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◆会報第94号より-04 石清水七不思議①

石清水八幡宮の七不思議
―その1―

大田 友紀子 (会員)


はじめに

 「七不思議」というと、いずれもその数よりは多くて、清水寺や八坂神社でも、実際には10近くある事もあり、数え挙げて説明を加えて巡ると、案内する方もされる方も一緒になって楽しむ事が出来ます。案内をしながら、それぞれの「七不思議」を他の社寺との相違点を列挙する事により、関心が高まります。観光誌の特集記事にもなるほどの人気ぶりです。そこで、私の独断と偏見で、石清水八幡宮の七不思議を考えてみたいと思います。
 それぞれ不思議とされるのは、有形の物では建築物や石塔などの造形物で、神木や大樹などの植物があります。無論、それらを彩るいわれとかには無形の物が関わっています。先日、石清水八幡宮のある神職の方から、不思議に思われるところなどをお伺いしたら、「社殿の地下がどうなっているのかが不思議です。」とおっしゃっておられました。その話になると、思い出すのは、以前、関西学院大学の西山克文学部教授が「聖地からの警告」というテーマで書かれていた中で、石清水八幡宮本殿がしばしば鳴動した事を書いておられたので少し引用したいと思います。
 その昔、天下異変の知らせと捉えられていた鳴動現象の記録の列挙に神功皇后の盾列(たてなみ)陵(奈良市)や応神天皇の誉田陵(大阪府羽曳野市)が挙げられていて、「いや天皇や皇后のお墓だけではなかった。石清水八幡宮(京都府八幡市)の鎮座する八幡山(男山)も激しく鳴動を繰り返しているし、春日山(奈良市)も鳴っている。御所の内侍所神鏡という三種の神器の鏡も鳴るし、祇園御霊会の神輿も鳴っている。(後略)」とあり、「神となった始祖たちは、ときに墓や木像を鳴動させて警告を発した」と述べておられます。

石清水八幡宮の七不思議(一~三)

 そして、天皇家に関わる事態には石清水八幡宮の鎮座する男山が鳴動したと言われています。その例として、『太平記』巻第27の冒頭の「天下妖怪事付清水寺炎上事」には、貞和5年正月頃より、「犯星客星(ぼんせいせいきゃく)」の記事に始まり、2月26日夜半の将軍塚の鳴動、翌日の清水寺炎上に続き、6月3日には「八幡ノ御殿、辰刻ヨリ酉時マデ鳴動ス。神鏑(しんてき)聲ヲ添テ、王城ヲ差テ鳴テ行(ク)。」とあります。八幡神の放った神矢が御所の方角を差して飛び去った事が書かれています。このような石清水八幡宮の鳴動は、近世に入ってからは少なくなりました。◆会報第94号より-04 石清水七不思議①_f0300125_8292030.jpg その事と、社殿が石垣の上に造られた事とは無関係でしょうか。石垣の上に社殿が造営されたのは何時だったのでしょうか。そして、何故今日の形態に改められたのかも不明、そして、石垣が南方向から徐々に高くなっているのも本当に不思議です。本殿の地下には空間があるのかないのか。
 その石垣の東北角は、鬼門除けのために欠けた形になっており、七不思議の一つに数えています。◆会報第94号より-04 石清水七不思議①_f0300125_8392586.jpg今年のKPRESS7月号の『京阪的・京都ツウのススメ』に「平安京の鬼門除け」の中で、裏鬼門を護る石清水八幡宮として、紹介されています。この10月1日に駅名の変更があるので、配布されている京阪電鉄の告知チラシ「おけいはん発・石清水八幡宮 “はち”不思議」にも、「なぜか横にそれる参道?!」や「目貫の猿」などが取り上げられています。
 本殿に関しては、その他、本殿周囲の瑞垣(みずがき)のカマキリの彫刻が挙げられます。今年で1150年になる祇園祭前祭の山鉾の一つである蟷螂山のルーツとされていますが、それに関する話は代々の神職間で伝えられて来ましたが、それについての文献などは無く、それ自体も謎と言えると思います。本殿の神様の御心を楽しませるために施された彫刻類の中で、確かに昆虫が取り上げられている事自体が不思議で、蝶以外では他には無いと考えられています。そして、それが著名な左甚五郎の手によるものともなれば、なおさらです。南東角のカマキリに対して西南角には「葡萄とリス」が彫られています。一見すると不思議な取り合わせのように見えますが、中国を中心に東アジア地域では工芸品のデザインとしてよく使われているそうです。その理由としては、葡萄はたわわに実をつけ、リスは子だくさんの動物である(と信じられている)事から、両者は共に「幸せの象徴」とされています。◆会報第94号より-04 石清水七不思議①_f0300125_852478.jpg
 そして、日本では江戸時代頃になると、刀剣の鍔の文様にあしらわれるようになりました。それはダジャレとも言えるのですが「ぶどうとりす」が「武道を律(り)す」となる事からとか。「武道を究める」つまり「武士道」の精神性を表す象徴と見られているのです。
私は、このような事から、「葡萄とりす」と南東角のカマキリと対照的に捉えています。と言うのは、ちょうど、「目貫の猿」と相対していて、武士道(と言う儒教精神)を重んじる徳川将軍の象徴であり、豊臣秀吉に見立てた自由奔放なサルを見張っているように思えてきます。昔の支配者(徳川将軍家)にとって、一番神経を使うのは敗者と向き合う事で、ないがしろに出来ないので、「御霊」神として崇め、日夜祈る事で災いを起こさずにいてもらう事、そのために八幡宮寺の祈祷力を頼むしかなかったのでしょう。私は、同様の理由で、宝蔵坊の坊名を「宝」から「豊」に変えたのではないかとも思っています。
 南東角のカマキリの彫刻の存在についてですが、あくまでも仮説としてですが、正平7年5月の後村上天皇の賀名生への帰還が四條隆資卿の計らいで決められ、その事に感謝して慰霊の意味で彫り物として、カマキリを、と言う事になったのではないでしょうか。暦応元年(1338)7月の兵火によって本殿以下が焼亡しました。その当時の宮寺の人々にとってその悪夢のような光景はぬぐいきれない生々しい記憶です。その二の前とならないようにという憂慮の上での話し合いが度々持たれ、その願意を汲んでくれた隆資卿の凄惨な斃死を受けて、宮寺の人々は哀悼の意を込め、祭神への荘厳の形で飾る事を選んだのではないでしょうか。その死後、25年目に創建された蟷螂山の慶事に、石清水八幡宮寺の人々の心は大いに慰められた事でしょう。蟷螂山の創建とカマキリの彫刻、どちらが先かは分かりませんが、時期的には大差ない、と思いたいです。その思いは伝承として、脈々と受け継がれたのでは。
 その他、本殿自体にも不思議は多く存在しますが、それは他には無いところが多いからです。その代表格はと言うと、北側の複廊でしょうか。本殿の後ろに祀られている武内社も、不思議ですよね。
 ここまで三つの不思議を挙げて来ました。一つ目は石垣上の社殿、二つ目は鬼門除けの北東角、三つ目はカマキリの彫刻です。その他、本殿東南の蟇股の飛龍の彫刻、東社殿寄りの瑞垣のウサギの彫刻も、神功皇后の生まれ年に因んでいるとも言われていますし、言い出せばきりがありません。楼門の虎と龍も左右逆では、との指摘もあります。それは、南面して座られる神様から見ると、左の上段には祖父家康の虎、右に家光の龍と言う事で、京都御所の紫宸殿前の左近の桜、右近の橘と同じようです。因みに、二条城の唐門でも同じで、左に虎で、右に龍です。いわゆる平安京の守り神である四神の配置とは全く逆です。

 次は、社殿を出て、斜めの参道が四つ目(少し触れています。)、三の鳥居前の「一つ石」(どこまで埋まっているのか不明)が五つ目、そして、六つ目の不思議を書きたいと思っております。 (次号に続く)

(京都産業大学日本文化研究所 上席研究員)


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by y-rekitan | 2019-11-21 09:00
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