「鳥羽伏見の戦い」を題材にした歴史書を読むと、「劣勢になった幕府軍が淀まで後退した時に入城を拒絶されてやむなく八幡・橋本に後退し、大坂へ敗走した」と書かれたものが多く、淀までは詳しく書かれるものの、八幡・橋本の様子は詳しく触れられないケースが目に付き、いつもがっかりします。 楠葉からの八幡宮参詣道である「御本社道」の途中、橋本東浄土ヶ原に「腰折坂」はありますが、薩摩兵が八幡山の御本社道を通って楠葉方面に向かう時、腰折坂に「賊兵三十余人山中に番兵たるを見、これを急襲した」との記録が残っています。新政府軍本隊も八幡での戦闘は激しく、多くの寺や旧家、民家を焼き尽くしました。新選組二番隊組長の永倉新八が残した『浪士文久報告記事』にも八幡・橋本の戦いや橋本陣屋への引き揚げの様子などが記録されています。八幡に多くの史跡が残るものの、石碑や案内板を建てようとする土地柄ではない。しかし、歴史好きだけには、なぜか八幡は垂涎の地であるらしい。 (文と写真 谷村 勉)空白
by y-rekitan
| 2019-09-22 12:00
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