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◆会報第90号より-03 綿祔開②

 綿 祔 開めんぷひらく(その2)
=木綿の伝来=

 倉田 美博(会員) 

綿の栽培

 綿の栽培は五月初旬(八十八夜前後)にタネを蒔き時期で、その時期はちょうど野良仕事・茶摘み・養蚕などで農家にとっては繁忙期にあたる。
 成熟期(九月末頃)に秋の長雨の時期と綿花の収穫時期と重なり品質低下を招き、農繁期ともかさなり、農家の過重な負担がかかり、綿の栽培がなかなか需要の増大には付いていけなかった。
 綿栽培には良質の綿花を多収するためには自家生産の堆肥だけでなく、干鰯や油粕等の金肥(お金で購入する肥料)の使用を必要とした。
 多く使われる干鰯はほかの畑作にも利用される主要な肥料のひとつだが、干鰯の主要な生産地は千葉県の九十九里浜で、船便にて大阪へ送られてくる。

◆会報第90号より-03 綿祔開②_f0300125_2335793.jpg 正徳4年(1714)大阪に入荷する銀高の大きい品目を並べてみると、米、木綿類、そして干鰯となる。
 綿畑1反からどれだけの白木綿ができるのだろうか。「綿圃要務(めんぽようむ)」より江戸後期、綿生産の先進地大和国では、田畑、1反当り50貫程度として、綿布1反あたりの実綿所要量は約800匁=繰綿200匁(実綿の25~30%)で算出すると白木綿約60反ができることになる。これは大和という先進地のことであり、地方ではこの半分も行かないところの方が多かったのではないだろうか。
 江戸時代、農家1戸当たりの平均の家族数を6人として、白木綿などを合わせて毎年1人当り3反の綿織物を自家消費すると仮定すると(実際はもっと少なかったと考えられる)年間綿布の所要反数は18反。これを生産するのに必要な綿畑は豊凶差も生じるが5畝で自家消費は賄える計算になる。農家の実際の作付け面積はそれにとどまらず、生じた余剰分は商品となり、市場に出回っていた。

輸入綿

 わが国で栽培されていた品種は「アジア綿」で綿実も小さく綿の果実が下向きで、旧来の糸紡ぎや機織りには対応できるが、明治以来主流の機械製糸紡績には対応することが不向きなこともあり、明治19年(1886)いわゆる企業勃興期に入ると、綿業近代化に伴い資本家たちはインド・中国からの輸入綿を原料として国内綿を切り捨ててしまった。大正時代には国内での綿花の栽培は見られなくなってしまった。◆会報第90号より-03 綿祔開②_f0300125_21491285.jpg 山城地域では消滅した綿作畑は、梨畑のほかナス・スイカ・早生甘藷などのほか、都市近郊の地の利を生かして菜種栽培に転換されていった。
 京都の経済の発展は茶の湯とそれに関連した産業の影響が大きいと聞くが、綿栽培とそれを取りまく産業も江戸時代の経済の発展や庶民生活の向上におおいに寄与していると言っても過言ではなかった。

綿が伝来までは

 綿が我が国に伝来するまでは我々庶民はどのようなもので作った衣服を着ていたのだろうか。
神話の世界になるが、大国主命とともに我が国を創ったとされる少彦名神(すくなひこなのかみ)が出雲の三保の松原にやって来た時、古事記の記述を借りれば、
『波の穂より天羅摩船(かがみふね)に乗りて、鵞(ひむし)の皮を内剥に剥ぎ、衣服に為て、・・・』
 羅摩船とはガガイモの殻でできた舟、鵞とは蛾のこと。少彦名神は後の一寸法師のモデルとなった神で、蛾の皮(正確には判らないが蛾の蛹(さなぎ)を覆っている繭ではないだろうか)に包まれてやって来たと記されている。少彦名神の大きさは手のひらに軽々と乗るくらいだっただろうと推測される。
まだ、織るという技術は確立されておらず、動物の革などをなめして、衣類として利用されることが多かったのではないかと考えられる。

 『綿』と言う文字は「わた」以外に「めん」や常用の読み方以外に「ベン」「つら(なる)」と読む。
 意味としては㋐繊維状(細い糸状の物質)のものが絡まりあってひとまとまりの状態になっているもの。㋑ワタ(アオイ科ワタ属の植物)から取れた細い糸状の物質。㋒蚕の繭(まゆ)を引き伸ばして作ったもの。㋓繊維状の植物の実を引き伸ばして作ったもの。だと言われている。
だから、『綿』は布状、あるいは糸状のものを表す文字だったとのこと。
 その内一つ気になるものがある。それは㋒蚕の繭(まゆ)を引き伸ばして作ったもの。だ、ということは、絹も『綿』もワタだったことになる。
 以前は植物としてのワタは『棉』と言う文字であらわされていたが、今ではすべて『綿』に統一されている。(本文も「綿」に統一して表記した)
植物から紡がれる綿を「木綿」といい、蚕から紡がれるものを「絹綿」という。

 神話の世界は別として、『日本書紀』持統天皇の7年3月の条には「天の下をして、桑・紵(カラムシ)・ 梨・栗・蕪菁(あおな)等の草木を勧め植ゑしむ」として、苧麻(ちょま)栽培が奨励されています。
 木綿が知られていなかった頃には庶民は麻布以外、肌につけるものを知らなかったからで、柔らかさ、肌触りのよさは抜群で、麻と比べると保温性に優れ山野、田畑で働くための作業着には最適だった。
 また、染色もたやすく、次々と新しいデザインが考案され、若者、や特に女性に好まれた。

 養蚕はいつごろから始まったのだろうか。纏向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)は巾着状の布が出土している。魏志倭人伝の邪馬台国と重なる3世紀ごろのものとなる。すでにその頃、纏向周辺では養蚕が行われていたのだろうか。もし、行われていたとすれば大陸から渡来した家蚕ではなく、我が国に自生している種(天蚕)ではなかったかと推測される。その頃にはまだ、家蚕の餌となる桑はわが国には伝えられていないといわれる。わが国に生息する、天蚕は桑だけでなく、我が国に自生する栃(とち)、橡(くぬぎ)、樫(かし)なども食するので飼育することも可能で、はじめは飼育するというよりも野生のカイコガがさなぎになったのを採取してきたのではないだろうか。
 さらに詳しく勉強してからでないと確証は得られないが、いずれにしても、わが国へは弥生時代前期(紀元前3世紀)に中国江南地方から朝鮮半島を経由して北九州へ伝来した稲作技術とともに養蚕技術が伝えられたようだとも言われている。
 ◆会報第90号より-03 綿祔開②_f0300125_2254646.jpg古くからの繊維には、外来の麻(大麻、苧麻)、繭から紡ぐ絹や在来の楮(コウゾ)、科(シナ)、芭蕉(バショウ)、楡(ニレ)、藤(フジ)、葛(クズ)など国内に自生する植物の内皮の繊維を利用していた。これらの植物繊維で作られた布は、木綿の伝来により、主役の座を明け渡したが、さらに明治以降の羊毛の輸入、化学繊維の開発などにより多様化して、我々の選択性も広がり、種々の材料を組み合わせることによって、オシャレを楽しむことが出来るようになった。また、地域おこしとして古代布が見直され、異なった製品として、重宝されている。

 苧麻はイラクサ科の植物でイラクサのようなとげはないものと思えばよく、苧麻は東南アジアが原産地で繊維材料として、朝鮮半島経由で縄文時代(紀元前3000年以前)に、人の移住に伴って伝来し、栽培されてきたといわれており、弥生時代の遺跡からすでに苧麻の繊維で編んだ布が発見され、縄文土器の模様は麻類の縄を用いて付けられたのではないかと考えられる。

 古墳時代以降になると渡来人により種々の新しい技術が我が国に伝えられ、織物の技術も向上したが、絹織物など高級な布は一部貴族階級のみが用いており、一般的な庶民の普段着としては適さず、やはり在来種の植物繊維や麻類で織った布が使われていた。
綿が我が国で栽培が増大するに従い、今まで栽培されていたカラムシ(苧麻)は栽培放棄され徐々に雑草化してしまった。

 我が国の衣料もながい歴史のなかで、いろいろと新しい素材が使われるようになり歴史の中で変遷を見ることが出来る。

 柳田国男は「女性史学」の中で
 カゼは以前には流行病の一つ、または眼に見えぬ悪霊の所為とも想像せられていたことは、風邪という語からでもよくわかる。つまり今のように普通の病ではなかったので、この変遷と衣類とは関係があるらしいのである。我々の衣類はどう変わってきたかというと、是もやはり柔らかくなり、また糸が細く目がこまかくなっている。「木綿以前の事」という一文に、かって私はこの点を少しく考えてみたことがある。麻糸にも精粗(せいそ)の差はあるが、もともと手先の業だから常人の着物は糸が太く布が強くて突張っていた。
 まるまるとした人のからだの表面との間に、小さな三角形の空間が幾らでもできていた。日本は欧州とは反対に珍しい夏湿の国で、住民はまたおそろしい汗かきである。汗は放散して冷を取る。
 麻や栲(たえ)を着ていた時代には、その扇は使わずともすぐに蒸発したのだが、木綿になってそれをほとんど不可能にしたのである。だから夏分は肌がいつも沾(ぬ)れている。・・・

と、言っている。少し長文になったが原文のまま引用した。
 彼は木綿がすべてではない。それぞれに長所があり、短所がある。我々その長所、短所を上手に利用して使いこなすことが大切だと言っているのだと思う。

<参考資料〉
 tenki.jpラボ
 山城盆地南部における明治期の商業的農業はじめ    乾 幸次
 江戸時代綿作の分布と立地に関する歴史地理学的考察  浮田典良
 新・木綿以前のこと 苧麻から木綿へ         永原慶二 
 カイコガの種で見る日本の古代養蚕史         中沢 隆 
 木綿以前の事                    柳田邦男


この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

by y-rekitan | 2019-03-26 10:00
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