―その1― 谷村 勉 (会員) 平成22年(2010)、枚方市教育委員会が発行した「楠葉台場跡」の報告書は専門家のみならず郷土史家や歴史好きの人々にも大きなインパクトを与えた。読み進んでゆくと「かつて楠葉方面から石清水八幡宮へと通じる『御本社道』という登山道が男山南西斜面にあった」と記載されている(資料編p315)。 聞いたこともない「道」の名前だった。江戸中期作成の「石清水八幡宮全図(中井家文書)」を調べると、絵図上部の橋本地区に「御本社道」とはっきり記載されていた。楠葉から橋本南西部にかけて、今ではすっかり開発されたこの地域に、その面影がどれ程残っているものか、八幡宮に通じる「御本社道」を中心に足で追いかけてみた。その結果を数回に分けて報告します。 1.腰折坂の警衛 上記の「楠葉台場跡」資料編p185に腰折坂の記述が出てくる。 明治元年(1868)一月二五日、小泉藩(注1)が八幡腰折の警衛を命じられている。 『「片岡貞篤家記」正月二十五日八幡、橋本、洞ヶ峠の警衛の意味は分かるが、なぜ腰折坂の警衛が必要なのか、それは腰折坂が男山東麓の「八幡宮道」(注2)である志水道から楠葉へ通じる為であった。「薩摩兵が八幡山の山道を越えて橋本台場の後ろに向かう時、賊兵三十余人山中に番兵たるを見、これを急襲した」との記述がある(資料編p180)。橋本台場後方へは狩尾社経由ではなく腰折坂経由で向かう必要があった。対岸の藤堂藩からの砲撃と橋本台場の背後からの攻撃などによって、幕府軍はついに敗走した。 「八幡市誌第三巻」(p52)に腰折の警衛について、軍務官から西山腰折の見張番所での警固を社士が命ぜられた、との記載がある。警固社士が侍身分ではあるが、大名家以外に警衛を命じられるのは異例だった。これに対応する記事が「楠葉台場跡」資料編p201にある。「明治元年九月一四日八幡社司の八幡腰折の警衛が免じられ、代わりに柏原藩(かいばらはん)(注3)が命じられる。」 ・腰折地蔵の事 上記の「片岡貞篤家記」に「腰折地蔵辺見繕警衛可有乃旨…」とあるが、 腰折坂の解説は「男山考古録の腰折坂」p446に詳しい。「足立寺村より御本宮へ参る道の半途にて、東より西の方へ下る坂有、其坂の近辺に民家三軒計ありて、村名にも号せり、此所に在る石地蔵、道の少し北に小高き所にあり、…」ここ腰折坂に「石地蔵」のあったことを記している。周辺を実際に調査すると、北側の斜面は削られ、地肌がむき出しの形状に気がつく。配水地造成工事等により斜面が削られて直線道路になっている。結局あちこち探し回った結果、斜面上部に「石地蔵」こそなかったものの、記述の所に礎石跡を発見した。 京阪電車橋本駅東側に竹林が残り、中腹には橋本家墓所がある。更に上段に墓地があって、戊辰の頃、橋本警衛に当たった久留米藩士の墓石が残っている。
「楠葉台場跡」資料編p192に 明治元年三月一九日、「金沢藩が橋本警衛を免じられ、代わりに久留米藩が命じられる」とある。 なお、現在の寺院は法華宗「感応寺」であるが、当時は「本祥寺」であった。今も入口に法華宗「本祥寺」の大きな石碑【元禄三年(1690)建立】が残っている。また、片岡氏の塋域(えいいき)とは八幡宮巡検勾当「正四位紀正敬朝臣之墓」などの墓石が同所に残ることからその塋域であったことが分かる。 (つづく) 一一
by y-rekitan
| 2019-03-26 08:00
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