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◆会報第105号より-02 八幡、京都の発掘

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《講演会》
八幡の発掘、京都の発掘
―発掘屋(調査員)人生50年一歩手前―

2021年7月 
八幡市文化センター第3会議室にて

小森 俊寛(京都平安文化財 顧問)
 
 7月17日(土)に八幡市文化センターにて、表題の講演会を開催しました。講師の小森俊寛氏は、長年にわたり京都市や八幡市及び周辺地域での発掘調査に携わられています。講演では発掘調査のやり方から、今までに関わって来られた発掘調査結果等の説明をされました
 本講演の会報掲載原稿は講演者の小森氏に新たに作成いただき原稿には「話題が盛りだくさんとなり当日話しきれなかったことも含め、本原稿で加筆させていただきました。」とのコメントがありました。多くの画像を挿入され、素晴らしい内容の会報掲載記事になり、会報編集担当者一同感謝致します。なお、講演会の参加者は28名でした。

 
はじめに

 私の発掘人生は、1975年頃の地下鉄烏丸線の事前調査からはじまる。京都市内の調査を35年続けたのち、2002年頃から八幡市の調査に携わることとなり、現在はまた京都市内のフィールドに返って継続している。50年近くに渡る長い発掘人生を振り返って、印象深い調査をお話するとともに、日本の発掘調査の今の問題、将来に向けてどうしたらよいか話したい。
 八幡市は石清水八幡宮の門前町として発展したが、その地形は、ゆるやかなまま平地に至るのではなく、山と平地に明確に分かれる特徴的なものである。男山東麓の石清水八幡宮の門前町跡の遺跡は、小さいながら都市遺跡の様相を示している。京都市内は同じ盆地の中だが、沖積低地の内の山際にある少し高い扇状地上が中心である。平安京は天皇の目線で北から見た左側を「左京」、反対の西側を「右京」といい、広い扇状地上の形成された左京こそが、平安時代以来、京都の街が連綿と続いた中心地域であった。◆会報第105号より-02 八幡、京都の発掘_f0300125_09233354.jpg 京都市の地下鉄烏丸線の調査は、烏丸通に沿って左京と重なる中近世京都を南北に貫く大規模な「試掘」の意味合いを持つもので、若い頃に始めたこの調査は、日本において行政発掘が本格化する当初の頃で、京都に限らず全国レベルでのモニュメンタルな調査であり、大変重要な発見が数々あった。
 日本の高度成長と共に、開発に伴う発掘調査が急増し、その際調査員が必要だということで、いわばどさくさに紛れて調査員になったわけで、現在の京都市埋蔵文化財研究所ができる前のことであったが、大学の著名な教授などからなる考古学専門委員が作られ、直接に若い調査員を指導するという、今はどこにも存在しない、大学・大学院と現場を直結させたような調査体制があった。例えば烏丸四条と五条の間に調査区を設け、調査を実施する。現場指導に来られる先生、現場が終わると、早い段階でその成果を先生方の前で成果をまとめて発表をすると、するどい疑問や指摘が飛んでくる。私ら若い現場の調査員は勝手に「烏丸大学」と呼んでいたが、猛烈な学問的指摘に耐えながら行った。烏丸線の発掘調査と整理・研究・報告作業は、それまで門外漢であった私を、都市遺跡が掘れて出土した物質資料(遺構・遺物)で都市遺跡の研究ができる、一人前の発掘調査員に育ててくれた。私はそこで得た考え方とノウハウを発展させるかたちで長い発掘人生を重ねてきた。シビアな発掘調査の一面と、その土地の土中に埋もれる歴史の宝物に初めて出会う、思いきり楽しい一面の、両面の「におい」なりとも示したいというのが、今日の私の第一義です。

(1)戦後盛んになった発掘調査とは?

 1970年代よりあとで行われている発掘調査の大半は行政発掘である。行政発掘とは、昭和25年、埋蔵文化財だけでなく、いろんな文化財を守っていかねばならないということで、政府が作った「文化財保護法」に基づいて行われる発掘である。行政発掘に対するものとして学術発掘があり、例えば古墳の被葬者を調べるという学術的目的のために計画的に発掘するというもので、行政発掘は、土木工事や建設などの開発に伴い工事の前に実施する。しかし、個々の場所に対して、こういう遺跡があってここで何が知りたいとの目的意識が明確であれば学術発掘も行政発掘も本質は変わらない。
 行政発掘の最大の目的は、「記録保存」である。記録の基本は復元できるように行うとされている。発掘を進める過程もすべて記録する。記録のメインは図面と写真で、調査日誌は本来どんなプロセスで遺構を見つけたか、何を悩んだか細かく記録するものだが、現在ではおざなりにされている例が多い。また、発掘調査は国民の財産である文化財の調査であるため、本来完全に公開するもので、調査中に現地説明会を開いて調査を公開することができて始めて行政発掘である。
 現在国内で行われている年間数千件の発掘調査の内99%は行政発掘である。その膨大な調査には功罪両面があり、大量の出土遺物とともに、現代的矛盾も蓄積され続けている。発掘された場所にそれまで存在していた遺跡の大半が工事掘削によって失われてしまうことも罪といえる。功罪の功のほうは、学者が見向きもしない遺跡がたくさん掘れ、そのおかげで新しい歴史情報の蓄積が進み、地域史だけでなく日本史の復元に欠かせない情報となっていることである。

 実際の発掘手順は、①調査区を設定し表土を機械で下げる。②遺構面を検出するとともに、壁面をまっすぐに整える。③遺構を検出してから遺構の掘り下げを行う(図1)
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 2018年に行った長岡京左京三条三坊十六町跡の調査例では、表土と、工場になるまで水田だったので、あま土(水田の土)を取り除き、さらに遺構面ギリギリまで重機で掘り下げる。その後、残した新しい地層の薄皮を手作業で剝いでいく。手作業で分厚い土の層を取り除くのは時間がかかるので、目的の遺構面まで重機をギリギリまで入れられると短期間で遺構面が出せるが、この見極めを適切にできるかが調査員の力量である。壁は手作業で完全にきれいにする。日本の発掘の基本は、土を削って平滑な面に整える、つまり、「きれい」にすることであるというのが私の持論である。わかりやすい例では、遺構は褐色のベース土に、黒褐色の輪郭となって現れる。輪郭がはっきり出てきて、その中を少し掘り下げると柱の跡とわかる。
 手掘り道具も、状況にあわせて様々な種類の道具を使う。遺構面と遺構を検出するために土を削ってきれいにして出し、遺構の掘り下げ調査をより合理的に実施するための道具であり、スコップやヘラなど市販のものを曲げたり、手を加えるなど独自の改良を加えて用いる。手掘り遺構の埋まり方は多様で、道具も必然的に多様になる。肉体労働であるがゆえ、合理的に、が常に課題である。

(2)京都の発掘 ―左京と右京、洛中と洛外-

〇 右京と左京の違い
 私が手掛けてきた京都の発掘調査について説明していきたい。まず、平安京の都市遺跡を説明する際に、左京と右京の違いとして、この2枚の写真が対比的によく使われる(図2)
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左側の右京での調査は、この写真は浅いが、耕作土を取ると平安時代前半期の遺構面がすぐ出てくる。翻って左京は、右側の写真は自分が調査したものだが、遺構面がないほど遺構が多い。この調査地は錦小路烏丸通で、中世の遺構を何度か掘り分けて平安時代後期頃の遺構面が出ている状況の写真。左京の場合は、時代ごとの遺構面(=当時の地面)が複数重なっており、右京では1回分の調査を何度も何度も繰り返すことになる。◆会報第105号より-02 八幡、京都の発掘_f0300125_18435658.jpg遺構面は、平安時代前期・中期、その上に鎌倉時代、室町時代前半、後半、そのうえに近世・近代のようにずっと重なっており、遺構面の数は京都がトップであるが、重なるあり方は京都だけでなく日本ひいては世界の都市遺跡の特徴となっている。
 図3の写真は、四条富小路西入ルの発掘調査地は、四条通り沿いの南側で、京都信用金庫本店の建て替えに伴う調査である。30年前、私が意図的に、室町時代の遺構面が出ているところに遠くの比叡山を借景して、祇園祭の山鉾が四条通りを巡行しているところをプロに撮影してもらった。このタイミングでこんな写真が撮れたのは滅多になく貴重な写真である。

〇 地下鉄烏丸線の発掘 旧二条城
 烏丸線の調査で最も世間の話題になった調査は、織田信長が建設した旧二条城の石垣や濠の発見であった。試掘坑のなかで、のちに濠の犬走りとわかる付近を掘っていた仲間が、まだ落ちる、というので、午後4時半から私が変わり投光器のもと、3m近く掘り下げて濠の底の一部を検出した。これがあとで有名になる、信長が足利義昭のために京都御所の西隣につくった旧二条城であった。神仏を恐れなかった信長らしく、たくさんの石仏や墓石が石垣として積み上げられていた。調査では頭骸骨が出土し、2つ左利きの人物に切られたとみられる刀傷があった。土橋の沈み止めとして使われていた石仏の下から出てきたのを今でも思い出す。ルイス・フロイスの『日本史』のなかに、旧二条城の工事を見に行った時、信長が、周知の目前で女性にちょっかいを出した人夫を切り捨てたとある。この頭蓋骨が信長に切られたその人かどうかはわからないが、京都市の考古資料館開館時の目玉として展示されたこともある。こういう人骨も含めた歴史の物証が重層化して残されているのが都市遺跡の特徴であり、調査手順に加え徹底的に土をきれいにする技術を上げ、各時代の遺構面と遺構の検出精度を上げて始めて、そのような重要な遺構の検出を実現してきた。

〇 地下鉄東西線の発掘 神泉苑
 もうひとつ、烏丸線と御池通りで交差する地下鉄東西線の建設に先立つ試掘調査も私が中心になって行っている。その際に発見されたのが神泉苑の池の跡である(図4)
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苑池の北岸に接し幅4mのクヌギの板材が設置されており、杉山先生はこの遺構を「船着き場」と考えて、管弦の宴の龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の船を出していたのではないかとおっしゃったが、私は魚釣り台では?と反論してみた。
 この調査でも師匠の田辺昭三先生や、「源氏物語千年紀」という言葉を造ったことで有名な角田文衛先生など、錚々たる先生方が現場に集まり調査を検証していただいた。その中に『京都の歴史』で神泉苑の宮殿は池の南側にある、と論じた林家辰三郎先生がおられ、高名な大家の目前で、いや違う、北にあったとの説明をしたが、ご本人も遺構を見て納得されておられた。
 ここで遺構面のベースである扇状地の黄褐色の土は、二条城の南西角のやや内側から北西方向に逃げて、平安宮の大内裏の下へ広がっており、平安宮のほぼ全体と二条城の4分の3以上は扇状地に乗っている。二条城の北側の平安宮跡(内野)には、先行して秀吉の聚楽第が建つが、その頃この扇状地のベース土となっている茶褐色の泥砂土を取り、茶室等の壁土として用いている。以降この黄褐色の土を広く「聚楽土」と呼称するようになる。土一つとっても京都は歴史的である。

〇 中世~近世 下京 山鉾町の調査 -新町蛸薬師通り北西-
 次に、最近手掛けた新町蛸薬師北西角の調査がある。都市遺跡の真っただ中であり、中世を主とした10面の遺構面を調査している。六角町の南辺にあたり、北観音山は調査地の前に建つというような歴史的な町での発掘である。遺跡の中世の土は黒い土で、烏丸線の調査以来、中世下京の土は何故あんなに黒い土なのかと思っていたが、下の京(みやこ)では人々の商工業的営みが土を黒くするようだ(図5)
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 六角町は文献史料に古くから見え、鎌倉時代に滋賀県の粟津から魚屋を4軒呼んで六角町で商売をさせたとの記録がある。小さい町工場のような工房や商家が林立していて、有名な三条釜座も北隣の三条町にあった。土にはたくさん灰や炭や焼土が混ざりこんでいる。こうした黒い土から黒い遺構を見つけるのが一番難しい。順に掘っていくと、13~14世紀の地下の室(むろ)が出てきた。室は魚屋の冷蔵庫のような役割であったと見られ、現在の錦市場の魚屋でも室を残している店がある。今回発掘されたのは鎌倉時代から室町時代にあった室で、床もちゃんとある。室を埋めていた14世紀の土から、鱧や鯛の骨や、鶴の骨まで見つかっており、織田信長が徳川家康を饗宴でもてなした時の記録に残る食材がほとんど出てくる。鱧を食べたというのは、文献的には16世紀や遡っても15世紀といわれているが、この調査により、今に伝わる京都食文化の食材は、山鉾が始まった頃の13~14世紀には確実にあったことがわかった。大量の宋銭も出土しており、この頃下京は貨幣経済の一大中心地であったようだ。黒い土のなかから出土する物質資料は、中世下京が食文化に留まらず、茶道・華道等今に生きる日本文化の一大揺籃の地であったことを物語ると、私は考えている。

〇 伏見-丘の上の近世遺跡-
 伏見も私の古くからのフィールドである。伏見から見た八幡の風景が面白いのであるが、桃山時代の景観と決定的にどこが違うかというと、巨椋池がない。松花堂昭乗がいた男山を、伏見奉行であった小堀遠州が、眺めていた関係。指月からのロケーションも遺跡を知る重要な視点。若い頃から伏見を掘っており、30年ぶりに伏見を掘った所が指月の丘だった。

〇 伏見-丘の上の近世遺跡-
 古い調査では、伏見の京町通で、石敷きで舗装された道を発見した。伏見の町が造られたのは秀吉の時代だが、この舗装された道が造られたのは江戸時代であった。
 伏見で発見された金箔瓦は、指月の城の西南にあたる大名屋敷の跡と思われる場所において、私が行った調査で、地下室(むろ)のような土坑のなかから大量に見つかった(図6)◆会報第105号より-02 八幡、京都の発掘_f0300125_17363018.jpg慶長大地震の際に加藤清正が秀吉を助けに行った話があるが、この場所にいた大名も地震直後に駆けつけ残りのよい金箔瓦を集め、室の中に保管していたと考えているほど、京都のなかで最も残りの良い金箔瓦である。無文の軒丸瓦の意味が当初はわからなかったが、今は秀吉の日輪伝説に因んで「日輪文」というべきと考えている。この軒丸瓦は今のところ指月の丘上とその近辺でしか出土しておらず、木幡山付近では出土していない。

〇 伏見 指月城跡
 世間の大きな話題になった指月城跡は、発掘してから6年になる。私もびっくりしたが現地説明会に2400人ほど来られ、現地説明会も8回行った(図7)
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 ある研究者が、東側の石垣は指月城の石垣ではない、と発言したが、彼が見に来た時にも、指月城の可能性と、その後に作り直された石垣である可能性と、どっちに転ぶかわからないと申し上げている。今のところ、一旦は指月の城を最後改修した際の石垣であるという立場をとっているが、違う痕跡が出てきたらすぐ見解を翻す。君子豹変す、である。
 一方、西側の堀の底から立ち上がってくる石垣は、指月城の石垣と断定的にいえる。間詰石が天正期か文禄の石垣の特徴であるが、この石垣には間詰石がなく濠内に沢山落ちており、金箔瓦を多く含む土で埋まっているのは、文禄末年の慶長の地震にあって埋まったことを示している。

(3)八幡の発掘

 八幡市の遺跡は、その特徴的な地形から「山の遺跡」と「平地の遺跡」という大きな捉え方ができる。もちろん山裾にもあり、善法寺家の跡等がそうである。駅前さらには河川敷の海抜がより低く、南北に走る東高野街道を南に行くほどやや高みが増えるが、町の中心と南に広がる主要部は山沿いの沖積低地に立地する。

〇 山の遺跡:美濃山廃寺
 山の遺跡の代表として美濃山廃寺がある。2011年から京都府と八幡市で同時に調査を行い、広大な範囲を原因者負担で調査することができ、奈良時代から平安時代にあった寺の全体が把握できた。美濃山廃寺とその周辺にあった弥生時代の集落である美濃山廃寺下層遺跡は、1999年大洞さんが入ってすぐ国庫補助事業として毎年試掘確認調査を行ってきた遺跡で、その試掘確認調査の写真をみると、私がうるさく言ってきたので調査区の壁がきれいに整えられ、柱の跡もくっきり見える。美濃山廃寺の寺域北限の溝が、試掘確認調査で検出できていたことが、大規模調査の実現につながった。

〇 低地の遺跡:上津屋遺跡、木津川河床遺跡 一方、低地の村の代表として木津川沿いの上津屋遺跡がある。低地の水田のなか、自然堤防と見られる周囲より少し高い微高地上に現在の集落は立地しており、その西側の水田の下に、中世の遺跡が幾層にもなり埋没していた。土豪の居館を囲ったと見られる大溝や井戸が見つかっている。
 木津川河床遺跡では、19次調査が単伝庵の西で行われている(図8)
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門前町の東端にあたり、一段深くなる調査地東端は水に溶け出るような粘土と微砂が主で、調査がやりにくく土留め等安全対策も難しい所である。しかし12世紀の土師器皿が多量に出土しており、町の中心部を掘れば、開発がそこまで進んでいないこともあり、地下に遺構面や遺物がしっかり残っているだろう。現在の遺跡名「木津川河床遺跡」に町や都市だったという意味は含まれていない。しかし男山の山裾に近い低地部に、「神人」と呼ばれた人々等が中心となって、営々と門前町が営まれてきたことがわかってきている。八幡山柴で行った試掘調査では、2013年の報告書に掲載されているが、現代表土から3m以上下に平安時代中期頃の遺構を確認している。
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同じ頃の調査で、科手の市営駐車場での試掘調査の写真(図9)では、田んぼが積み重なっていて、より深いところに鎌倉時代の遺構が出土している。現堤防内の木津川河川敷で行われた発掘調査では、平安時代中期の高級な遺物が多く出ており、その時期の邸宅があったとも考えられる。

(4)まとめ

 八幡の門前町跡は、今でも掘りたいところのひとつで、何故かというと掘るのが難しく、体力と知力がなければ掘れない。四条烏丸との違いは、向こうが扇状地の高い所に遺跡がある一方、八幡市は京都盆地の沖積低地の内でも一番低い所にある。八幡の場合は遺構面が深いので残りがよいと推測され、歴史情報だけではなく本物の宝物も含めて発掘できる可能性が非常に高い。そのエリアに石清水八幡宮検校・田中家の本宅もある。後村上天皇が南河内から吉野へ落ち延びていく際に、御所のように使われた遺跡でもある。石清水八幡宮の歴史、八幡市の町の歴史は、地面の下の土中に人の痕跡が積み重なり、遺構面の積み重なりとして確実に残っているだろう。調査できれば発掘屋冥利に尽きる。
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 最後に、今の行政発掘の歴史で紹介しておきたいことがある。行政発掘が1970年代に増えたといったが、日本では開発する人が発掘の費用負担をするという「原因者負担」という考えがあり、開発者にとっては戦々恐々という部分もある。田中角栄が日本列島改造論を打ち出したのは1972年で原因者負担の導入に角栄が音頭をとったかはわからないが、最近話題になった「日本学術会議」が政府から諮問され、当時の首相である田中角栄宛てに意見具申した内容が、非常に格調高い。
 「近代における高度成長のなかで、開発がとかく優先される状況のもとでは、この法律の理念が十分に貫徹されない場合がしばしば表れてきている。さらに文化財が単に学術的に資料保存の立場からだけではなく、大気や水や緑のような、環境と同じく、人間社会の健全な発達と成長にとって必要だとする認識には、現行法は十分に答えていない。」
 当時の学者たちは、毅然とこういった意見を述べていたということを、今の我々も深く心に留めたい。「単に歴史資料の消失に留まるものではなく、将来にわたって国民の人格が形成される基本環境の崩壊を意味するものである」とも述べている。
 これを受けて角栄は記録保存という方向で、原因者負担でやればよいという形にした。そして増加することとなった行政発掘のおかげで私は食べてきて、行政発掘のおかげで膨大な物質資料が蓄積されている。都市遺跡の経済発展の証拠となるこの膨大な歴史史料を、個々ではなく総合的に量的に、どう研究するかということを本格的に議論しなければいけないと考えている。そうしなければ、功といえる埋蔵文化財の情報と物質史料の蓄積は、すでに罪に転じつつあるが、近々には完全に罪に転じてしまうだろう。そうした行政発掘の発展期と衰退期にまで携わった者として、八幡市の遺跡は京都市に劣らない魅力的なものであり、どんな状況になってもちゃんとした発掘が必要な重要な遺跡である、と言って締めくくりたい。門前町遺跡が石清水八幡宮の世界遺産のバッファゾーンを補ってくれる可能性も信じて。    
(2021.8.30)

『一口感想』より

◇埋もれた宝を発掘されることは歴史的意義が大きく実に興味深いお話でした。
◇歴史の真実は現場(発掘場所)にあることを痛感。 (O・M)
普段聞けない貴重なお話を聞かせて頂いて、よい経験ができました。ありがとうございました。 (K・K)
大変勉強になりました。小森さんご苦労様でした。 (K・M)
長い間、疑問に思っていた「遺跡はなぜ地中に埋まっているか」についての説明を頂き有難うございました。スッキリしました。 (K・M)
発掘について、あまり深く考えた事が無かったので、新しい建物や道を造る時に、たまたま遺跡が見つかって行政発掘が始まるのかと思っていた。また、発掘のための発掘(?)である学術調査より、圧倒的に行政発掘が多いことを知り驚いた。指月城については、以前NHKの「ぶらタモリ」で観た内容と重なるところがあり、興味深かった。マスクのせいか説明が聴き取れない箇所が多々あり残念でした。八幡の発掘について発展(進展)を待ちたい。貴重なお話をありがとうございました。 (T・M)




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by y-rekitan | 2021-09-27 11:00
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