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◆会報第92号より-03 美味しいトマト

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美味しいトマト

木津の流れと八幡の農

倉田 美博(会員)


●美味しいトマトは・・・

 先日、友人が自分で育てたというトマトを1個くれた。食べろ、食べろと言うので食べてみた。これが実にうまい。
 本当に自分で育てたトマトかと、問いただしてみたが、なかなか本当のことは答えなかった。
彼の実家は農家だった。すでに実家は廃虚となり誰も住んでいない。ただ、所有していた田畑は売るに売れず残っている。
 このように耕作放棄地は彼のところだけではない。全国いたるところに点在している。だけど、そのまま放置しておくと近所にも迷惑が掛かるので、彼は数カ月に一度草刈に帰郷している。もうそのような生活を始めてから何年になるのだろう。
 まだ、屋敷もそのままにしてある。だけど建物は誰も住まなくなると朽ちるのも早い。すでに廃虚に近い状態。彼にはもう帰って新しい生活を始めようとは思っていない。今は帰郷した時に寝泊まりするのがやっとだ。家族に一緒に行こうなどとは言えたものではないとのこと。
 何時ものように畑の草刈りをしていた時、お腹がゴロゴロと。屋敷まで持たないかもしれない。作業の途中だしやり始めた作業を中断しなくてはならない。まわりを見渡しても誰もいない。それをよいことに畑の端にシャベルで穴を掘り、しゃがみこんだ。
 彼は草刈りに行く時にはいつもクーラーボックスに冷たい飲み物や食べ物、それにトマトを入れて置く。よく冷えたトマトはひと汗かいた後には何よりのご馳走だ。トマトに含まれているクエン酸が疲労回復に効果があると言われている。
 梅雨も明け、さぞかし草も茂っているだろうなと思いながら、例の場所に草に絡まるようにして、何か赤いものが、それは赤く熟したトマト。見るからにおいしそう。一つもぎ取り、口に入れようとしたがどこか抵抗がある。そこは以前にもよおした場所のようだ。便にトマトの種が消化せずにいたようだ。
 それを私にくれたようだった。
だけどおいしかった。以前に農家の方が夏作には動物由来の肥料を施すと味が濃くなると、言われていた。

●水洗トイレはいつ頃から・・・

 私の記憶は定かではないが。そう遠くない過去のような気がする。
 私の家は子供のころ。いいや、大人になってからも、便所はすべて汲み取り式だった。
 私の生まれ育ったところは京都市内の郊外、近隣の農家の方が、汲み取りに来てくれ、その度に自家製の野菜を置いて行ってくれていったように記憶する。
 人間も含めて動物たちは生きていくためにはものを食べなくてはならない、食べれば必ず排泄しなくてはならない。人間にとって最も大切な生理行為のひとつだ。その排泄物はすべて大切な資源となって、循環型の経済活動として繋がっていった。
 ところが糞尿も台所や洗面・風呂などと同じように生活排水となり、川へ流されて環境汚染を引き起こした。
 水洗便所の普及に合わせるように肥料として利用されることが少なくなり、今では皆無に近い。
◆会報第92号より-03 美味しいトマト_f0300125_23412661.jpg 右の表(表1)は昭和6年(1931)の京都市の汲み取り量だ。すでにほんの一部ではあるが水洗便所が存在していた。
 しかし、大部分は汲み取り式の便所で、その多くは農家がくみ取っていたことが判る。
化成肥料が普及するまではたい肥、家畜の糞尿などと共に人間の屎尿も欠かせないものであった。屎尿の汲み取り量は昭和46年(1971)の511,164klをピーク に、その後は減って行った。下水道の整備が進み、汲み取らずに下水道に流される屎尿の量が増えたからである。要するに水洗が増加したからである。

●八幡は奈良時代から野菜の産地・・・

 わが国で農業(植物の栽培)が始まったのは縄文時代末期と言われている。やがて我が国の政治、経済の中心が畿内(大和、山城)となった。
 我々が生活する山城南部は大きく分けて都(都市部)、大和に近い相楽、そして都や大坂にも近い、八幡などの綴喜・久世にわけることができる。
 特に綴喜は京大坂などの大都市消費地に近く、古くから大都市近郊農村として、野菜などの供給地として換金作物の栽培が盛んであった。
 ふるくは大量輸送には船が重要な役割を果たし、山城南部の中心を流れる木津川(淀川水系)がその収穫物などの輸送に重要な役割を果たしていた。
 八幡には奈良時代「長屋王」の荘園の存在がおおきく、八幡にあった荘園では長屋王の家内で用いる野菜が栽培されていたとの記録があるという。ある大学教授は京野菜の高度な栽培技術の原点になったと考えられると。
 品質の良いものを多収するには栽培環境もさることながら、その卓越した肥培管理が重要なポイントとなる。歴史の中ではぐくまれた高度な栽培技術、適切な肥培管理が生かされているとわたしは思う。

●肥料といえば・・・

 我々は肥料といえば顆粒状や固形になった化学肥料しか思い浮かべない人が圧倒的多いのではないだろうか。
 一般的に化学肥料といわれるものは約100年前の1913年に工業的アンモニア合成に始まる。
それまである程度広く使われていた化学肥料といえば、1842年にローザ ムステッドのローズ(J.B. Lawes)が動物の骨(後にはリン鉱石)を硫酸で処理して製造した過リン酸石灰だけであったといってもよい。
 化学肥料が導入されるまでわが国で肥料といえば農家が自給する堆肥、厩肥、草木灰、刈り草などの緑肥。
 農作物の肥料として農家が対価を払って入手した金肥は菜種油粕、大豆粕、過リン酸石灰などで、これらも利用されていたが、効果と費用のことを考えると、屎尿の方が有利であった。
 ただ、農芸化学が証明するとおり屎尿の施肥は、土壌微生物による屎尿の無機化するために発酵させねばならなかったし、屎尿の汲み取りには手間がかかる重労働であった。
 わが国における農業でどんな形であれ施肥が始まったのは何時ごろからだろうか。また、下肥の農業利用も、それを窺わせる史料は古くから見られるが、明確な記述はやはりかなり時代を下ってからでないとみられない。
 どのような肥料であったとしても栽培作物への施肥は弥生時代、農業が始まって早い時期までさかのぼらねばならない。
 農業は当初、焼ばたや転作から始まった。食料が安定的に供給され始めると定住化が進み、人口の急激な増加をもたらしさらなる食料の確保が要求され始め、同じ耕作地での栽培を余儀なくされた。繰り返し、作物を栽培することにより、その耕作地の地力が失われて生産力を低下がみられるようになった。さらに人口増加はさらなる問題が生じ始め、生活汚物など環境が悪化をもたらした。その対策としても堆肥、下肥を植物の栽培のための肥料として利用されるようになったと考えられる。
しかし、洛外(都市近郊農家)では、屎尿は農業に利用されること、施肥技術の向上で良質な作物を育てることができるようになり、特に、トマト、キュウリなど果菜類の栽培には欠かせない肥料として、珍重されてきた。
 これからの農業は糞尿に頼ることがほぼなくなり、化学肥料への依存度はますます高くなり、食品の清潔感は増していくが、その将来を考えると肥料資源、中でもリン酸資源の有限性が大きな影を落としている。
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●衛生都市洛中・・・
 
 都市部としての洛中であり、概算すると南北に 6km、東西に3.5kmの広がりを持つ.洛中の面積は、現上京区・中京区・下京区の合計面積約20㎢ にほぼ一致する。
 洛中の人口は約25万~30万人(時代による人口の増減はあまり見られない)。
 そこから排出される屎尿は総排出量もおおよそ年間43万石(約77,000㎘・天明8年(1788))と試算されいる。
 もし、これだけのものが回収されなかったら、洛中はどうなっていただろう。まず、衛生面で都市機能はマヒしてしまっていたと考えられる。
 喜田川守貞(19世紀半ば)の随筆『守貞謾稿』によると、京大坂の「巨戸」や「中戸」と呼ばれた邸宅には「雪隠」が、「小戸」と称されたいわゆる長屋には共同便所(惣雪隠)が,それぞれあり、住宅規模の大小や便所の形状に関わらず屎尿は蓄えられていた。それを農家が汲み取り利用していた。
 さらに、小便に関しても、もっぱら溝に棄てたといわれる江戸と異なり、京大坂では公道で放尿することは禁じられ、一種の公衆便所が「尿(にょう)桶(おけ)」道端の至るところに置いて、通行人の尿までをも蓄えられていた。すでに衛生に配慮した都市となっていた。
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●商品としての屎尿・・・

 京大坂など、大都市近郊の八幡をはじめとする山城南部は京大坂、奈良や八幡の山下なども含めた大消費地をひかえた都市近郊農村として、野菜などの栽培も盛んだった。その主要な肥料としての屎尿の供給を京都・洛中より受けていた。
 屎尿の多くは農家によって汲み取られ農作物の肥料となっていた。しかも農家はその糞尿に代価を支払って汲み取らせてもらったのだ。
 農作物の肥料として菜種油粕、大豆粕、過リン酸石灰なども対価を払って入手した金肥であるが、費用対効果のことを考えると屎尿の方が有利であった。
 ただし屎尿の汲み取りには手間がかかり、いかに費用面、効果面ですぐれていても汲み取りに手間がかかりすぎれば肥料としての価値は下がってしまう。
 洛外の農家が利用する量からみると大量の屎尿が必要で、とうてい農家だけでくみ取ることは不可能と言わざるをえない。
 そのために肥料問屋と言われる商人が介在し、やがて公的な機関も乗り出すこととなった。
商品として取引されるようになり、都市住民と農家との間をスムーズに取り持っていた。
 やがて農家の肥料として利用限度を超え、それまで農家が支払っていた対価を、都市住民が汲み取り料として支払わなくてはならなくなった。
 糞尿は蔬菜栽培だけでなく、タケノコ、お茶や米麦栽培などあらゆるものに使用されて良質な作物を育てて、得るものも多くなった。特に、トマト、キュウリなど果菜類の栽培には欠かせない肥料のひとつだ。

●屎尿の輸送は・・・

 大量の糞尿は水運,つまり高瀬船によって,洛中から農業が盛んであった京都南部の農村へ向けて輸送されていた。
◆会報第92号より-03 美味しいトマト_f0300125_1750388.jpg 高瀬川運河は慶長17年(1612)から同18年(1613)にかけて開削され、大坂方面から洛中への物資の輸送を目的として、米・塩その他食料品や材木・薪炭などを過書船や淀船で搬入するのに用いられた。その下り便を屎尿運搬に有効活用したものである。
 高瀬船は1日当り200艘近くも就航できる状態で、洛外への廃物の搬出にも貢献し,洛中と洛外のあいだの物質循環をよりいっそう活発化させていた。
 洛中の高瀬川沿いから積み込まれた屎尿は水上運輸の拠点である伏見まで運搬され、「伏見屎や勘兵衛」といった屎尿商売人を介して京都に隣接する 大坂の農村にまでも販売されたものもあった。
 屎尿は、その成分価に比べて容積が極めて大きいため、運搬に多くの労力を必要とし、供給地である洛中からの距離が遠くなるにつれ価値は小さくなっていく。
 それゆえ、洛南、綴喜の近郊蔬菜栽培地域での施用が多く、稲作、麦作、菜種や果樹、桑、栗その他の栽培に多く施肥されていた。
 綴喜でも八幡近辺の有智郷や大住などでも蔬菜栽培のほか竹林などに多用されており、上津屋村も伏見の屎尿問屋から購入していた。
 孟宗畑では反当施肥量は約150貫から1000貫と言われている。もちろん、米麦類、穀類の栽培にも利用されている。
 又、町場からの排出されるものは安価に入手できるとして珍重された。淀川の舟運が盛んな時は下り便を利用出来たが、船便もなくなり、片引車、牛引車などで、やがてトラックが普及するとトラック輸送も始まった。
 京都府下で主としてトラック輸送は昭和初めころよりで、京都市の屎尿が運ばれた地域は、南桑田郡吉川、綴喜郡大住、有智郷、久世郡御牧、相楽郡相楽地域だった。
 糞尿だけでなく、綿花栽培が盛んになってくると、干鰯や油粕などの金肥の使用が一般化してくる。
 その後、東京オリンピックの頃からは化学肥料が主流となり、現在に至っている。
 今後、農業も水耕栽培など土壌を用いない栽培方法が多くなり、人工知能による無人栽培などが普及すればますます化学肥料を中心とした農業経営となっていくのではないかと考えられる。

【参考資料】 
農業に於ける下肥(ナイトソイル)の利用
都市と農村がはぐくむ物質循環
 ―近世京都における金銭的屎尿取引の事例―
京都市における屎尿の処理と環境問題
 ―昭和30年代までの肥料からそれ以後の廃棄物へ―
肥 料 の 歴 史
 ―人間活動とのかかわり合い-
久馬 一剛
三俣 延子

中村 治

高橋 英一
歴史たんけん八幡         発行 八幡の歴史を探究する会

by y-rekitan | 2019-07-24 10:00
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