人気ブログランキング | 話題のタグを見る

◆会報第93号より-04 歴史散歩④

◆会報第93号より-04 歴史散歩④_f0300125_2093583.jpg
シリーズ「私の歴史さんぽ」・・・④

私の身近な歴史散歩
―路傍の石仏や石塔などを巡る―

           高田 昌史 (会員) 


はじめに

 約40年以上前に八幡川口の梨園が宅地に転用され販売された。私は勤務地が川向いの大山崎だったのでその第一期分譲で移り住んだ。周辺は田園で木津川にも近くて、環境面で大変気にいっていたが、当時は高度成長期で会社では異常に忙しく帰宅は毎日遅くなり休日も出勤することが多く自宅と会社を往復の毎日であった。
 その頃、退職後は晴耕雨読が理想との風潮もあったが退職して落ち着いた頃、近所を散歩した時に住宅地外周の排水溝の上に小さな石仏と一石五輪塔が置かれていたので、お聞きすると宅地開発時に地中から出てきたのでお祀りしているとのことでした。◆会報第93号より-04 歴史散歩④_f0300125_1212345.jpgそれで、八幡市の遺跡地図(2005年版)を調べるとこの付近一帯は「川口扇遺跡」地域であることを知った。
 私は小学5年の頃に学校近くの古墳と言い伝えられていた小山の中腹から土器を掘りだして、学校に持って行き教師から大変怒られて元の場所に埋め戻しに行った経験があり歴史に興味があった。就職後は担当の商品開発競争に明け暮れたが、フリーな身となったので、少なくとも終の棲家となる地域の歴史を知りたいと思い、発足間もない歴史好きのグループ「八幡の歴史を探究する会」に入会した。それからは歴史の宝庫ともいえる八幡の歴史の調査や探究をしているが、今回は身近な場所の「歴史さんぽ」をする。

田園地帯の巡検道散歩

 住宅地の排水溝の橋を渡り水田の中の農道を約100m行くと江戸時代の旧道「巡検道」と合流する。この巡検道は八幡神原から大谷川を渡り田園地帯を通り下奈良までの約2㎞の道のりであり、江戸時代を通じて神領内における社務家領や僧坊領などの当番役が検見や収穫の管理にあたっていた道のようである。現在は農道として管理されている巡検道を散歩しながら、その周辺の遺跡や路傍の石仏巡りをする。
(1)獅子塚跡
 その水田に沿って曲がりくねった巡検道を行くと田んぼの一角に「獅子塚跡」の三宅碑があり、その奥には小さな阿弥陀如来の石仏と破損した五輪塔の一部が祀られていた。
◆会報第93号より-04 歴史散歩④_f0300125_12235626.jpg
この場所は、「男山考古録」によると下奈良に居住した八幡宮獅子座神人ゆかりの獅子 降りたる跡と伝えている。地元住人もこの一角には作物は栽培しないで大事にされていると伺った。その奥には小さな阿弥陀如来の石仏と五輪塔の一部が祀られており、この空き地には草花を栽培してこの一角は守られている。
(2)今里遺跡の発掘調査地
 獅子塚跡から暫らく行くと下奈良の国道1号に通じる車道と合流する地点が巡検道の終点であるが、その手前左側に見える隅田墓地の西側は、平成25年(2013)から八幡市が発掘調査を実施し、現在は埋め戻されて市道建設中(二階堂川口線バイパス)である。◆会報第93号より-04 歴史散歩④_f0300125_12313427.jpgこの発掘調査では、室町時代の火葬炉(平石に三(さん)茎(けい)蓮(れん)が彫られている)や一石五輪塔などの石塔類、それに墓の供献品(六道銭と土師器)などの多くの遺構や出土品があった。【自宅近くだったので発掘調査中は何度も訪れて当時の文化財保護課の調査担当者の説明をお聞きした、その概要は会報49号で報告】
 ただ、その発掘調査報告書が、まだ八幡市から発行されていないことが大変気になる。
(3)井関経塚(きょうつか)
 その遺跡調査地の道を右前方の駐車場の奥に直径5m程度の小さな小山が◆会報第93号より-04 歴史散歩④_f0300125_13294790.jpg「井関経塚」である。男山考古録には“桃井塚(或は経塚)”「寛保3年(1743)の註進記に行基之経塚とあり」と書かれている。

経塚:仏教の経典を地下に埋め、土を盛ったものです。末法の世に経典がなくなることをおそれ、末法が終わるまで保管することが目的でしたが、次第に極楽に行けるようにというお祈りや死者の供養目的に変わっていきます。(防府歴史用語辞典)

(4)路傍に置かれている多くの石仏や石塔
◆会報第93号より-04 歴史散歩④_f0300125_13365731.jpg 巡検道の終点の車道と交差する向い側の水田との狭い空き地には約百体の比較的小さい石仏や石塔が並べられている大変珍しい光景を目にする。石仏の前にはお供えもされている。これらの石仏類は主に道路下の水田や畑などを耕作中に出土したもので、中にはお坊さんにお経をあげてもらい供養してから置かれた石仏もあるとお聞きした。この狭い一角の下が水田で保全されたような場所だったが、今年に入り水田が運送会社の用地に転用されるために、地上げ整地の工事中なのでこの場所が今まで通りに残されるか心配になる。
(5)隅田墓地に集められた多くの石仏
 巡検道の終点の左側は川口・下奈良・二階堂の三集落の隅田墓地であるが、墓地南東隅の道路側ブロック囲い内の無縁墓の後方には墓地内や周辺から出土した数百体の石仏や石塔・石碑類が集められている。
◆会報第93号より-04 歴史散歩④_f0300125_1344393.jpg なお、この隅田墓地の入口には『学術データベース「近世以前の土木・産業遺産」』では、京都府下の道標で初めてAランクに登録された嘉永4年(1851)に建立の「往生礼讃道標」がある。この道標は2017年10月編集発行した『「石清水八まん宮道」に誘う道標群』には、“◇正面の「往生礼讃像」は風化していなく鮮明“と記載した。しかし、今回確認すると鮮明だった“往生礼讃像(7体)”は、2年前に撮影した時と比較すると急速に風化が進んでいることに驚いた。この風化の進行はこの道標だけでなくすべての道標の碑文が最近急に風化が進んでいるように感じる。前述の「獅子塚跡」の三宅碑の碑文も同様の傾向である。この数年の異常気象の影響か?

おわりに

 以上、自宅近くに水田地帯の農道(巡検道)の約1㎞散歩だったが、 ◆会報第93号より-04 歴史散歩④_f0300125_1347410.jpg道の傍らには多くの石仏や石塔が大事にされ祀られていることには、石清水八幡宮神領の「外四鄕(そとよんごう)」に位置する川口~下奈良地域の長い歴史を感じる。なお、巡検道終点の下奈良から北方向になる「川口環濠集落」南入口の道路ガードレール前にもお地蔵さんが祀られていて、いつも花を添えられている。
 この集落の中央道を北に抜け府道22号(八幡木津線)を渡ると木津川堤防である。

【参考資料】

(1)「男山考古録」巻第十五 長濵尚次著
(2)八幡市誌 第二巻
(3)八幡の歴史を探究する会「会報49号」記事
       ―今里遺跡の発掘調査報告―(2014年4月発行)




<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

by y-rekitan | 2019-09-22 09:00
<< ◆会報第93号より-03 閼伽井① ◆会報第93号より-05 10... >>