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◆会報第93号より-03 閼伽井①

石清水五水の閼伽井あかいのこと
―その1―

 野間口 秀國 (会員) 


男山にある三つの頂(いただき)

 大阪と奈良の府県境にある生駒山は標高が642mあり、生駒山系の最高峰です。ここから標高を低くしながら北になだらかに延びて、最北端の八幡市までつながっている様子が大阪市内から見ると良く分かります。八幡市の域内に入ると男山丘陵とも呼ばれますが、その最北端が石清水八幡宮のある男山です。向かい合う天王山との間に陸の狭窄部を造り、桂川、宇治川、木津川の流れを一つにまとめる役目を果たしているようです。
 ところで、この男山には「男山(オトコヤマ)」と呼ばれる頂(いただき)はありません。代わりに個別の名前を持つ三つの頂があり、東側の頂が「香爐峰(コウロミネ)」と呼ばれ、標高は123.8mで、『男山考古録 第二巻』に、「・・・ 唯大宮の御座所より南馬場前の形容を見渡して僧徒のいひ初めしならむ、・・・」等とあり、形が香呂(焼香の器)に似ていることによるものと書かれてあります。東西方向の中央の峰が「鳩ヶ峰(ハトガミネ)」(「科手山(シナデヤマ)」とも呼ばれる)で、三座の中で最も標高が高くて142.5mを数えます。この山頂からは天徳4(960)年と書かれたお経が書いてある瓦が出てきており「経塚」とも呼ばれており、鳩ヶ峰の名を校歌に取り入れている市内の小学校もございます。これら二つの名前は江戸時代に関する書籍や絵図などに記載されている名称で、八幡市文化財保護課の展示室と八幡市図書館入り口左の壁面の絵図(八幡山上山下惣絵図 江戸時代中期)にはそれぞれ、異なる表記で、香炉峯、鳩ノ峯の名が確認できます。 さて残る一座ですが、西側の頂が「閼伽井山(アカイヤマ)」と呼ばれていた山で、標高は134.2mであったようです。「阿迦井山」と書かれた書籍や史料もございますが、この山の名前は前述の惣絵図には見出せません。惣絵図の男山の西側一帯には複数の頂が描かれており、正確に同定はできませんが、狩尾社と鳩ヶ峰の間に描かれた頂がそうではないかと思われます。
 一般的に知られる山(連山や山地、山塊など)の名前と、そこにある頂の名前が異なる例は長野・山梨両県境の「八ヶ岳」や鹿児島・宮崎両県境の「霧島山」など(他にも多く)ありますので、特に断りのない場合にはこの辺り一帯の山を「男山」と呼んでも問題はないと思われます。今回はこれら三つの頂のうち西側の「閼伽井山」に少しこだわってみたいと思います。とは言え、ご本殿などのある香爐峰や経塚のあった鳩ヶ峰(科手山)とは違い、何かが残っている訳でもないのですが、かなり前から「閼伽井」の文字が気になっていたからです。

閼伽井とは何

 そもそも「閼伽井」とはどのような意味を持つ言葉なのかに疑問を持ったのが調べるきっかけでした。昨年の会報88号(2018年11月19日発行)にて狩尾神社のお祭りについて書いた際には、まだ「閼伽井」についての調べは出来ておらず、この春から少しずつ調べているうちに、解かった事、分からない事が少し見えてきました。先ず、「閼伽井」を辞書で引くと、岩波書店の『広辞苑 第三版』には; 「閼伽の水を汲む井」とあり、引き続き、「閼伽」とは; 「貴賓または仏前に供えるもの。特に水をいう。また、それを盛る容器。」とあります。仏前とありますので、仏教用語であり寺院で使われる用語とも理解できますが、貴賓ともありますので神前(神社等)でも使えるとも、また神仏習合の時代では共に使われたのであろうとも思われます。かつて参詣した高尾山神護寺の栞に「閼伽井」の表記を見つけて、今でも水を汲まれているのかをお伺いいたしましたところ、ご親切に現在でも法要などで水を汲んでおられるとのことを同寺の方より教えていただきました。
 続いて、八幡の事はこの本で、と言われる『男山考古録』で「閼伽井」(P258)を調べると、どのようなものか、どこにあるのか、などに加えて石清水五水の一つでもあることが書かれてあります。◆会報第93号より-03 閼伽井①_f0300125_16204377.jpgここで石清水五水(石清水五井とも)について書いてみたいと思います。五水を順不同に挙げると、筒井、石清水井、藤井、福井、閼伽井の五つです。筒井に関しては、『男山考古録』 (P386)には、“五水と称する名水の中にて第一の清水”とあります。また筒井および藤井は「石清水放生会絵巻」(石清水八幡宮蔵)に、石清水は「都名水視競相撲(みやこめいすいみせくらべずもう)」、(共に『京都二 江戸時代図誌2』 筑摩書房刊 図番255 & 262)に見えます。ちなみに石清水は、番付表に “享和二戌(1802)年六月新板 東(東南)之方に 前頭 八幡 石清水” と書かれてあります。なお、石清水より番付上位の小結、関脇、大関の名水についてはあえて割愛いたします。 このような中、福井は 『男山考古録』にも『京都二 江戸時代図誌2』 にも掲載が無く、どこにあるのかも定かではないようです。ある方に聞いたところによると、石清水八幡宮の二の鳥居付近だったらしいのですが正確な場所は不詳のようです。

絵図に見える狩尾社傍の赤井水

 最後に残るのが「閼伽井」ですが、『男山考古録』の前述の記載に加えて、“御本宮ヨリ七八町西在”、“科手山赤井ヶ原谷間云々”、“舊は狩尾社に獻備の閼伽井なるへし” などの記載があり閼伽井の存在がかなりはっきりとしてきたようです。それにしても、御本宮ヨリ七八町西(1町は109m強として763~872mくらい西)からは大体このあたりとしか分からないです。市内地図を広げて、おおよその箇所を記してみました。
 さらに調べを進めると、前述の図書館などの惣絵図で、相当すると思われる個所に 「赤井水」の表記があることに気づきました。その場所は狩尾社にも近く、市内地図に記したあたりとも一致することがわかりました。『男山考古録』で「閼伽井」の項を読んでいると、さらに眼を引く内容が以下のように書かれてあります。 引用すると 「・・・橋本町に赤井黨(あかいとう)とて五名の民あり、各赤井を名乗る、此邊の山を傳て預り領す、・・・」 引用終わり。 黨は党と同意文字で、郷里の仲間(親類縁者)との理解ができます。書かれているように、現在でも橋本奥ノ町には十軒を超す赤井姓の方々が住まわれております。
◆会報第93号より-03 閼伽井①_f0300125_16301352.jpg さて石清水五水の閼伽井に戻りますが、『男山考古録』に書かれた “御本宮より狩尾社へ詣る道の北へ少しく入細道の傍に六尺許の井在り・・・・” をたどり、前述の “御本宮ヨリ七八町西” を目途にそれらしき小さな池(井)を見つけることができました。それは粘土質の地に、“六尺許”と書かれてあるように、長さ方向が約2m(幅は狭い方が1.2mほどで、他の一端が2mほど)の茄子のような形をした小さな池(井)が静かにたたずんでいるといった風情で存在しました。誰かが放したのでしょうか、四五匹の小さな金魚が泳いでいるのが印象的でした。

 果たして上記の「小さな池(井)」が閼伽井なのか、赤井姓の方との関連があるのかを知りたくて、長年にわたり橋本にお住まいで、地元のことに詳しいT氏を訪ねました。いろいろなお話を聞くうちに、T氏より氏の知人のお一方に電話をおかけいただき、以下のような貴重なお話(言い伝えが残っていることなど)を聞かせていただきました。
1)「閼伽井」のあった場所は確認できた箇所で間違いないでしょう。
2)もとは小さな川(沢)があり、その一部が取り残されて現在の形のようになった。
3)明治の初めまではこの場所から水を汲んで狩尾社に供えていた。
上記に著者の現地確認での気づきなどを少し加えてみたいと思います。
上記2)は、河跡湖(三日月湖)のようなものと思われる。
『男山考古録』にある石碑や周囲を囲った岩などは現存しないが、場所や大きさは書かれたものとほぼ一致するようだ。
池の傍に高さ70~80cmほどの杭が1m足らずの間隔で2本残るが、おそらく何年か前までは何らかの説明板があったと思われる。
粘土質の小さな池であるが、金魚が数匹泳いでいることから、常に一定量の水が湧いていることが伺える。 また、水は池から流れ出してはいなかった。
ほぼ自然の中にあって、現在では管理されている様子は見られない。
粘土質の色合いによって、他の五水(井)とは異なり「赤い水」の様相を呈していたので「赤井水」と惣絵図には記されたのではないのだろうか。 ちなみに惣絵図(中央部に)には「閼伽井坊」の記しも見られるが「赤井水」とは関係なさそうである。
 
 最後に「閼伽井山」の頂の位置について今一度思いを巡らしてみたいと思います。御本宮から西へ、橋本道(狩尾道)を経由して、鳩ヶ峯の西にあり、狩尾社に近い池(井)をその麓に持つようなところは、惣絵図の中で鳩ヶ峰と狩尾社を結んだ真ん中あたりに描かれた頂であろうと、自分なりに理解しております。私の個人的な興味にご親切にお付き合いいただきましたT氏に深謝申し上げます。

関連史料及び関連書籍等

『文化燦燦 第一号』  石清水八幡宮刊 
『男山考古録』 永濱尚次
『京都二 江戸時代図誌2』 筑摩書房刊 図番255 & 262
「八幡山上山下惣絵図」 江戸時代中期 国立公文書館内閣文庫蔵
「石清水八幡宮全図」 中井家文書 京の記憶アーカイブ



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by y-rekitan | 2019-09-22 10:00
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