![]() 『松花堂昭乗奈良吉野紀行』を訪ねて
10月17日午後2時より、八幡市文化センター第3会議室で表題の会員研究発表がありました。松花堂昭乗は没する前年の寛永15年(1638)3月に大徳寺の江月宗玩和尚とともに奈良吉野に花を見ようと旅し、10日間の思いを歌に託して「奈良吉野紀行」を書き残しました。発表者の谷村さんは紀行文にある13の社寺を中心に奈良を代表するその他の社寺も巡り、現在の奈良の社寺の魅力を伝える発表でした。参加者は30名。講演の概要は発表者の谷村氏により纏めていただきました。(会報編集担当) 元号が平成から令和に変わった5月、「松花堂昭乗奈良吉野紀行」の足跡を訪ねたいと準備していた処、去る5月の末から5回にわたって奈良を訪問した。紀行の原文は太字で表した。 ことし、寛永戊寅(十五年・1638)の弥生(三月)、江月和尚とともなひ、 よしのゝ花をみむとて、吾山を出て、六日に奈良にいたる、 七日、名におふ宮のふりにし跡、こゝかしこみめくりて、春日野にて、 和尚頌つくります。 春日野邊花正開 鞵香楚地幾徘徊 晩風吹入呉天去 三笠山頭雪一堆 みつからもうたよむ、 ほのかにも 霞のころも はるきては たゝうすものゝ みかさ山かな 又、春日の社によみてたてまつり侍、 かすか山 神はうけてよ 手向草 もとつこゝろの 花の色香を ![]() 「春日祭紳四座」とは「鹿嶋に坐す建御賀豆智命(たけみかずちのみこと)、香取に坐す伊波比主命((いわいぬしのみこと)、枚岡(ひらおか)に坐す天児屋根命(あめのこやねのみこと)〔天之子八根命〕、比売神(ひめがみ)」の四紳といわれる。枚岡社の天児屋根命(あめのこやねのみこと)と比売神(ひめがみ)は『古事記』、古事記』、『日本書紀』によると中臣氏(藤原氏)が祖先と仰ぐ神であった事が分かる。 また鹿嶋・香取の両紳は『続日本紀』の記述から藤原氏の氏神として信奉され、古くから中臣氏が常陸国と深くかかわっていたことも伺える。現在のように南面する春日大社の本殿が創建されたのは神護景雲二年(768)と伝えられている。 昭乗、江月が訪れたときは、いわゆる春日祭や二月堂のお水取りの直前であった。賀茂祭・石清水祭・春日祭は古くから三勅祭と称されてきた。 二月堂のほとりにて和尚頌、みつから歌、 吟杖尋花歩々頻 赴南都払洛陽塵 白桜一樹餘風景 二月堂遺二月春 かすかのゝ わか草山の はつかにも 花のゆき間を わりてみすらむ ![]() そのさとに、としころしれる翁ありけり、今は太郎なる子に世ゆつりて、 かたはらに七尺の堂たてゝ住ける、ゆく手に尋より侍しかは、おきなよろこひ むかへて、ひめもす昔かたる、やゝかへりなむとする時、おきな哥をよむ、 後の世まての思出にせむときこえければ、和尚あはれかりて和韵し給ふ、 みつからもやまとうたもて和す、 浮雲流水身不必 被春風吹至春日 今朝豫思明朝離 有花門中入又出 あるしさへ 花にゆつりて 花にかる 住ゐもちりの 世をや出けむ ![]() 近鉄奈良駅から春日大社に向かうと、『東大寺の交差点(東大寺南大門前)の東側、東大寺南大門と春日大社の間に広い芝生空間がある。この場所は、幕末以前は野田村と呼ばれ、春日社神官の住居となっていた。明治維新期に春日大社の領地返上や人員整理のあおりを受け、明治13年(1880)の奈良公園設置、大正11年(1922)の名勝奈良公園指定により、野田村は廃村となってしまった』(奈良佐保短期大学研究紀要第20号2012年) この地に、久保権太夫という茶人が住み、茶入の仕服などを製する袋物師のかたわら茶の湯を嗜み小堀遠州や松花堂昭乗、江月宗玩らと親交があった。久保権太夫利世が建てた茶室の長闇堂は奈良市法蓮町の興福院(こんぶいん)に再建されている。寛永年間(1624~44),東大寺重源御影堂改築の折、古材を譲り受け七尺のお堂を建てた。寛永16年3月、昭乗の師、実乗の13回忌に長闇堂も参加した。 八日 あめふり、つれつれとさしこもりて、よもやまかたりくらす、 九日 つとに奈良を出て在原寺をみる 庭のおもに 名もむつましく 生出て はるやむかしを 残すわか草 和尚、 晨出南都到在原 傳敷島道業平痕 哥人相伴進吟歩 疲杖宜成風雅懐 ![]() ![]() なお、在原業平は京都大原野の「十輪寺(なりひら寺)」に晩年隠棲し、業平墓が残る。 ![]() 節後尋来桃尾隣 徳香岩上大明神 布留橋下布留剱 流水磨礱絶世塵 みつから 花ならぬ にほいに残る めくみそと いくよりふるの 神はあふかむ ![]() 現在の本殿は大正二年(1913)に竣工されたもので、古くは布留山自体が霊域であって、昭乗・江月が訪れた当時に本殿はなかった。重要文化財の楼門は鎌倉時代の建物で、その向かいの小高い境内地にある国宝の出雲建雄(いずもたけお)神社拝殿は、もと内山永久寺のもので、大正三年に移築された。石上神宮は古代の豪族物部氏の本拠地と伝わり、大和朝廷の武器庫であったといわれている。また、石上神宮には百済王から送られた有名な「七支刀」が保存されている。神域に入ると「柿本人麻呂」の万葉歌碑があり、「おとめらが 袖振山の瑞垣の 久しき時ゆ 思ひき吾は」とあり、東天紅や烏骨鶏などおよそ30羽の鶏が迎えてくれる。 内山を見る、此寺は鳥羽のみかとの御願にて、永久年中にたち侍、よりて永久寺と名つけ、開山をは亮恵上人となむ、あないする法師のいふめる、伽藍とも軒をならふるかたへに灌頂堂あり、両壇東西にかまへて、幡花鬘かけわたして、粧厳いみしく、いとたうとくおほへて、 よゝにかく かゝけそへてや 残るらむ としふるてらの 法の燈 和尚頌、 永久年間攸落成 開基亮恵得高名 内山外開眼中響 今日裏来鐘一聲 ![]() 芭蕉句碑 “うち山や とざましらずの 花ざかり”
三輪にて和尚 途路春行経険峻 青苔日厚満寒岩 三輪山上半陽月 花影移残一樹杦 和してたてまつる かけそへし 月と花との しらゆふに しるしもわかぬ みわの神杦 又、法施のつゐてに、 千早振 神のまことの すかたおは いかにたつねて みわのやまもと ![]() 拝殿の奥は禁足地として誰も入れない神聖な場所で、拝殿との間に結界として三ツ鳥居が設けられ、この鳥居をすかして山を拝めるようになっていて、古い形の信仰の姿を留めている。大神神社の古い形は東西の中心軸にも残っている。現在、多くの神社は殆ど南向きに建てられ神体山と社殿の中心の軸がずれてしまっているが、大神神社は南面ではなく、三ツ鳥居を通して東の山を拝み、神社の向きが西向きである点にも古い信仰の形を見ることができる。 三輪山に生茂る杉は「三輪の神杉」として「万葉集」にも歌われ、三輪山の御神木になっている。神体山の石は磐座(いわくら)とされ、杉の木は神籬(ひもろぎ)(神霊を招くための依り代)としていずれも神の降臨される聖なる石であり、霊木になっている。天理市の石上神宮から桜井市の大神神社への「山の辺の道」は古代の道歩きの中心ルートとなっている。 其日の暮ほとに、はつせにつく、和尚、 登高泊瀬幾青峯 風外杦兮風外松 時節因緑奈花落 観音堂裏夕陽鐘 みつからも、観世音に法楽し奉る、 はつせ山 花にはとまる こころかな 色はむなしと おもひしりても ![]() 牡丹で代表される花の寺として人口に膾炙する長谷寺であるが、梅、桜、楓、南天、石楠花、紫陽花、百日紅など多種多様の花々が参詣者を楽しませてくれる。昭乗も花々を愛でるとともに無常の思いを込めて歌を詠んでいる。王朝の昔から長谷寺観音の霊験あらたかさは出世開運を祈願する人々の願いをかなえた。現在も三方を山々に囲まれた長谷寺に参詣する人の姿は絶えない。 源氏物語「玉鬘」の巻に長谷寺の二本(ふたもと)の杉にて、亡き母の侍女右近とめぐり合うシーンが描かれている。「玉鬘」は石清水八幡宮に参詣した後に長谷寺に詣でている。昭乗の「大和三景図」の1枚に「二本杉図」があるが、「玉鬘」を踏まえた喬木二樹の絵を残している。仁王門をくぐり、すぐ登廊(のぼりろう)の石段に入ると、その緩やかな勾配の歩きやすさに気が付く。下登廊、中登廊、上登廊合計399段の石段の高さは本堂に近づく程高くなるように設計されている。ようやく本堂に入れば、10mを優に超える本尊十一面観世音菩薩立像の黄金を纏った圧倒的な姿は昭乗が参詣した時と今も同じである。 寺は七度の大火にあっているが、天文五年(1536)、観音堂が本尊とともに焼失、本尊の再造立は天文七年に終わっているが、寺には実物大の本尊の絵画が残り、それをもとに再造立した。本堂の再建は慶安三年(1650)の落慶である。南に張り出した舞台から四方を見渡せば、深い山々や谷々の間に建つ広大な伽藍を実感する。 鐘楼近くに芭蕉句碑がある。 “春の夜や 籠(こも)り人床(ゆか)し 堂のすみ” 十日 泊瀬(初瀬)を出て、安倍文珠・橘寺なと、心静にまうてありきて その夜は高取といふ所にいねて ![]() ![]() 安永六年(1777)に観音堂が、元治元年(1864)に現本堂がそれぞれ再建されている。 ![]() 十一日に吉野に赴く 芳野川にて よしの川 浅き瀬ならぬ なかれにも 花ちりうきて あた浪そたつ 吉野にて和尚 尋春吉野路無窮 三月初如三月終 生滅猶花時有定 遅来謬我恨山風 みつから、 捨る身も 猶うき時は よしのやま 花にかくれむ たのみこそあれ 蔵王堂にて和尚 二佛土興同結跏 三芳野嶺帯春霞 蔵王権現縁弥勒 一樹花残紅釈迦 みつから、 よしの山 残すしほりは はるかなる 瀧の花みむ 暁のため 又霊山にて みよしのゝ 鷲のたかねの 花は猶 雪の山路に たくへてそみる 和尚、 霊山々下遠人家 今古唯尊老釈迦 樹木森々衆八萬 春風手裏一枝花 ![]() 本尊の蔵王権現はインドに起源を持たない日本独自の仏で、修験道の開祖役小角(えんのおづぬ)によって初めて祀られたといわれる。蔵王堂の西側石段を下がると「南朝妙法殿」という三重塔が建てられている。ここは元の金輪王寺(きんりんのうじ)で後醍醐天皇が宮居と定めた場所である。「吉野朝宮祉」の石碑が建つ。ここで後醍醐天皇は京の空を望みながら崩御された。 寛永二年(1625)六月付、昭乗の筆による「大峯山蔵王堂勧進帳」が残っているが、『蔵王堂を再興するにあたって、僧・快元(1573~1624)が起草した勧進文を昭乗が清書したもので、蔵王堂勧進帳は昭乗以外にも六種類が確認されている』(松花堂昭乗、書画のたのしみ・八幡市立松花堂美術館) 十二日 御醍醐天皇の御廟にて、和尚焼香し給ひ、そこなる供僧に信施たうへて、御廟の華表に頌をかきつけ給ける、 霊地留蹤太上皇 結縁仏法投商量 暗中明也正燈焔 三百年来仰徳光 みつからも、やまとうたもて、和したてまつりて、おなしくかたはらにかきつけ侍、かの御製を思ひいてゝ 身にかへて 民をめぐみし ことの葉の 露にそ残る 玉の光は ![]() 『太平記巻第二十一』によると、その臨終の遺言は「生々世々(しようじょうぜぜ)の妄念となるべきは、朝敵尊氏一類を滅ぼして、四海を泰平ならしめんと思ふばかりなり。されば朕即世のその後は、第七の宮(義良親王/後村上天皇)を天子の位に即けたてまつりて、賢子・忠臣事を謀り、義貞・義助が忠功を賞して、子孫不義の行いなくは、股肱の臣として、天下を静むべし。これを思うゆゑに玉骨はたとひ南山の苔に埋むるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ。…」と残されて、左の御手に法華経五の巻を持ち、右の御手に御剣を按じて丑の刻(午前二時頃)に、遂に崩御ならせ給いけり」とある。 その後、足利尊氏は高師直に吉野を攻めさせた。楠木正成(まさしげ)の子正行(まさつら)は死を決し、四条畷の戦いに出陣する際、“返らじと かねて思えば 梓弓(あずさゆみ)なき数(かず)にいる 名をぞとどむる”と如意輪堂の板壁に記したことは名高い。板壁は今、宝物殿に陳列されている。なお、境内には芭蕉の句碑がある。 “御廟年経て 忍は何を 志のぶ草”
by y-rekitan
| 2019-11-21 11:00
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