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◆会報第94号より-02 松花堂昭乗

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《会員研究発表》
『松花堂昭乗奈良吉野紀行』を訪ねて

2019年10月 八幡市文化センターにて

谷村 勉 (会員)
 
 10月17日午後2時より、八幡市文化センター第3会議室で表題の会員研究発表がありました。松花堂昭乗は没する前年の寛永15年(1638)3月に大徳寺の江月宗玩和尚とともに奈良吉野に花を見ようと旅し、10日間の思いを歌に託して「奈良吉野紀行」を書き残しました。発表者の谷村さんは紀行文にある13の社寺を中心に奈良を代表するその他の社寺も巡り、現在の奈良の社寺の魅力を伝える発表でした。参加者は30名。講演の概要は発表者の谷村氏により纏めていただきました。(会報編集担当)

 元号が平成から令和に変わった5月、「松花堂昭乗奈良吉野紀行」の足跡を訪ねたいと準備していた処、去る5月の末から5回にわたって奈良を訪問した。紀行の原文は太字で表した。

1.[春日大社]  奈良市春日野町

 ことし、寛永戊寅(十五年・1638)の弥生(三月)、江月和尚とともなひ、
よしのゝ花をみむとて、吾山を出て、六日に奈良にいたる、
七日、名におふ宮のふりにし跡、こゝかしこみめくりて、春日野にて、
和尚頌つくります。
  春日野邊花正開 鞵香楚地幾徘徊 晩風吹入呉天去 三笠山頭雪一堆
みつからもうたよむ、
  ほのかにも 霞のころも はるきては たゝうすものゝ みかさ山かな
又、春日の社によみてたてまつり侍、
  かすか山 神はうけてよ 手向草 もとつこゝろの 花の色香を


◆会報第94号より-02 松花堂昭乗_f0300125_11344467.jpg 江月和尚の詩は宋詩・釈可士「僧を送る」の「笠は重し呉天の雪 鞋は香し楚地の花」を本歌としている。冬の呉天を去り、楚地に春を迎えた喜びの歌である。春日大社は藤原氏の氏神としてつくられた神社で、藤原氏の氏寺であった興福寺と一体となって繁栄してきた。春日山の支峯御蓋山(みかさやま)を神体山とする春日大社は全国で奉斎されている春日明神の総本社である。
 「春日祭紳四座」とは「鹿嶋に坐す建御賀豆智命(たけみかずちのみこと)、香取に坐す伊波比主命((いわいぬしのみこと)、枚岡(ひらおか)に坐す天児屋根命(あめのこやねのみこと)〔天之子八根命〕、比売神(ひめがみ)」の四紳といわれる。枚岡社の天児屋根命(あめのこやねのみこと)と比売神(ひめがみ)は『古事記』、古事記』、『日本書紀』によると中臣氏(藤原氏)が祖先と仰ぐ神であった事が分かる。
 また鹿嶋・香取の両紳は『続日本紀』の記述から藤原氏の氏神として信奉され、古くから中臣氏が常陸国と深くかかわっていたことも伺える。現在のように南面する春日大社の本殿が創建されたのは神護景雲二年(768)と伝えられている。
 昭乗、江月が訪れたときは、いわゆる春日祭や二月堂のお水取りの直前であった。賀茂祭・石清水祭・春日祭は古くから三勅祭と称されてきた。 

2.[二月堂]  奈良市雑司町

二月堂のほとりにて和尚頌、みつから歌、
  吟杖尋花歩々頻 赴南都払洛陽塵 白桜一樹餘風景 二月堂遺二月春
  かすかのゝ わか草山の はつかにも 花のゆき間を わりてみすらむ


◆会報第94号より-02 松花堂昭乗_f0300125_20101821.jpg 和尚、昭乗も奈良に来て春の花を尋ねる喜びを頌っている。二月堂は東大寺の一堂で、天平勝宝四年(752)の創建。現在の建物は寛文九年(1669)の再建である。本尊は十一面観音の秘仏。『東大寺二月堂のお水取りは、三月一日から十四日にかけて行われる修二会の一部で、古代から行われている神事の一部である。三月十二日の真夜中に行うのが「お水取り」で、二月堂の前にある「若狭井」から、聖なる水を汲んで本尊にささげる。その時は、特別大きな松明を焚き、美々しい行列がお堂を出て、井戸から水を汲み上げる儀式である。その光景があまりに見事であるために、お水取りだけが有名になり、ひいては修二会の総称ともなったのであるが、本来は新鮮な若水を汲んで、本尊に供えるだけのことにすぎない。二月堂が建つ以前から、里びとによって営まれた神事で、後に仏教に取り入れられたのであろう・・・。千二百年以上も続いたお祭りには、不可思議で知れば知るほど奥が深いことを痛感する』(白洲正子・古寺巡礼奈良「東大寺」)

3.[長闇堂ちょうあんどう]   旧野田郷・現春日野町

 そのさとに、としころしれる翁ありけり、今は太郎なる子に世ゆつりて、
かたはらに七尺の堂たてゝ住ける、ゆく手に尋より侍しかは、おきなよろこひ
むかへて、ひめもす昔かたる、やゝかへりなむとする時、おきな哥をよむ、
後の世まての思出にせむときこえければ、和尚あはれかりて和韵し給ふ、
みつからもやまとうたもて和す、
  浮雲流水身不必 被春風吹至春日 今朝豫思明朝離 有花門中入又出
  あるしさへ 花にゆつりて 花にかる 住ゐもちりの 世をや出けむ


◆会報第94号より-02 松花堂昭乗_f0300125_2056010.jpg 昭乗、江月は二月堂から目と鼻の先の長闇堂(久保権太夫利世)を訪ねて、おおいに昔語りした。ちなみに、現奈良県庁の隣にある奈良地方裁判所が一乗院跡地であり、昭乗にとっては大変懐かしい地域一帯であった。
近鉄奈良駅から春日大社に向かうと、『東大寺の交差点(東大寺南大門前)の東側、東大寺南大門と春日大社の間に広い芝生空間がある。この場所は、幕末以前は野田村と呼ばれ、春日社神官の住居となっていた。明治維新期に春日大社の領地返上や人員整理のあおりを受け、明治13年(1880)の奈良公園設置、大正11年(1922)の名勝奈良公園指定により、野田村は廃村となってしまった』(奈良佐保短期大学研究紀要第20号2012年) この地に、久保権太夫という茶人が住み、茶入の仕服などを製する袋物師のかたわら茶の湯を嗜み小堀遠州や松花堂昭乗、江月宗玩らと親交があった。久保権太夫利世が建てた茶室の長闇堂は奈良市法蓮町の興福院(こんぶいん)に再建されている。寛永年間(1624~44),東大寺重源御影堂改築の折、古材を譲り受け七尺のお堂を建てた。寛永16年3月、昭乗の師、実乗の13回忌に長闇堂も参加した。

八日 あめふり、つれつれとさしこもりて、よもやまかたりくらす、

4.[在原寺]  天理市櫟本町いちのもとちょう

九日 つとに奈良を出て在原寺をみる
  庭のおもに 名もむつましく 生出て はるやむかしを 残すわか草
和尚、
  晨出南都到在原 傳敷島道業平痕 哥人相伴進吟歩 疲杖宜成風雅懐


◆会報第94号より-02 松花堂昭乗_f0300125_21133946.jpg 在原寺は在原業平の生誕地ともいわれ、『伊勢物語』の主人公のモデルと考えられている。境内には現在も筒井筒の伝承の井戸が残っている。 「筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに」(伊勢物語二十三)。寛政三年(1791)発行の『大和名所絵図』にも載っているが、◆会報第94号より-02 松花堂昭乗_f0300125_21212231.jpg街道から在原寺に入る道筋は今も同じである。在原寺は明治初年に廃寺となり、今は業平社ともいわれる在原神社の小さな社殿を残すのみとなった。芭蕉の句碑が残る “うくいすを魂(たま)に眠(ねむ)るか 矯柳(たおやなぎ)”
なお、在原業平は京都大原野の「十輪寺(なりひら寺)」に晩年隠棲し、業平墓が残る。



5.「布留ふるの高橋」 天理市豊井町

◆会報第94号より-02 松花堂昭乗_f0300125_21321390.jpg 日本最古の道とされる「山の辺の道」を通り「石上神宮」に向かう途中に、この高橋を渡る。昭乗の大和三景図(泉屋博古館蔵)に「布留の高橋」を描いた「岩橋図」が残る。岩橋図の江月宗玩賛に、岩上布留路、青苔自不塵、高橋汲人跡、誰詣大明神、とある。橋から布留川本流とハタの瀧を望む。『藻塩草』にいはく、昔女の川の端にて布をあらひて立てりけるに、河上より剣の流れ来りて、万の物をみな切りやぶりてきけるに、この布にまつはれて留まりけり。その剣を取りてこの社にいはふによりて、布留とはぬのとどまる(布留)とかけるなり。この剣がフツノミタマの霊剣と云われている。

6.[布留ふる社] 石上いそのかみ神宮)天理市布留町

  節後尋来桃尾隣 徳香岩上大明神 布留橋下布留剱 流水磨礱絶世塵
みつから
  花ならぬ にほいに残る めくみそと いくよりふるの 神はあふかむ


◆会報第94号より-02 松花堂昭乗_f0300125_21504989.jpg 『延喜式』にはこの社を布留御霊の社と記し、『古事記』や『日本書紀』にもすでに「石上神宮」と書かれている古社である。祭紳はフツノミタマの大神という名の霊剣だといわれ、刀が神体で神そのものという珍しい例で、このフツノミタマ(布都御魂)の剣はオオクニヌシの国譲りと神武天皇の東征の二度にわたって神話の中で活躍する。
 現在の本殿は大正二年(1913)に竣工されたもので、古くは布留山自体が霊域であって、昭乗・江月が訪れた当時に本殿はなかった。重要文化財の楼門は鎌倉時代の建物で、その向かいの小高い境内地にある国宝の出雲建雄(いずもたけお)神社拝殿は、もと内山永久寺のもので、大正三年に移築された。石上神宮は古代の豪族物部氏の本拠地と伝わり、大和朝廷の武器庫であったといわれている。また、石上神宮には百済王から送られた有名な「七支刀」が保存されている。神域に入ると「柿本人麻呂」の万葉歌碑があり、「おとめらが 袖振山の瑞垣の 久しき時ゆ 思ひき吾は」とあり、東天紅や烏骨鶏などおよそ30羽の鶏が迎えてくれる。

7.[内山永久寺] 天理市杣之内町

 内山を見る、此寺は鳥羽のみかとの御願にて、永久年中にたち侍、よりて永久寺と名つけ、開山をは亮恵上人となむ、あないする法師のいふめる、伽藍とも軒をならふるかたへに灌頂堂あり、両壇東西にかまへて、幡花鬘かけわたして、粧厳いみしく、いとたうとくおほへて、
  よゝにかく かゝけそへてや 残るらむ としふるてらの 法の燈
和尚頌、
  永久年間攸落成 開基亮恵得高名 内山外開眼中響 今日裏来鐘一聲


◆会報第94号より-02 松花堂昭乗_f0300125_11285953.jpg 石上(いそのかみ)神宮の森を抜けて山の辺の道を南に進むこと凡そ15分、内山永久寺廃寺跡に至る。かつては「西の日光」とも称されたようだ。「内山永久寺跡全図」からも分かるように、昭乗・江月和尚が訪れたときは大規模な境内地を有する花盛りの大寺院であった。鳥羽天皇の勅願によって永久年間(1113~1118)に建立され、その年号が寺の名前になっている。慶応四年(1868)の神仏判然令によって、堂塔は姿を消し、永久寺は、永久に廃墟と化してしまった。今は本堂前の池を残すのみで、境内敷地は殆ど農地になっている。二人が法師に案内された檜皮葺(ひわだぶき)屋根の灌頂堂は全図中央付近の池の左に見える。後醍醐天皇が吉野に向かう途中、一時身を寄せた「萱御所跡の石碑」と「松尾芭蕉の句碑」が池のほとりに残っている。
      芭蕉句碑 “うち山や とざましらずの 花ざかり”
灌頂(かんじょう)とは、密教の儀式の一つとしても知られ、香水を頭にそそぐ儀式のことを言い、受戒や修行者が上の位に上がるときに行うもの。
 
8.[大神おおみわ神社] 桜井市三輪

三輪にて和尚
  途路春行経険峻 青苔日厚満寒岩 三輪山上半陽月 花影移残一樹杦
和してたてまつる
  かけそへし 月と花との しらゆふに しるしもわかぬ みわの神杦 
又、法施のつゐてに、
  千早振 神のまことの すかたおは いかにたつねて みわのやまもと


◆会報第94号より-02 松花堂昭乗_f0300125_11572671.jpg 大神神社はわが国最古の神社と云われ、三輪山が神体山(神々が籠るところ)で本殿がない。鎌倉時代に初めて拝殿が建立されているが、現在の拝殿は寛永四年(1664)に再建された。
 拝殿の奥は禁足地として誰も入れない神聖な場所で、拝殿との間に結界として三ツ鳥居が設けられ、この鳥居をすかして山を拝めるようになっていて、古い形の信仰の姿を留めている。大神神社の古い形は東西の中心軸にも残っている。現在、多くの神社は殆ど南向きに建てられ神体山と社殿の中心の軸がずれてしまっているが、大神神社は南面ではなく、三ツ鳥居を通して東の山を拝み、神社の向きが西向きである点にも古い信仰の形を見ることができる。
 三輪山に生茂る杉は「三輪の神杉」として「万葉集」にも歌われ、三輪山の御神木になっている。神体山の石は磐座(いわくら)とされ、杉の木は神籬(ひもろぎ)(神霊を招くための依り代)としていずれも神の降臨される聖なる石であり、霊木になっている。天理市の石上神宮から桜井市の大神神社への「山の辺の道」は古代の道歩きの中心ルートとなっている。

9.[長谷寺] 桜井市初瀬

其日の暮ほとに、はつせにつく、和尚、
  登高泊瀬幾青峯 風外杦兮風外松 時節因緑奈花落 観音堂裏夕陽鐘
みつからも、観世音に法楽し奉る、
  はつせ山 花にはとまる こころかな 色はむなしと おもひしりても


◆会報第94号より-02 松花堂昭乗_f0300125_1295733.jpg 徳道上人が聖武天皇の勅を受け、近江高島郡の、白蓮華谷に横たわっていた霊木から本尊十一面観音像を造立、天平五年(733)に開眼供養がおこなわれたと伝える。
 牡丹で代表される花の寺として人口に膾炙する長谷寺であるが、梅、桜、楓、南天、石楠花、紫陽花、百日紅など多種多様の花々が参詣者を楽しませてくれる。昭乗も花々を愛でるとともに無常の思いを込めて歌を詠んでいる。王朝の昔から長谷寺観音の霊験あらたかさは出世開運を祈願する人々の願いをかなえた。現在も三方を山々に囲まれた長谷寺に参詣する人の姿は絶えない。
 源氏物語「玉鬘」の巻に長谷寺の二本(ふたもと)の杉にて、亡き母の侍女右近とめぐり合うシーンが描かれている。「玉鬘」は石清水八幡宮に参詣した後に長谷寺に詣でている。昭乗の「大和三景図」の1枚に「二本杉図」があるが、「玉鬘」を踏まえた喬木二樹の絵を残している。仁王門をくぐり、すぐ登廊(のぼりろう)の石段に入ると、その緩やかな勾配の歩きやすさに気が付く。下登廊、中登廊、上登廊合計399段の石段の高さは本堂に近づく程高くなるように設計されている。ようやく本堂に入れば、10mを優に超える本尊十一面観世音菩薩立像の黄金を纏った圧倒的な姿は昭乗が参詣した時と今も同じである。
 寺は七度の大火にあっているが、天文五年(1536)、観音堂が本尊とともに焼失、本尊の再造立は天文七年に終わっているが、寺には実物大の本尊の絵画が残り、それをもとに再造立した。本堂の再建は慶安三年(1650)の落慶である。南に張り出した舞台から四方を見渡せば、深い山々や谷々の間に建つ広大な伽藍を実感する。
 鐘楼近くに芭蕉句碑がある。
    “春の夜や 籠(こも)り人床(ゆか)し 堂のすみ”

 十日 泊瀬(初瀬)を出て、安倍文珠・橘寺なと、心静にまうてありきて その夜は高取といふ所にいねて

10.[安倍文珠院] 桜井市阿部

◆会報第94号より-02 松花堂昭乗_f0300125_1323149.jpg 国宝に指定された文殊菩薩像は鎌倉時代の大仏師快慶により造立された。高さ7mの日本最大の獅子に乗る文殊菩薩は圧巻だった。大化元年(645)安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の開基と伝える。天橋立切戸の文殊、山形県亀岡の文殊と並んで、日本三文殊の一つとして信仰されている。


11.[橘寺] 高市郡明日香村

◆会報第94号より-02 松花堂昭乗_f0300125_13322165.jpg 明日香にある聖徳太子建立七大寺の一つとの伝承がある。七大寺とは 四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、広隆寺(蜂丘寺)、池後寺(法起寺)、葛木寺(唯一所在不明)であるが、橘寺は聖徳太子生誕の地とされている。昭乗、江月が訪れた時は室町時代後期、永正三年(1506)の戦乱によって伽藍全体が焼き討ちにあって以来、伽藍の復興は進まず、主な堂舎が再建される以前の状態であったと思われる。
 安永六年(1777)に観音堂が、元治元年(1864)に現本堂がそれぞれ再建されている。

12.[高取] 高市郡高取町
 
◆会報第94号より-02 松花堂昭乗_f0300125_13405876.jpg 橘寺より吉野に向かうが、明日香にほど近い高取に宿泊する。二人が宿泊した高取藩の城下町、高取城に向かう街道筋(土佐街道)は城下町の雰囲気を残し、武家屋敷・旧家などが多く残る街並みは美しい。




十一日に吉野に赴く 芳野川にて
  よしの川 浅き瀬ならぬ なかれにも 花ちりうきて あた浪そたつ
吉野にて和尚
  尋春吉野路無窮 三月初如三月終 生滅猶花時有定 遅来謬我恨山風
みつから、 
  捨る身も 猶うき時は よしのやま 花にかくれむ たのみこそあれ



13.[蔵王堂]  吉野郡吉野町

蔵王堂にて和尚
  二佛土興同結跏 三芳野嶺帯春霞 蔵王権現縁弥勒 一樹花残紅釈迦
みつから、 
  よしの山 残すしほりは はるかなる 瀧の花みむ 暁のため
又霊山にて
  みよしのゝ 鷲のたかねの 花は猶 雪の山路に たくへてそみる 
和尚、 
  霊山々下遠人家 今古唯尊老釈迦 樹木森々衆八萬 春風手裏一枝花

◆会報第94号より-02 松花堂昭乗_f0300125_143168.jpg 蔵王堂とは金峯山寺(きんぷさんじ)の本堂である。南面して建つ大建築は、奈良大仏殿に次ぐものと云われる。元々蔵王堂は役行者によって大峯山上に開創したと伝えられるが、天平年間に参詣困難により行基が山下に蔵王堂を建立し、金峰山寺とした、と伝えられている。平安時代には蔵王堂を中心に竹林院、桜本坊、東南院等を含む大伽藍となる。
 本尊の蔵王権現はインドに起源を持たない日本独自の仏で、修験道の開祖役小角(えんのおづぬ)によって初めて祀られたといわれる。蔵王堂の西側石段を下がると「南朝妙法殿」という三重塔が建てられている。ここは元の金輪王寺(きんりんのうじ)で後醍醐天皇が宮居と定めた場所である。「吉野朝宮祉」の石碑が建つ。ここで後醍醐天皇は京の空を望みながら崩御された。
 寛永二年(1625)六月付、昭乗の筆による「大峯山蔵王堂勧進帳」が残っているが、『蔵王堂を再興するにあたって、僧・快元(1573~1624)が起草した勧進文を昭乗が清書したもので、蔵王堂勧進帳は昭乗以外にも六種類が確認されている』(松花堂昭乗、書画のたのしみ・八幡市立松花堂美術館)

14.[後醍醐天皇御廟](如意輪寺)  吉野郡吉野町

 十二日 御醍醐天皇の御廟にて、和尚焼香し給ひ、そこなる供僧に信施たうへて、御廟の華表に頌をかきつけ給ける、
  霊地留蹤太上皇 結縁仏法投商量 暗中明也正燈焔 三百年来仰徳光
みつからも、やまとうたもて、和したてまつりて、おなしくかたはらにかきつけ侍、かの御製を思ひいてゝ
  身にかへて 民をめぐみし ことの葉の 露にそ残る 玉の光は

◆会報第94号より-02 松花堂昭乗_f0300125_14165624.jpg延元元年(1336)十二月、後醍醐天皇が吉野に入り、吉水院(きっすいいん)を仮の皇居と定めた。後醍醐天皇は3年間吉野にいたが、中央政権は北朝方の光明天皇をいただいて京都を本拠とした。南朝方の北畠顕家、新田義貞などが相次いで戦死する一方、光明天皇は足利尊氏を征夷大将軍に任命する。深い寂寞(せきばく)の中で後醍醐天皇は延元四年(1339)八月十六日、遂に崩御した。
 『太平記巻第二十一』によると、その臨終の遺言は「生々世々(しようじょうぜぜ)の妄念となるべきは、朝敵尊氏一類を滅ぼして、四海を泰平ならしめんと思ふばかりなり。されば朕即世のその後は、第七の宮(義良親王/後村上天皇)を天子の位に即けたてまつりて、賢子・忠臣事を謀り、義貞・義助が忠功を賞して、子孫不義の行いなくは、股肱の臣として、天下を静むべし。これを思うゆゑに玉骨はたとひ南山の苔に埋むるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ。…」と残されて、左の御手に法華経五の巻を持ち、右の御手に御剣を按じて丑の刻(午前二時頃)に、遂に崩御ならせ給いけり」とある。
 その後、足利尊氏は高師直に吉野を攻めさせた。楠木正成(まさしげ)の子正行(まさつら)は死を決し、四条畷の戦いに出陣する際、“返らじと かねて思えば 梓弓(あずさゆみ)なき数(かず)にいる 名をぞとどむる”と如意輪堂の板壁に記したことは名高い。板壁は今、宝物殿に陳列されている。なお、境内には芭蕉の句碑がある。 “御廟年経て 忍は何を 志のぶ草”

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by y-rekitan | 2019-11-21 11:00
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