。
 それらの地域から供給される白木綿は武士、民衆の肌着類として、縞木綿類は都市民衆の表着類として市場を広げていった。
水田で木綿を栽培するのは再三幕府が禁令を出したにかかわらず、例えば宝永3年(1706)の摂津平野郷の場合畑方総面積131町の中で木綿作付けが107町余り、田方総面積224町余の中では木綿作付けが116町と水稲作付けを浚篤するほど。それだけ商品として収益性が高かった。

 ところで先に少し述べた「岩田帯」の話は何時頃のものか判らないが、産気づいた姫を寝かせられるぐらいに綿を引き詰めたとするならば恐らく、江戸中期以降の綿の生産量が増大していったころの話だと推測される。物語時代設定などからどうもただの逸話ではないかと考えられるが、このような逸話が残されると言うことは、八幡の岩田などを中心に山城南部全体、広範囲で栽培されていたことを裏付けていると考えられる。
 山城盆地南部での木綿作は、おもに低湿地の旧木津川の自然堤防や島畑の砂壌土の肥沃な畑地で栽培され、山城綿として大阪などへ出荷している。
 山城盆地南部における綿花栽培は明治20年(1887)頃を頂点として,同25 年頃より衰退の段階に入り,明治35年頃より急速に減少してゆき、明治40年以降は消滅している。具体的にみると、八幡・都々域両村での明治27年の生産量は明治14年の約30%に減少し、やがて他産地とともに区内での栽培は消滅していった。
 江戸時代から明治前半期にかけては、当時の商業的農業の先端をゆくものとして、極めて大きな意義を担っていた。
 元文元年(1736)大阪市場に集荷された農産品のうち綿関係品が全体の12%を 占めており、米7%を凌ぐ最大の商品となっていた。
 積極的な農民の中には、経営規模を拡大して富農的成長をとげるものも出たが、半面、干鰯の購入価格の高騰や上昇する日雇い賃金の負担などのために経営困難に直面することも多かった。
 そのため富農層のなかには綿作経営の維持よりも土地を買い集め、地主として小作料を取っていく者も増えていった。
 木綿は庶民衣料として発展するには年月を要したが、それが経済発展に寄与してくると政治的な施策が絡みあってくる。

衣料として定着

 その頃はまだ、庶民の一般的な衣服は麻類や在来種の植物繊維であったが、木綿織物の普及するに従い、肌触り・保温に優れた衣服として戦国大名の軍事的需要が高まり、すでに江戸時代以前に畿内を中心に西は九州から東は関東に至るまで、綿栽培、木綿織は展開していったと考えられる。
 木綿の庶民衣料としての深く庶民の生活に浸透するのは江戸時代の元禄(1688~1703)に入ってからで、やっと国内需要を十分賄えるだけの生産量となった。その後、その製品の流通は産業構造や経済史的にも大きな影響をあたえることになった。
やがて、江戸時代には国内産だけで需要が賄えるぐらいの生産量になっていった。

 柳田國男は面白いことを「昔風と当世風」の中に書いている。少し主題から外れるかもしれないが、何かの参考にでもなればとご紹介しておきたい。
・・・女の内足風である。前年日本に遊びに来た某仏国人のごときは、私に向かって頻りにこれをほめ、あれ一つ見ても日本婦人の優雅なる心性が窺われるとまで激賞した。ところが、桃山時代の屏風絵、岩佐又平などの写生画は勿論のこと、西川、菱川の早い頃の作を見ても、女はみな外足でサッサと歩いている。多分二重に腰巻をして上の方が長く、且つ麻などのようなさらりとした材料を使わなくなった結果、足にからまって裾がうまく捌けなかった故に、こんなあるき方を発明して、それが美女の嬌態と認められることになったのかと思う。・・・
 木綿は日本人の生活をいろいろと変えた。女性のあのしなやかなしぐさにまで影響があったとは驚きである。
(次号に続く)空白

【参考資料】

 tenki.jpラボ
 「山城盆地南部における明治期の商業的農業はじめ」   乾 幸次
 「江戸時代綿作の分布と立地に関する歴史地理学的考察」 浮田典良
 壺齋閑話
 「新・木綿以前のこと 苧麻から木綿へ」        永原慶二 
 「カイコガの種で見る日本の古代養蚕史」        中沢 隆 
 「木綿以前の事」                   柳田邦男 
 「歴史たんけん八幡」 第11章      八幡の歴史を探究する会




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by y-rekitan | 2019-01-28 10:00
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