ー(その1)柏亭日記に見る柏村直條と薮田重守ー 田中 美博(会員) 江戸時代の中頃、石清水八幡宮の神人で八幡の薬薗寺に近い森に住んでいた柏村直條(かしむらなおえだ1661-1740)は連歌・和歌に長じ、京の公家や大名家と交際する文化人でした。八幡八景の選者でもある直條が書き残した柏亭日記(石清水八幡宮所蔵)を私達は最近翻刻し発行しました(資料1)。その日記に柏村直條の叔父で柳沢家の家老であった薮田重守(白鴎)とのやりとりが記されています。薮田重守は寛文4年生れ延享4年没(1664-1747)。すなわち直條の叔父ではあったが実は3歳年下で、同世代として親しく交際していました。 薮田白鴎とは隠居後の名前で、その前は薮田五郎右衛門重守、阿波、柳沢市正などを称した。重守の父は山田小右衛門廣清という人で、その長男が直條の父で柏村家に養子に入った柏村直能、その10番目の子が薮田家に養子に入った重守でした。これらの詳細は後述する。 知られているとおり、柳沢吉保は将軍綱吉に重用され、側用人から老中格さらに大老格までめざましい出世をした大名であった。 ![]() 石清水八幡宮に所蔵されている柏亭日記は元禄9年(1696)、享保14年(1729)および17年(1732)の3年間分で、これを翻刻・発行しました。元禄9年では、1月15日に直條は柳沢出羽守に仕えている弟の柏村勘左衛門(尚誠)へ手紙を書き、放生会で相撲の会を再興できるようおじの薮田重守と相談してほしいと頼んでいます。しかし、これは実現していない。享保14年4月に薮田重守(白鴎66歳)は夫人の吟(老名慈性)を伴い八幡の直條(69歳)を訪れています。夫妻は4月11日に天神森(現京田辺市)に着き、翌日石清水八幡宮に社参し狩尾社にも参拝。13日に封戸(淀にあった木津川の渡場)から船で(巨椋池を経由か)宇治橋に至り、(直條とおちあって)宇治神社祠官の芝田家で茶菓子のもてなしをうけました。直條の長女おやすは芝田家当主の妻であった。そのあと興聖寺住職に会い、方々見物して船で美豆に帰着。14日は「於草庵終日馳走ス」(日記)と直條の自宅でもてなされた。15日から嵯峨・京都へ出かけ、18日に「白鴎御夫婦京ヨリ御帰」(日記)で直條方に逗留し、21日に封戸から木津川を船で上ってはぜ(旧吐師村、現木津川市)へと向かい、帰ったことが記されています。 一方、直條は河内方面への旅の中で大和郡山へ行くことが多く、享保14年3月と9月の2度訪れて合わせて9泊し、享保17年では2度訪れて9泊しています。このほか書状や贈り物のやりとりも多く書き記されています。 大和郡山市教育委員会に所蔵されている豊田家文書の閲覧・撮影の許可をいただき、その中に薮田重守(白鴎)が書いた山田栄治郎という人の先祖書(資料2)を見つけました。下図はその翻刻版です。 ![]() (つづく) 一一
by y-rekitan
| 2019-01-28 09:00
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