人気ブログランキング | 話題のタグを見る

◆会報第90号より-02 松花堂昭乗

◆会報第90号より-02 松花堂昭乗_f0300125_23262477.jpg
《会員研究発表》
下向する昭乗

2019年2月  松花堂美術館講習室にて

奥山 邦彦(会員)

 2月23日午後1時30分より、松花堂美術館講習室で表題の会員研究発表がありました。松花堂昭乗と師瀧本坊実乗、その師乗裕、そして昭乗の兄中沼左京について語られ、東へ西へ下向する昭乗の活躍ぶりを多くの史料とともに紹介されました。講演の概要は発表者の奥山氏により直接執筆していただきました。    (参加者は39名) 

はじめに

 慶長17(1612)年9月29日八幡山の式部下る。八幡惣中の使として南禅寺の金地院崇伝のもとへ出向いたのである。昭乗はこのころより式部卿と称している。これ以後東へ西へ、そして北へと下向する昭乗を書状に散見する。そこで先ず慶長年間の終わり頃までの瀧本坊と昭乗とについて一考し、その後下向する昭乗を紹介します。

Ⅰ、瀧本坊乗祐・実乗・昭乗そして中沼左京

1、乗祐 
 大日本史料DBには、天正10(1582)年6月14日の条に「前太政大臣従一位藤前久 5月日辞、6月2日落飾、道號龍山、同14日出奔、違武命」〔公卿補任〕、「近衛相国(前久)、自三七殿(織田信孝)可有成敗之旨」の風説〔兼見卿記〕、「近衛殿御生害トテ」の風説〔多聞院日記〕等々と記されている。明智の乱(本能寺の変)の時、近衛前久の置かれていた状況である。この苦境から出奔して嵯峨に隠れ、その後遠江浜松へ遁れた前久は、天正11年9月4日家康の取成しにより京都へ戻る〔多聞院日記〕。後、慶長年間に前久が息子信尹に宛てた書状に、この乱の時に受けた瀧本坊(乗祐)の懇切に深く感謝し、その後社参するときは瀧本坊へ参り、自身遠州から上洛の刻には神馬一疋ひかせ瀧本房へ遣わし、また信尹薩州在国の砌立願に瀧本房へ神馬一疋をひかせたことなど、瀧本坊との関わりを書き送っている。(*1)
 この前久が瀧本坊乗祐へ寄せた深い信頼により、瀧本坊は五摂家筆頭である近衛家の徳択に潤いてこの後繁栄の道を歩むことになる。
天正14年上杉景勝 於瀧本坊御振舞有之(大日本史料DB)。
天正15年8月15日 豊臣太政大臣 宿坊瀧本坊 と刻まれた金銅釣灯籠(石清水八幡宮蔵)。
乗祐は茶人
・天正6年1月30日 津田宗及自会記に耳徳、瓦林越後、瀧本坊とある。
茶壷に関する書状
天正14年以前の4月7日 抛筌から瀧本坊へ 利休居士 壺之注文(八幡山瀧本坊珍蔵録、国会図書館蔵)。
天正15年7月初旬 津田宗及から瀧本坊へ 壺の保管を依頼(小松茂美『手紙:人と書』二玄社、1954年)。
 津田宗及は京都より取下してきた壺をもう少し涼しくなるまで預かってほしいと瀧本坊へ依頼している。津田宗及や千宗易の注文を受けて男山の瀧本坊では茶壷を保管していたのであろう。また、千宗易から瀧本坊乗祐へ宛てた書状「橋立の文」は、秀吉の仕置を批判する胸の内を乗祐にさらけ出したものであった(小田栄一『利休の文』求龍堂、2001年)。
 乗祐は天正19(1591)年2月22日に死去した(泰勝寺墓碑)。

2、実乗
 乗祐が死去したのちの瀧本坊を跡は小川の子実乗が継いだ。近衛家に少しの間手習いとして居たが、一門(一乗院尊勢)が小姓にと云ってきたので、それへやった。それ以後は不通である。つまり一門の小姓をしていた実乗が瀧本坊に移った(*1)。豫州7万石の大名小川土佐守裕忠の子であった。
「松花堂の師実乗師も殊外の高位也、松花堂とは年はあまりちかい不申よし(*2)」とつたえられる。この時の実乗はまだ10歳になろうかという少年だったことになる。小川家~近衛家~一乗院~瀧本坊へと居を移した。
以下はその後の小川家についての事である。
・天正18年 小川土佐守裕忠、従秀吉公、豫洲7万石
・慶長5(1600)年御家断絶
 「諸家没収之部、7万石 伊豫今治 小川土佐守裕忠」、「其重宝、國司茄子の茶入以下数多の名什を譲り受く、瀧本に名器あるは悉く此小川氏の所蔵なり」(*4)。
 「其時分は実子相続なけらは断絶する趣にて実乗還俗の事東照宮より被仰出候ことも御時誼被申に付神妙に思召、則其家財不残瀧本へ被下候、其悉売払一家中分相応にわかち外へ有付申様に被致候由」(*2)。

3、中沼左京と昭乗
 「昭乗の兄中沼左京(幼名は喜多川與作)5歳、昭乗(幼名は辰之助)3歳の時、近衛公へ其親父ひそかに託し奉られ陽明家にて成長した(*2)。
「與助は幼少より近衛信輔公の御前に侍り、信輔公は其聰明人に勝れたるを見給いて、中沼家の名跡を継がせ、一乗院御門主(尊勢)に仕ヘさせしめ給うべく思召さる。天正19年3月11日與助仰を受け賜わり、喜多川を改めて中沼與作と云う、時に年12歳、これより御門主の御前に候へり。時に信輔公より御門主ヘ進ぜられし御文に、
与作儀、御そばちかく参る者の事候間、中沼に被成候へく候、子細ある名字にて候はゝ、其御心得有べく候、
中沼は魚名公御眷属の末にて、御家門御累代御家来の由、御家の御記に見ヘたりとぞ、 かしく、
                     信輔
     一門様
御門主此御文御覧の後、これを與作に賜る。
御門主は近衛前久公の御子なり、御名を尊勢と申す」(*3)。
 天正19年(1591)は大きな変動の年となった。
乗祐の死後、実乗が一乗院尊勢の小姓から瀧本坊の住職になる。10歳になろうかという若さであった。一方、信輔(近衛信尹)に仕えていた喜多川與作は3月11日中沼姓を給わり中沼與作と名乗る、12歳、これより御門主(一乗院尊勢)の御前に仕えた。その後、慶長3年頃に昭乗が男山に上り鐘楼坊へ、瀧本坊実乗を師として仕へた。こうして陽明家で幼いころから手習いを受け文化教養を身につけた少年たちが、一乗院へ瀧本坊へと配置されていった。瀧本坊が陽明家の文化ネットワークに自然と組み込まれていったわけである。

Ⅱ、昭乗と芸術

 昭乗は陽明家に於いて筆法を近衛前久公・信伊公から学び入木の道を底を尽くして伝授された。また陽明家に所蔵する数多の典籍についても学んでいたことと思われる。慶長8(1603)年8月には『三部抄 未来記/詠歌大概』を書いている。近衛家所蔵の本を書写したものだという。慶長12(1607)年7月21日、「御口事集」を書いた。これは真言宗の秘事を書いたもので、智積院権僧正祐宜が所持していたものを実乗が昭乗に書写させたという。実乗とともに仏法の修行に励んでいたことが知れる。慶長18(1613)年には「弘法大師再遺告」(神護寺蔵)、「百人一首色紙帖」(八幡市松花堂美術館蔵)を書く(*5)。元和2(1616)年4月「三十六歌仙画帖」(泉屋博古館蔵・近衛家伝来)を描いた。”慶長年間後半頃までには相当の技量を備えていたものとみてよい。元和8(1622)年には「十六羅漢図」(龍光院蔵)を描く。若くから絵の修行をつんだ昭乗であれば、このような大作を描くことは十分に可能であった” (*6)とされている。また実乗は先師乗祐の跡を継いで瀧本坊の茶の湯を深めたことと思われるが、実乗も、実乗に師事した昭乗も共に陽明家で身につけたであろう公家様の茶の湯の影響もうけつつ稽古に励んだ茶の湯の名手であった。

Ⅲ、八幡山之式部下ル

 慶長17(1612)年9月29日、八幡山之式部下る。式部卿昭乗29歳の時であった。金地院崇伝のところへ八幡惣中の状を持参した。その後12月2日将軍様黒印状幷奉行書出両通を持参し、12月19日それが金地院崇伝のところで書写され、その返書を八幡惣中へ持ち帰った。公文所の所領が天正13年以来の通りと認められたのであった(*11)。
 この前後は八幡にとって重要な時期であった。
 先ず慶長3(1598)年に推定できる10月28日付「瀧本坊宛浅野弾正書状」(大阪城天守閣文書)は「八幡宮御祈祷牛王御札、菖蒲革三枚の御礼」と、次に石清水八幡宮の「本知行物成」について、「八嶋九右衛門(増行)かたより相渡之由候、」とある。浅野弾正長政から瀧本坊(実乗)へ本知行物成について云い渡されたものであった。豊臣政権の浅野弾正は瀧本坊実乗を取次として交渉していたのであろう。当時石清水八幡宮寺の所領は豊臣政権のもと直轄支配下にあり、年貢などが収取されていたことが考えられる(*7)。
 その後慶長5(1600)年5月の徳川家康朱印状で検地は免除されたが、豊臣奉行衆よりは家康による内縁の馳走と批判されるものであった。
 慶長15(1610)年9月25日家康朱印状(*11)は、八幡八郷に対し「先年検地免許之神領之内、為地下人之役、安吾之神事相勤之間」、「検地令免許、守護不入之上者、神事霊地等、不可有油断、諸事社法之次第不可相背候」と定めた。
 地下人は:徳川将軍家に対する天下安全の祈祷、安吾頭役神人は地下人の神役として安吾頭役に勤仕する。
 将軍家は:検地免除と守護不入を保障、諸役負担の免除、山上山下の社法次第のもとで検断や自治を免許する。
 ここに豊臣期に一時停止されていたと伝えられる安吾神事は、石清水側の政治交渉の結果、家康によって再興された。
 領知安堵と安吾神事役を勤める奉公とで結ばれたところの、徳川将軍家と安吾頭役神人との個別の特殊な主従制的契約関係が確かめられる(*8)。
 慶長18(1613)年7月23日徳川秀忠八幡八郷に続目の条目を出す〔秀忠黒印状〕(*11)。

 『大日本古文書 家わけ四 石清水文書之三』(東京大学出版会)に[相応院様御文]が収録されている。慶長4~5年社務職改補に関して8通、慶長16年~18年検地免許、道二・忠右衛門闕所、八幡社務家知行ほか20通である。
 八幡のことで かめ(相応院)が大きく関わったことがわかる。八幡は大喜びであった。上(家康)様への御礼として菖蒲革10枚を八幡惣中(山上山下)より披露、御かめ様へも銀子3枚が進上された。道二・忠右衛門は慶長16年家禄家財を捨て八幡を脱走した。豊臣家支配下で八幡八郷において実務の中枢にあった人物と思われる。闕所地は豊蔵坊に付けられ、「よししま山いやしきなと」は廻職の社務家が使用することになった。

Ⅳ、下向する昭乗

1、広島へ
 ・元和5(1619)年11月24日、星野宗以宛式部卿書状(*14)
 広島から式部卿が宇治の星野宗以へ送った消息である。加増転封した広島城主浅野長晟に招かれたらしく、広島に下着した昭乗は御城で振舞をうけ首尾よく御祝儀の役目を果たした。弥介に合って移封後間もないこの地では、知行わりもまだの状態なので茶代も集まらないこと、道二は腫れ物の具合が悪く所むつかしく心配のことを伝えている。星野宗以は宇治の茶師の中でも上林味卜につぐ家柄で、昭乗の妹が「星野某ノ妻」(*3)とあることから昭乗とは姻戚関係にある。片岡道二は片岡弥吉のことであった(*12)。八幡を脱出した片岡道二は芸州へ下り潜伏、事件が落ち着いてから宇治へ、御茶御用を勤めた。
◆会報第90号より-02 松花堂昭乗_f0300125_94288.jpg
「御扶助合力につき奉歎願口上書」における片岡道二(弥吉)(*13)
慶長度関東御朱印43石余拝領
雄徳山八幡宮神領本願地年預役を務めていた。
浅野長晟公は繁々道二宅へ来られ、一緒に鷹狩をしていた。
八幡神領は殺生禁制守護不入のところ、年預役を勤める身でありながら我侭の振舞は神領を穢すのみならず田畑を荒し難儀しているので、御制札を下し置かれるよう八幡惣中百姓共より関東へ願い上げた。守護不入の地へ初めて御制札建ててもらい、御文言初筆には鷹狩禁止を記してもらった。
それにもかかわらず弥吉は長晟公をお招きしては乱法するので八幡社務之者幷百姓どもは、公武へ長晟公をはじめ弥吉を訴えることに衆評一決した。
もはや容易ならざる場合に成り、長晟公様も殊の外御心痛の故弥吉一身に引受御指図に任せて、慶長16(1611)年家禄家財を捨置き八幡表を脱走、芸州へ罷下り潜伏。
漸事件が落着いてから芸州より宇治表へ家内引纏い住居し、其節御報謝として家屋敷茶園茶畑等御買上げ、其上年々御合力玄米百俵ずつ下し置かれ有難く茶業仕り御茶御用を勤めた。
弥吉は隠居して忰宗知に家督を譲り自分は芸州表へ下り御館様へ脇近仕した。
◆会報第90号より-02 松花堂昭乗_f0300125_14124874.jpg

2、南都一乗院へ
・元和4(1618)年12月13日付 瀧本坊宛式部卿書状(泰勝寺蔵)
 秀忠の第五女和子を後水尾天皇の女御として入内させることは家康の在世中慶長十九年三月朝幕間の約束事であった。同年末から翌元和元年にわたる大坂冬の陣・夏の陣、元和2年家康の死、元和3年後陽成上皇の死があり、諒闇明けを待つかたちでいよいよ和子入内は詰めの段階に入っていた。そこに およつ御寮人の一件 が起った。四辻公遠の女で宮中に仕え、およつ御寮人と呼ばれていたものが天皇の寵愛をうけて皇子を生んだのである。秀忠、幕府の面目は丸つぶれとなった。 
 元和4年6月、板倉伊賀守と広橋兼勝が入内のことで談合。その後8月、藤堂高虎は江戸を離れる。高虎は外様大名ではあるが、秀忠が最も信頼を寄せる側近の一人であった藤堂高虎は11月3日に上洛し、この緊迫した状況を収拾し、和子入内を成就するため奔走を始める。
 この書状は元和4年12月13日付で、16日に南都の一乗院で催される十宮(庶愛親王)得度式に関する状況報告である。式次第その前後の様子は『時慶卿記』に詳しく書かれ、上京して間もない高虎の馳走ぶりが見て取れる。高虎の目指す交渉相手は近衛信尋である。この江戸初期に起こった和子入内をめぐる朝幕間の紛争は、この後、秀忠上洛中の元和5年6月20日文智女王が誕生(母およつ御寮人)し、秀忠の怒りは頂点に達したことであろう。秀忠離洛の9月18日、秀忠の奏請により不行儀を理由に天皇近臣の公卿に流罪、出仕停止等の処分が下された。その後高虎の尽力により元和6(1620)年6月18日和子入内は成就、処分された公卿たちは同6月27日に赦される。後水尾天皇は寛永6年11月8日譲位し上皇となり、和子の子、興子(明正天皇)が即位したことで一応の決着を見ることになる。
 書状の追書で昭乗は「いらぬことをして、かけもの茶入れもちてまいり候事やと、くやしく御座候」と書いている。
自分も一席設けて御茶を披露するつもりでいたのであろう。茶の湯にも相当の自信がうかがえる。

3、江戸から尾張へ
・(年不詳)3月12日付 中沼左京宛式部卿書状(『昭乗と徳川家ゆかりの人々』八幡市松花堂美術館、2011年)◆会報第90号より-02 松花堂昭乗_f0300125_11391874.jpg 昭乗は江戸にて公方様御礼首尾よく申上げ、御ふくなど拝領した。その帰りに尾州を訪れ、義直から歓待された様子を報告、義直は昭乗を正客に招き名器を揃えて茶会を催して手厚くもてなした。この時に使われた茶道具は今も徳川美術館に収蔵されている。徳川義直が中納言であったのは元和3年7月19日から寛永3年8月18日まで、この書状は元和4年から寛永3年のものと考えられる。

4、江戸下向
 昭乗は将軍家書道指南の大役を果して寛永6年に帰山したという(*9)。
以前に『松花堂所蔵古文書集 全』(国立公文書館蔵)の分析を通じて、この書が将軍家書道指南に関係するものであることを考察した。(拙稿、歴史を探究する会八幡会報35号掲載)

5、賀州へ
・(年月不詳)26日付 中沼左京宛瀧本坊書状(*9)
・(年不詳)正月12日付、中村久越宛前田利常書状(※14)
 昭乗の第一の門弟、中村久越(本姓大江氏、始は久六と称す、諱直記、号卓斉)は八幡宮社人で住居は志水にあった。能書で前田氏へ祐筆として召し抱えられていた。後故郷へ帰る。前田肥前守利常、初めは筑前守と、後に小松中納言、加賀・能登・越中の守護。昭乗は賀州へ罷下り去14日に帰った。筑前守殿に書院にて度々御茶をいただき銀子や衣類など御振舞をうけ歓待された様子を伝える。
 書状は、久越が年頭の祝儀として筆一箱を差上げたことに対する肥前守利常の礼状である。

おわりに

 以上のとおり、昭乗は八幡惣中の使僧として南禅寺の金地院崇伝のもとへ出向き、南都の一乗院からは庶愛親王得度の事前の状況を実乗に報告、瀧本坊の大旦那である広島城主浅野成晟のところへ加増転封の祝儀に伺候し、また星野宗以へ八幡を離れ広島にいる片岡道二の様子も伝える。幼少のころから陽明家で成長し深い教養を身につけていた昭乗、書画芸術、密教、茶・歌の道などにいよいよ研きがかゝり、さぞ人々から尊敬の念をあつめたことであろう。将軍家・尾張・加賀・広島と幕府・雄藩で歓待される昭乗は人間性・芸術性あふれる魅力的な高徳の僧侶であった。他方、小堀政一・徳川義直・永井尚政・永井直清・板倉勝重・重宗など京を統治する幕僚たちと親しく交流する政治的な人物でもあった。ここに登場した乗祐・実乗・中沼左京そして昭乗、いずれも江戸時代初期の朝幕の間で男山に近衛家に関り活躍した人たちであった。

<参考文献>
(*1)橋本政宣「瀧本坊とその文化の源流」(『日本歴史』281号、吉川弘文館、1971年)。
(*2)細合半斎『男山栞』(国会図書館蔵)。
(*3)『中沼家譜』(八幡市松花堂美術館蔵)。
(*4)『近江神崎郡志稿』(滋賀県神崎郡教育会、1928年)。
(*5)山口恭子『松花堂昭乗と瀧本流の展開』(思文閣出版、2011年)。
(*6)門脇むつみ「松花堂昭乗筆『十六羅漢図』」(「南遊行」0号、龍光院発行、2014年)。
(*7)鍛代敏雄「石清水八幡宮の牛玉宝印について」(栃木史学、2013年)。
(*8)鍛代敏雄「中世移行期の石清水八幡宮寺と幕府・将軍―安吾神事をめぐる政治交渉」(戦国史研究61号、戦国史研究会編、2011年)
(*9)佐藤虎雄『松花堂昭乗』(河原書店、1938年)。
(*10)『寛政重修諸家譜』(続群書類聚完成会、1965年)。
(*11)『石清水八幡宮史 史料第六輯』(続群書類従完成会 1936年)。
(*12)『本光国師日記第八』(大日本仏教全書、仏教刊行会、1915年)。
(*13)『片岡道二家文書』(宇治市歴史資料館 2013年3月)。
(*14)『招堤村片岡家文書の研究』(枚方市立中央図書館市史資料室、2009年)。

『一口感想』より

多くの資料、古文書を時系列に並べ判りやすくまとめておられました。大変貴重な労作であると思います。日頃の研究熱心さが伝わりました。  (O.S.)
昭乗の詳細が解り、大変良かった。 (A.K.)
昭乗の活躍振りを詳しく紹介していただきました。それにつけても昭乗の出自が気になります。何故、近衛家に託されるようになった理由についても諸説ありますが、ご研究宜しくお願いします。  (T.N.)
久々の参加でした。奥山様に唯々感服致しました。有難うございました。
今日のテーマの中では、昭乗さんと浅野家(広島)との結びつき・交流がとても興味深かった。下向即ち交友力,政治力(文化力)行動力ある昭乗の更なる魅力発見です。  (T. K.)
興味深い内容でした。 (N.M.)
昭乗の人物像について、知りたいと思って参加しましたが、高尚過ぎて理解できませんでした。残念です。  (F.N.)
 


<<< レポート一覧へ    ひとつ前の《講演会》レポートは⇒⇒

by y-rekitan | 2019-03-26 11:00
<< ◆会報第90号より-01 近江弧蓬庵 ◆会報第90号より-03 綿祔開② >>