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◆会報第92号より-04 横穴墓②

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《講演会》
南山城の横穴墓と被葬者像を巡って(後編)

2019年4月 
八幡市文化センターにて

岩松 保(京都府埋蔵文化財調査研究センター)


 4月20日の講演会での配布資料を 前号の会報91号に引続き、講師の岩松氏の同意のもとに後編として掲載します。

5.横穴の造営主体に関わる評価

 以上のように、南山城地域の横穴墓は隼人の墓ではない、という根拠を示しました。それ以外にも、横穴墓=隼人の墓と考えた場合、辻褄の合わない事実が認められます。
◆会報第92号より-04 横穴墓②_f0300125_21492844.jpg 南山城地域の横穴墓が隼人の故地の地下式横穴墓を真似て造られたとすると、南九州地方で見られる墓制が、隼人が移住させられた畿内及びその周辺の地に分布していないことの説明がつきません(第6図)。同じく、南山城地域以外の地域――第3図に示した九州中・北部、山陰、畿内(京都南部・大阪東部・奈良)、北陸、東海、関東、南東北地方における横穴墓の出現も、“隼人や九州中・北部地方の人々が移住し、故地の墓制を持ち込んだ”と説明されないのでしょうか。
 先述のように、古墳時代後期の墓制としての横穴式石室墳と横穴墓のそれぞれに葬られた人々には何らかの違いがあると考えられています。そうすると、南山城地域の横穴を隼人と結びつける考えは、古墳時代後期の墓制の中に横穴墓をどのように位置づけるか、という問題に対する、南山城地域に限っての解答であった、と言えます。
 南山城地域の横穴墓は、隼人が造った墓ではないと否定しても、結局のところ、横穴墓を古墳時代後期の墓制の中でどのように評価するか、という問題に立ち返るのです。

6.横穴墓の被葬者像の研究


 横穴墓に対して、様々な被葬者像が提出されています。先に見たように、森浩一や『八幡市誌』では南山城地域の横穴墓を隼人が造った墓と理解したように、特定氏族との関連で捉える考えがあります。
 また、横穴墓の被葬者が横穴式石室墳の被葬者と較べてランクが低いことを重視し、それぞれの地域の実状と横穴式石室墳との関係を考慮して、その性格を推定する方法が採られています。松村隆文は、畿内における横穴墓の特色(第3節参照)をまとめた上で、横穴墓の被葬者像は、「少なくとも横穴墓の被葬者が古墳を築きえた人々から区別された集団であったことは間違いなく、彼らの社会的地位が相対的に劣勢であったことも容易に推定できる」とし、その階層は「ヤマト政権への従属度が強く、かつ一般的な群集墳のそれより低い身分集団」としました(松村1988)。被葬者集団の具体的な復元は困難としながらも、奈良市・河内の横穴墓に陶棺が採用されていることから土師部を、南山城の横穴墓を隼人の墓と想定しました。
 横穴墓に副葬された品々が必ずしも劣っているばかりではなく、特徴的な優品が納められている点を重視した視点があります。新納泉は、横穴墓から装飾太刀が出土する例が少なくないこと、石棺や豊富な副葬品を伴っていることを指摘した上で、「何らかの意味で伝統的な在地首長層とは異質な集団の墓と考えることができる」とし、その集団の中に装飾付太刀を持つものがいることは、畿内政権が「伝統的な在地首長の権力を弱体化させる」ために優遇した集団であり、「伝統的な在地首長の権力を弱体化させるために畿内政権が打ち込んだクサビ」のような集団と考えました(新納1983、p.66)。
 茨城県十五郎穴横穴墓群は7世紀中葉~9世紀前葉の間に利用された横穴墓群で、稲田健一はこの横穴墓群を対東北政策に関連した遺跡と捉え、「水上交通を担う集団や兵士といった対東北政策に深く関わった人物、またはそれに貢献した人物」を想定しました(稲田2016)。
 以上、簡単に横穴墓の研究を振り返りましたが、共通しているのは、横穴墓の被葬者を横穴式石室墳の被葬者よりも下位に置き、地域の中で被葬者像を捉えようとしていると言えます。
 しかし、なぜ横穴墓が横穴式石室墳の被葬者よりも低いランクの集団の墓として採用されたのかという議論がなされていません。そしてなぜ、全国に広まったのでしょうか。

7.墳丘のない古墳としての横穴墓


1)墳墓による身分の表象
 小林行雄は、古墳から出土する三角縁神獣鏡を研究し、同笵鏡や同形鏡の分布状況には中央と地方の関係性が反映されていることを指摘しました(小林1961)。
西嶋定生は、前方後円墳や円墳、方墳といった墳形の古墳が各地域・各時期に継続的に造営されている点を重視し、「各地域の墳形を規制する統一的契機」が存在したと捉え、地方の首長は「大和政権との政治的関係を媒介としたばあいのみ」に古墳を築造し得たと考えました。古墳を造営するためには大和政権を中心とする国家秩序に参入することが不可欠であると断じ、古墳の墳形の違いはカバネ制度という身分制に基づいていると論じました(西嶋1961)。
 都出比呂志は、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳といった“墳形”とその“規模”の二側面でその古墳を築造した氏族の格が決められていたと考え、前方後円墳という墳墓形態がその頂点にあることから、当時の社会体制に「前方後円墳体制」という名称を与えました(都出2005)。中央政権の中での首長の「格」に応じて古墳の墳形・規模・内容が決められると指摘しました。
 これらの論考で重要なのは、中央・地方の首長が前方後円墳、前方後方墳などの墳墓を造るにはその古墳秩序を形成している集団関係に参画している、という点です。このことを理解して初めて、“古墳時代の開始と共に広範囲に古墳がほぼ一斉に造られる”ことや、“最初期から画一的な墳形と祭式(副葬品・主体部)を有する”こと、“時代と共に全国的に同一の様式で推移していく”ということが了解できるのです。

2)大化薄葬令における墳墓の秩序
 古墳秩序を示す史料として大化薄葬令があります。これは、大化元(645)年に孝徳天皇により出された改新の詔の中で示されています。それまでの厚葬を改めて、葬送を簡素化することを目的としたもので、身分(冠位)に応じて、埋葬施設(石室)と墳丘の規模、役夫の人数と使役する日数、葬具の内容が定められています(付表)。
 7世紀中葉以降の古墳を調査しても、こういった基準に基づいた古墳は皆無で、ここに記された内容や数値が、古墳時代後期~終末期における古墳の実態を表しているとは言えない状況です。
しかしこれらの記事は、8世紀初頭の『日本書紀』編纂時において、約半世紀前の“妥当な歴史”として認識された範疇を超えるものではなかったと考えられる記事なのです。そして、その後の数十年の間に古墳の規模や築造数が大幅に減じられている事実を考えると、史料に残るような大化薄葬令は施行されなかったかも知れませんが、7世紀中葉以降に厚葬から薄葬に向かうという政策が押し進められたことは否定しがたいと言えます。

 そうすると、大化薄葬令に見られるように、7世紀中葉にあっても墳墓=古墳は中央政権が管轄しており、墳丘や埋葬施設の規模、葬具などが身分を表象するものとして規制の対象にされていたと言うことができます。
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 大化薄葬令では、墳丘の大きさだけではなく、墳丘の有無も規制しており、墳丘の無い墳墓は墳丘のある墳墓よりも下位にランクされています。横穴墓は墳丘の無い墳墓として、横穴式石室墳よりも下位に位置づけられていたのです。
 このように了解すると、横穴墓は横穴式石室墳の下位の墓として、古墳時代後期における古墳秩序の中に位置づけることができます。そして、横穴墓という墓制が九州中部から東北南部まで広く分布することも、それが盛行し廃絶する時期が全国的にほぼ同じであることも、その分布に偏りが認められることも、副葬品が概して貧弱であることも理解できるようになります。横穴墓を築造することは、地域首長が前方後円墳・方墳を築造したり、下位の階層が横穴式石室墳などの群集墳を築造するのと同じく、身分制に基づいた中央政権の承認・関与があったためであり、横穴墓は墳丘のない墳墓として横穴式石室墳よりも下位にランクされたため、と言えるのです。

3)屯倉の分布と横穴墓
 かつて私は、横穴墓を造営するような新たな階層が出現した契機として、屯倉(みやけ)の設置を考えました(岩松2007)。しかし、現在ではこの考えは成り立たないと考えています。
屯倉とは、地方首長による地域支配に対抗するため国内外に置かれたヤマト王権直轄の農業経営地や直轄領のことで、政治的・経済的基盤をなしていたと考えられています。その名称は、王権が領有するミタ(屯田)から収穫された穀物を収納する倉に由来します。屯倉は、国内では東は上毛野国から西は火(肥)国にまで分布していますが、特に畿内から吉備にかけて多く認められ、『記紀』や『風土記』の記載から、国内外に90か所程度置かれていたことが知られています。それ以外にも多くの屯倉が設けられていたようで、大化2年3月に皇太子中大兄皇子が「屯倉一百八十一所を獻る」と屯倉を天皇に返していることから、180を越える屯倉が存在したことが窺えます。
 第7図は文献で知られる屯倉の推定地と横穴墓の分布を重ね合わせたものです。九州や南関東で屯倉と横穴墓の分布が一致するところも見受けられますが、基本的には合致していません。史料に残る屯倉は実際に設置された屯倉の一部ですので、必ずしも両者の分布が一致する必要はありません。稠密に横穴墓が分布する地域、たとえば出雲地方に史料に残らなかった屯倉が設置された可能性があるからです。しかし、逆は明らかに不都合です。瀬戸内や和歌山・滋賀などには屯倉が置かれているのに、横穴墓は分布していません。このことは、屯倉の設置と横穴墓の築造がストレートに結びつかないということを示していると言えます。
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8.横穴墓の分布と地方制圧

1)横穴墓の分布が示すもの
 横穴墓を玄室・墓道を備えた“墳丘の無い墳墓”と規定すると、古墳秩序の中でどのように位置づけられるのでしょうか。
横穴式石室墳が全国に遍く築造された背景については、次のように考えられています。“古墳時代を通じた社会の発展により新たな階層の人々が経済的な力を持ち社会的に台頭するとともに、追葬意識の高まりと追葬が容易な横穴式石室が列島で造られるようになると、ヤマト政権は新たに台頭した階層を古墳序列の中に組み込むために横穴式石室墳を造ることを承認した”、と。そうすると、汎日本的に横穴墓が分布しているという背景も、“無墳丘墓しか造り得ない階層に追葬が可能な無墳丘墓を造ることをヤマト政権が認めたため”と捉えられるでしょう。
 墳丘墓を造り得る身分集団の中で新たに台頭した階層が築造したのが横穴式石室墳であり、墳丘墓を造れない身分集団の中で新たに台頭した階層が築造したのが横穴墓であると言えるでしょう。横穴式石室墳と横穴墓は、墳丘墓を造れる集団と造れない集団のそれぞれにおいて新たに台頭した階層に対して、ヤマト政権が彼らを取り込むために築造を認めた墓と捉えられるのです。
 前方後円墳体制に続いて、飛鳥・奈良時代には中央集権化が進められ隋・唐国を範にした律令制が執り入れられますが、そういった日本史の流れを考慮すると、その背景は、中央集権的な政治体制を指向するような施策が採られたためと推定できます。その施策の結果、それらの地域に新たな階層の人々が出現し、横穴墓が造営されたと考えられるのです。

2)中央政権による地方制圧
 こういった施策はどういったものであったのでしょうか。やや唐突ですが、中央から地方へ派遣された征討軍のルートが、横穴墓の分布と近似しています。以下、中央政権による地方制圧の記事を『日本書紀』『古事記』から見ていきたいと思います。
 九州島は横穴墓が広範囲に分布していますが、景行天皇の九州行幸ルートとほぼ合致します(第8図)。『日本書紀』には、景行天皇12年7月に熊襲が朝貢しないため、景行天皇は九州行幸(西征)に発っています。その経由地・滞在地を記すと、娑麼(さば)から、豊前国長峡縣(ながをのあがた)、碩田国(おほきたのくに)、速見邑(はやみのむら)、來田見邑(くたみのむら)、日向国高屋宮(たかやのみや)に移り、そこに留まって襲国(そのくに)の熊襲梟帥(くまそたける)を討ち、その後、子湯縣(こゆのあがた)、夷守(ひなもり)、熊縣(くまのあがた)、葦北(あしきた)から海路で、八代縣の豊村、高來縣(たかくのあがた)、玉杵名邑(たまきなのむら)、阿蘇国、御木(みけ)、八女縣(やめのあがた)、的邑(いくはのむら)を経て大和に還っています。第8図のように、横穴墓の分布とほぼ一致しています。しかも、佐賀県や長崎県、宮崎県以南に横穴墓が分布しないという点でも合致しています。

 東海道から東山道の太平洋側の横穴墓の分布は、日本武尊の東征ルートと合致しています(第9図)。若干の異同はありますが、『日本書紀』『古事記』共に記されています。『日本書紀』で見ますと、日本武尊は景行天皇40年10月に都を出て、伊勢神宮から駿河の焼津、相模を経て馳水(はしるみず)を渡り、上総国に入り、海路で葦浦、玉浦を巡り、「蝦夷の境に至」っています。陸奥国の竹水門(たたのみなと)で蝦夷の賊首(ひとごのかみ)、嶋津神・國津神等を制圧・虜とし、日高見国で転じて常陸に戻り、新治(にひばり)・筑波を経て、甲斐国酒折宮(さかおりのみや)に入っています。そこから北に向かい武蔵国、上野国を経て碓日坂(うすひのさか)から信濃国に入り、信濃坂を越えて美濃国・尾張に還っています。

 このルート上では、静岡県の焼津から甲斐国酒折宮の間が、横穴墓が稠密に分布する地域となります。焼津は最初の戦闘地域であるのに対して、酒折宮で日本武尊は「蝦夷の凶(あ)しき首(ひとども)、咸(ことごとく)に其の辜(つみ)に伏(したが)ひぬ」と当初の目的が達成したと述べています。このように、焼津から酒折宮までの間で征討行為がなされていたと考えられ、横穴墓が稠密に分布しているのです。
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 北陸道および山陰道東部の横穴墓の分布は、いわゆる四道将軍の派遣先と合致します(第10図)。『日本書紀』では崇神天皇10年10月に大彦命(おおびこのみこと)を北陸(くぬがのみち)に、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海(うみつみち)に、吉備津彦を西道(にしのみち)へ、丹波道主命(たにはのちぬしのみこと)を丹波(たには)に派遣しています。翌年の11年4月には各地の賊を平定したことを天皇に奏じています。西道以外の派兵先は横穴墓が造られた地域となっています。
◆会報第92号より-04 横穴墓②_f0300125_21595221.jpg 横穴墓の分布が見られない西道への派兵は『日本書紀』にだけ記されており、『古事記』には記されていません。『古事記』では、大毘古命(おおびこのみこと)を高志道(こしのみち)に、建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)を東の方十二道に遣わされ、日坐(ひこいます)王は旦波(たには)国へ派遣されています。『古事記』の記載を見ますと、旦波国に派遣された日子坐王に「玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を殺さしめ」とあることや、高志に派遣された大毘古命はその後、会津に向かい建沼河別命と落ち合うなど、記事の内容が具体的なものとなっています。この点で『古事記』の内容が本来の史料に近いものとするならば、東の方十二道、高志、旦波国の三方にだけ派兵されたと考えられ、横穴墓の分布と一致することとなります。
 山陰道中央部にも横穴墓が稠密に分布していますが、この方面にも派兵がなされています。『日本書紀』崇神天皇60年に、出雲振根(いずものふるね)が弟の飯入根(いひいりね)を殺したことに対して、吉備津彦と武渟川別を遣わしています。『古事記』にはこの記事はありませんが、倭建命が熊襲を平定した帰途に出雲に立ち寄り、出雲建(いずもたける)を誅したとしています。
このように、中央から地方にたびたび征討軍が派遣され、征討軍が派遣されたルート上や目的地に横穴墓が濃密に分布しています。両者には何らかの関係があったと想定されます。中央から地方へ征討軍が派兵された結果、新たな階層が生み出されたと考えられるのです。

9.横穴墓出現の契機国造のカバネの分布


 ヤマト政権による中央集権化が進められる中で、地方には国造が置かれていきます。国造とは、ヤマト政権が地方に設置した地方官のことで、その地方の有力な豪族が就いた場合が多く、中央から派遣されたこともあったようです。成立の時期は諸説あり、遅くとも7世紀初めには制度的に整ったと考えられています。
 律令制以前の政治体制は、氏族を基礎とした姓(かばね)によって秩序づけられていました。これを氏姓制度と言います。八木充は、国造のカバネの種類と地域的な分布を検討し、国造のカバネの分布には、ヤマト政権が地方を統合していく過程が反映していると考えました(八木1975)。以下、八木の論考を見ていきます。
 八木は、全国の国造のカバネの分布をA・A'~Dの5地域に分類しました。Aは地名+直(あたい)のカバネを有する国造が分布する地域で、ヤマト政権の中枢をなす大和とその周辺地域となります。A'は臣(おみ)・連(むらじ)のカバネを持つ国造が多い地域で、Aの外域に位置し、「吉備臣・出雲臣など、地域的統一体としての独立性を強固にとどめ」る地域としました。B・CはA・A'の東西に隣接し、Aと同じく直のカバネを持ちますが、Aが地名+直であるのに対して、Bは地名+凡直(おおしあたい)を持つ国造が分布する地域で、Cは部+直または舎人(とねり)(直)のカバネを有する国造が分布する地域となります。Dは君をカバネに持つ国造が分布する地域で、東西の辺境に位置します。A・A'の地域は、それぞれの国造の支配領域が令制国の範囲と合致するものが多いことから、統治組織や領域の統合が早くから進んでいたと考えられています。そして、地域名に直のほか臣・連といったヤマト政権の中で重要な姓が付されている点で、早い段階からヤマト政権の中枢を構成した首長がいた地域と言えます。
 Bの凡直国造は、“凡(おおし)”という語から、小規模な国造を統合して大きな範囲を治めた国造が配置されたと考えられています。Cの部直・舎人国造はウジ名の多くが、名代・子代と関係しており、「王族部民の管掌者となって、王族との強固な貢納関係を形成した」と推測される地域となります。以上のことから、B・C地域は、「より従属関係を強めた国造支配の段階」に、二次的に編成された地域と考えられています。両地域は大和を中心に東西に対称的に位置しています。
 Dは公(きみ)姓国造で、ヤマト政権の版図の東西の両端に位置しており、地域首長が中央政権に服属して国造となりながらも、直を称しない点で、他の国造と較べてかなりの自立性を有したと考えられる地域と言えます。
 第11図は、横穴墓の分布と国造のカバネ分類を重ねたものです。両者の分布を比較すると、C・D地域に横穴墓が多く分布しています。A・A'の地域は、日本海側を除いて横穴墓は部分的にしか分布しておらず、B地域にあっては横穴墓の分布は皆無と言えます。
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国造のカバネの分布と横穴墓の分布、ヤマト政権の地方への派兵先・ルートがほぼ一致することから、地方への征討軍の派遣の契機は、主としてC・D地域、部分的には山陰、丹後・但馬、北陸地域での国造設置という施策の実現であったと考えられるでしょう。征討軍の派遣は、国造設置に反対する地方の勢力を武力で屈服させて国造設置を受け入れさすためであり、その結果、新たな階層が台頭し、横穴墓が築造されたのでしょう。

10.横穴墓を造った人々

 国造は、ヤマト政権の地方官としての性格が付与され、部民などの掌握や貢納、伴造の出仕など、中央から課せられた職務が多く、それを処理するために国造直属の新たな集団が必要であったことは想像に難くありません。そういった新たな集団は従来の古墳秩序の枠外にあったため、新たな墳墓として、墳丘のない墳墓である横穴墓の築造を許したのではないでしょうか。
 横穴式石室墳は7世紀末にほぼ全国的に造営されなくなるのに対して、横穴墓は横穴式石室墳よりも新しい時期まで存続し、東北地方では平安時代初頭まで造墓され、追葬もされています。国造直属であるがゆえに、中央政権の取り決める制度とは別にあり、それゆえ横穴墓の築造は横穴式石室墳が造られなくなった後にも存続し得たと言えます。
 以上の議論から、横穴墓の被葬者に特定の氏族や職能を与えることは困難です。横穴式石室墳の被葬者は、鍛治や海人などの専門集団、渡来人や武人、有力農民層など、多様な集団が想定されており、全国的に単一の性格の集団を想定することができません。一括りに“新たに台頭してきた階層”としか言いようのないものです。横穴墓の被葬者もまさにそのような性格であったと言え、地域毎に様々な顔を持っていたのでしょう。中央軍が派遣されていない畿内、東山道、山陽道の山間部などでも横穴墓の築造が認められていますが、これらは、その地域の国造もしくは中央政権が直接的にその地域の人びとに、横穴墓の造墓を承認した結果と考えられるのではないでしょうか。
 横穴墓の分布から見えてくる集団は、古墳秩序から律令制へと転換していく社会の中で、新たに形成された階層に属した人びとであり、律令制が地方に浸透し確立していくとその中に取り込まれ、次第に消えていく集団であったと考えられます。

参考文献
 
稲田健一「総括 奈良時代以降の十五郎穴横穴墓群」『十五郎穴横穴墓群』ひたちなか市教育委員会、公益財団法人ひたちなか市生活・文化・スポーツ公社 2016
岩本次郎「隼人の近畿地方移配地について」『日本歴史』第230号 吉川弘文館 1967
倉野憲司校注『古事記』岩波文庫 1963
小林行雄『古墳時代の研究』青木書店 1961
都出比呂志『前方後円墳と社会』塙書房 2005
西嶋定生「古墳と大和政権」『岡山史学』10 1961(『中国古代国家と東アジア世界』東京大学出版会1983再掲録)
新納 泉「装飾大刀と古墳時代後期の兵制」『考古学研究』第30巻第3号 考古学研究会 1983
松村隆文「畿内の横穴墓」『研究紀要』1 (財)大阪府埋蔵文化財協会 1988
八木 充「国造制の構造」『岩波講座 日本歴史』2 岩波書店 1975
『岩波古典文学大系 日本書紀』上・下 岩波書店 1965・1967


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by y-rekitan | 2019-07-24 09:00
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