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◆会報第95号より-02 八幡古寺巡礼7

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《歴探ウォーク》
八幡の古寺巡礼
―第7回:「西遊寺さいゆうじ久修園院くしゅうおんいんを巡る」―  

2019年12月 八幡市橋本 にて
田坂 喜彦 (会員)

 八幡の歴史を探究する会の「第7回八幡の古寺巡礼」は12月2日、橋本地域の「西遊寺」と「久修園院」を巡りました。両寺院には、5年前の例会「橋本の歴史(Ⅰ)『京街道を歩く』」(2014年3月15日)の時も訪れましたが、今回は両寺院ともご住職から直接お話を聞くことができました。久修園院に隣接する「国史跡 楠葉台場跡」も前回訪れましたが、その後史跡公園として整備されましたので、「古寺巡礼」終了後、希望者で訪れました。
なお、近く大きく変わる橋本の歴史遺跡や街並みについても若干紹介しました。
 参加者は36名でした。以下、その概要を報告します。

1.八幡浄土宗36ケ寺の1つ西遊寺(橋本中ノ町)

 集合したのは西遊寺の倉庫前。この「倉庫」は、これまで橋本地域の人々の間では「橋本陣屋の武器庫を移築したもの」◆会報第95号より-02 八幡古寺巡礼7_f0300125_1430431.jpgと言われていましたが、西遊寺の古文書「土蔵新建諸記」には明治2年(1869)に「楠葉関門にあった蔵を鍵屋久左衛門によって新建させた」との諸費用の内訳も入った記述があり、楠葉関門台場にあった建物を譲り受けここに移築したものと考えられます。
 安政5年(1858)、八幡・山崎の警備を命じられた松江藩は橋本陣屋が新設されるまで西遊寺で分宿していました。西遊寺も「鳥羽・伏見の戦い」と無縁ではありませんでした。
◆会報第95号より-02 八幡古寺巡礼7_f0300125_1435508.jpg 本堂に入る前に、別棟の観音堂 (地蔵堂)に祀られている八幡市内で最も古い仏像である木造天部形立像「帝釈天立像」(八幡市指定文化財)を拝観しました。
 元々はここから500mほど離れた狩尾神社 (橋本狩尾) の帝釈天堂に祀られていましたが、明治初めの神仏分離令に伴う廃仏毀釈で、明治11年(1878)に西遊寺に移されてきて客仏として安置されているものです。平安時代後期のカヤ材による一木造で、◆会報第95号より-02 八幡古寺巡礼7_f0300125_14395631.jpg高さは約147cmあり、凛々しく立っておられます。右手に独鈷杵(とっこしょ)を持ち、衣にはこの時代の特色である翻波式の衣文がみられます。かつては彩色されていましたが、今は剥落しています。
 本堂に入って、西遊寺の和田恵聞住職から寺院の由来や仏教の教えについて話していただきました。西遊寺は「普現山 聖善院 西遊寺」と称する浄土宗のお寺で、ご本尊は阿弥陀三尊です。近年修復されたとのことで、ご本尊とその周りは、金色に輝いていました。
 八幡は寺院の数が多く、江戸元禄期には150ケ寺以上の仏閣がありましたが、そのうちの7割は浄土宗でした。これは石清水八幡宮や徳川家とゆかりの深い正法寺の存在が背景にあると考えられています。浄土宗の中でも有力な寺院を「浄土宗36ケ寺」と呼ばれていますが、西遊寺もその一つです。
 西遊寺は、天正元年(1573)、のちに江戸・増上寺第10世住職になった感譽(かんよ)上人によって開山されました。小田原城主北條氏康の次男であった感譽上人は、ここが浄土宗の宗祖・法然上人が石清水八幡宮参籠の際の故地(由緒地)であったことを記念して、寺院を創立しました。そして法然上人の西国遊歴の縁起により寺号を「普現山西遊寺」と名付けたといわれています。感譽上人の弟子であった二世欣譽上人の代に堂宇が整えられました。◆会報第95号より-02 八幡古寺巡礼7_f0300125_1444470.jpgご住職が「西遊寺は出世寺と言われています」と言われたように、歴代の住職の中には感譽上人のように著名な寺院に移られる方が多かったようです。諸国を遊化する僧侶が立ち寄る要地でもあったとも言われています。
 その後、徳川家康から出陣の際に金襴の袈裟を賜り、庇護を受けたといわれています。慶長5年(1600)、徳川家康から朱印地5石5斗を給わって法灯盛んとなり、別格本山として末寺九ケ寺を擁するようにもなりました。
 ご住職からは、仏教の基本的な考えや、どのような人も「南無阿弥陀仏」のお念仏を称えることによって救われ、極楽に往生できるということを説く経典「観無量寿経」の一端も解説していただきました。
 ◆会報第95号より-02 八幡古寺巡礼7_f0300125_14464267.jpg西遊寺には数多くの古文書や朱印状が残されています。京都府立大学文学部歴史学科の調査報告書『石清水門前寺院・南山城の古文書』(2016年刊)によりますと、「古文書目録」には96の古文書、「朱印状目録」には江戸幕府が将軍の名で発給した12通の領地朱印状を含む16の朱印状が記録され、そのいくつかは写真入りで掲載されています。
 古文書の中には、明治10年代の「境内図」も入っています。そこには、本堂と書院、庫裏、鐘楼堂、観音堂 (地蔵堂)と思われる堂、そして北の山すそにある池の中島には切妻の小堂などが描かれています。

2.行基が開基し、宗覚律師が中興した久修園院(枚方市中之芝)

 次に訪れた久修園院は、枚方市内に建っていますが、開基した行基や、寺を中興した宗覚律師(石清水八幡宮大乗院の僧)の存在など、「八幡の古寺」とも言えるほど八幡とゆかりの多い寺院です。
 今回本堂に入って驚いたのは、堂内の周りいっぱいに宗覚律師作の仏画や曼陀羅図が掲げられていたことです。数日前の法会で公開されたものを私たちのために仕舞わずに残しておいていただきました。その中で、佐伯俊源住職から寺院の由来や曼陀羅図などについてお話をしていただきました。
 7世紀後半(白鳳時代)、仏教の民間伝道と社会事業で活躍していた僧・道昭が道や河川交通の要衝・橋本に「山崎橋」を架け、その弟子である僧・行基が奈良時代にその痕跡を見て再架橋しました。山崎橋は、宇治橋、勢多橋(瀬田の唐橋)とともに「古代三大橋」に数えられており、そのたもとに集落ができたことから「橋本」という地名も名付けられました。久修園院は、この山崎橋の「橋守の寺」として、橋の維持管理と旅人の便宜をはかるとともに往来人の布教のために神亀2年(725)に行基の発願で開基した寺院です。対岸の山崎にも「橋守の寺」として「山崎院」が天平2年(731)に建てられましたが、今は廃寺となっています。
 久修園院は、「天王山木津寺」と号する真言律宗の寺院で、名前は、「妙法蓮華経巻第六 如来寿量品第十六」の経典に由来しています。本山は奈良・西大寺で、久修園院は真言律宗の別格本山で、ご住職は西大寺清浄院の住職と兼ねておられます。創建当初は、小規模なお寺であったようですが、やがて聖武天皇勅願の七堂伽藍と多くの塔頭をもつようになったとも伝えられています。行基が建立した四十九院で現存しているのは十寺院に満たず、貴重な存在のお寺です。
 ご本尊は、幾多の猛火から難を逃れた「釈迦如来立像」(高さ165cm)で、高さは5尺(約165㎝)で、左手に金鉢、右手に錫杖を持つ托鉢修行中の姿をしておられます。そのため、享和元年(1801)に出された『河内名所図会』には「釈迦堂楠葉村にあり」と記され、久修園院は「釈迦堂」と呼ばれていました。元和元年(1614)の大坂夏の陣の時、豊臣方の敗走者が寺にかくれ放火して自殺したため、久修園院の多くは消失しましたが、ご本尊は里人の柏木道悦によって猛火の中から救出されました。
 中世以降、久修園院は、叡尊上人(蒙古襲来のおり蒙古退散の祈祷を石清水八幡宮で行った西大寺の僧)ゆかりの石清水八幡宮別当寺大乗院(西大寺末寺)の管理下に置かれましたが、延宝8年(1680)、中興の祖といわれる石清水八幡宮大乗院の僧・宗覚律師によって再建されました。宗覚律師は、釈迦如来立像を自ら修復し、宗教活動はもとより学識も深く、地理学・天文学・医学・仏像・絵画・工芸・音楽・武術などを極めた多芸多才の人で、『久修園院縁起』なども著しています。
 ご住職から解説していただいた久修園院所蔵の『両部大曼荼羅』は、『胎蔵界』と『金剛界』の図が一対になっており、京都・東寺の『元禄本両部曼陀羅』(絹本・重要文化財)と全く同寸の一揃いの複本(紙本)で、どちらも宗覚律師が製作したものです。いずれも縦約5m、横約4.5mという大きなもので、金や青、朱などの鮮やかな色彩で大日如来などが描かれています。今の本堂は、これらが内陣で拝観できるようにと建立されました。
 東寺のものは、真言宗の開祖・空海が唐から持ち帰った「根本曼陀羅」を模写した「両界曼荼羅」の破損が著しいため、孝源僧正が絵画の堪能な宗覚律師に命じて元禄6年(1693)に新作させたものです。見るだけでも功徳があると言われる「曼陀羅」ですが、大法会のあとは東寺宝蔵に収納され一般民衆が礼拝することができないので、宗覚律師は許可を得て複本を製作し、久修園院に安置したと言われています。
 私たちが本堂で見せていただいた小幅な一揃えの曼陀羅も宗覚律師製作のもので、楠葉の西法寺にありましたが廃寺になったため久修園院に移管されました。「両部大曼荼羅」は、今のご住職が久修園院に来られたのを機に、平成27年(2015)に100年ぶりに公開され、現在も年1回公開されています。
◆会報第95号より-02 八幡古寺巡礼7_f0300125_14541924.jpg つづいて「愛染堂」では、「愛染明王坐像」を拝観しました。宗覚律師が制作されたもので、高さ約2mの日本最大級の大きさに圧倒されました。「愛染像」は人々の愛欲や煩悩を浄化して清らかな愛の成就を祈るため造られることが多いそうですが、ここに祀られているものは宗覚律師の母の死後8年目に母を慕って制作された「慈母愛染像」だとも言われています。
 元禄15年(1702)頃に作られた直径1m、重さ80㎏の銅製の精巧な「天球儀(渾天儀)」や「地球儀」《ともに枚方市指定文化財》も見せていただきました。これも宗覚律師の作で、江戸時代半ばによくこのようなものが作られたものだと感心しました。◆会報第95号より-02 八幡古寺巡礼7_f0300125_14571227.jpgご住職は「天球儀や地球儀はよく知られているが、曼陀羅図など他のものにも注目してもらいたい。文化財として指定されるべきものもある」とおっしゃっていました。
 慶応4年(1868)の「鳥羽・伏見の戦い」では、久修園院にも旧幕府軍の本営が置かれました。その際、淀での戦いで傷ついた歩兵指図役頭取・森田貫輔が境内で自刃し、その首級が寺の宝篋印塔の下に密かに埋められました。部下で介錯をした大森鐘一(当時18歳、のち京都府知事)らが大正2年(1913)になって同寺を訪れ、淀の長円寺に改葬しました。その時の「首受領書」の証文が、寺に残っているということです。
 「愛染堂」の西側には「霊亀社」があり「亀道祖神」が祀られています。久修園院には、次のような亀の報恩説話が『今昔物語集』に収録され、伝えられています。
 平安時代前期の貞観年間、地方行政統括官僚だった藤原高房(795~852)が西国に下向するため、愛児をともない淀川を舟で下った。このとき、かねてから幼児をなき者にしようと悪だくみをめぐらしていた継母と乳母が、過ちらしくよそおってわざと幼児を水中に突き落とした。折からの大水で、みんなは救助の道がなくぼう然としていたが、藤原高房は舟中より見える久修園院の方を伏し拝み、ひたすらわが子の救護を祈った。
 すると不思議なことに、先刻、淀の橋のあたりを通った時に、◆会報第95号より-02 八幡古寺巡礼7_f0300125_1512211.jpg鵜匠に捕らわれ殺されようとしていたところを助けて水中に放してやった亀が、幼児を背にのせ、水中より浮かび上がってきた。この亀の報恩で助かった幼児は、のちに藤原山蔭中納言になる。
 それ以来、高房父子は久修園院を氏寺と崇め、本尊の「釈迦如来立像」を守護仏として厚く帰依したため、寺院は大いに栄え、多くの人々の信仰を集めた。
 亀に助けられたという幼児はのちの藤原山蔭で、元慶3年(879)頃に大阪・茨木市の総持寺(高野山真言宗・西国三十三所第22番札所)を創建します。高房の死後、山蔭が報恩のため観音像を造立し祀ったのがその起源だといいます。本尊は木造千手観音立像(秘仏)で、千手観音は亀の背に乗っています。後に中納言に任じられ、四条流庖丁式の創始者としても知られており、庖丁の神、料理・飲食の祖神として京都市の山蔭神社に祀られています。
八幡市内の江戸時代の道標には「津の国そうじ寺」と摂津国の総持寺への案内を記したものがいくつかあります。

3.「鳥羽・伏見の戦い」の跡・国史跡 楠葉台場跡(枚方市中之芝)

 「八幡の古寺巡礼」は久修園院の拝観で終わりましたが、隣接する国史跡「楠葉台場跡」の見学希望者は表門でみんなと別れて史跡公園を散策しました。5年前の「歴探の歴史探訪」でも訪れましたが平成23年(2011)、跡地がそのまま史跡公園として整備されたためです。案内看板が立ち、かつては久修園院前の田畑の中に放置されていた「戊辰役橋本砲臺塲跡」と刻まれた三宅安兵衛遺志碑も再移築されました。◆会報第95号より-02 八幡古寺巡礼7_f0300125_1543380.jpg 文久3年(1863)、京都守護職の会津藩主松平容保は、淀川両岸に台場修築を幕府に建言しました。それ以前にあった台場建設計画は、外国船の京都侵入を阻止するというためでしたが、松平容保の意図は、それに加え関門(関所)を設け尊王攘夷派志士の京都侵入を阻む目的のためでした。このため、松平容保も台場設計総裁の勝海舟もこの地を訪れ、巡視しています。
 慶応元年(1865)に楠葉台場は完成し、対岸の西国街道沿いに梶原台場、淀川河川敷には高浜船番所(高浜砲台)が設けられました。楠葉台場は、稜堡式築城を採用し、堀(西側は大谷川)と土塁で守られ、南側に3ケ所のカノン砲を備えた大砲台が設けられました。見張台や火薬庫もありましたが、北側は土塁も堀も半分程度しかなく大阪側を意識した造りになっていました。京街道はルートを変更して台場内に引き入れられ、番所も設けられています。のちに、水上の監視を強化するため、楠葉台場に隣接して附属の「船番所」も設置されました。
 慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いでは、首脳部は楠葉台場に司令部を置き陣取るものの、淀方面から敗走してきた旧幕府軍は橋本や八幡周辺に配置されました。橋本、八幡周辺が戦場となった1月6日も旧幕府軍は劣勢を覆すことができない上、午前9時頃、淀川対岸の高浜砲台(カノン砲5門設置・710人が駐屯)からも、新政府軍に寝返った津・藤堂藩が楠葉台場や橋本陣屋、橋本の街に向けて砲撃してきたため、旧幕府軍は総崩れとなり、敗北が決定的になりました。楠葉台場は兵站基地と使用されたものの防御線としては機能せず、午後4時頃、旧幕府軍は全軍がここを素通りし、大阪城へ向けて敗走しました。
 楠葉台場は新政府軍に占領され、明治2年(1869)には新政府による関所廃止で警備を中止し、払い下げられます。そして、明治40年 (1907)から始まった京阪電車の敷設工事で、楠葉台場の土塁なども転用されて消滅し、田畑になってしまいました。

4.大きく変わる橋本駅前周辺の街並み

 「古寺巡礼」で歩いた「西遊寺」から「久修園院」へ結ぶ道からは、下記のような歴史遺産が見られました。

① 常徳寺〔湯澤山茶久蓮寺〕跡の三宅碑
  橋本駅前の道標(三宅碑)は、昭和37年(1962)に廃止された「橋本渡舟場」への道案内を兼ね、「湯澤山茶久蓮寺跡」と書かれて常徳寺があったことを記しています。
 常徳寺は曹洞宗の寺で、西遊寺の西隣にありましたが、文化10年(1813)に焼失しました。寺は室町時代末期に、将軍足利義尚(常徳院)の出陣の際に付き従う陣僧であった春庭によって開基された。そのため、もとの「浄徳寺」を「常徳寺」に改められました。
 豊臣秀吉の帰依を受け、寺を訪れた秀吉が茶を所望したのに白湯を進上したので「湯沢山茶くれん寺」と言われたという伝説が伝わっています。同じ伝説は、京都市の浄土院や姫路市の法輪寺にも残っています。

② 元橋本歌舞練場〔検場〕(橋本焼野)
  西遊寺の斜め前に建つ「元橋本歌舞練場」は、芸娼妓慰安余興場、橋本地域貸座敷組合事務所、娼妓の検場を兼ね、大正12年(1923)にそれまであった中之町(橋本中ノ町)から移されました。
 ここでは 映画上映、芝居、チャンバラ劇の巡回興行なども行われ賑わっていました。橋本の氏神・狩尾神社の祭礼では夜遅くまでは大演芸会が開催された。青年団が主催し、子ども会も含め町内の人々の歌や踊り、芝居、万才、長唄などが披露され、300人ほども参加する地域文化の交流の場でもありました。◆会報第95号より-02 八幡古寺巡礼7_f0300125_1554538.jpg 当時の建物は3階建てで、1階は舞台や観覧座席があり、2階も観覧席となっていました。舞台には回り舞台やセリ、花道もある本格的な歌舞練場でした。北側の入口正面には、昭和12年(1937)6月に再興50周年を記念して建立された「養神」と記された記念碑と稲荷神社がありました。
 昭和33年(1958)の売春防止法施行後は個人所有となり、内部は町工場として利用されていました。その後アパートに改築され、数年前まで使用されていました。

③ 橋本陣屋跡
 バスロータリーや駐車場があるあたりには、幕末、江戸幕府が長州などの反幕勢力を監視し、京街道を警固する目的で、「橋本陣屋」が築かれました。安政5年(1858)、突然、京都所司代と京都町奉行の与力・同心が来て縄張りを行い、万延元年(1860)には工事が完成しました。土地の持ち主には代わりに年貢代米が支払われました。敷地は5000坪におよび、北門からは館2棟、馬6頭分の厩、番所が並び、京街道に通じる西門の横には武器庫や兵隊の宿舎である長屋が配され、土蔵2棟や米倉もありました。
 慶応4年(1868)1月6日、「鳥羽伏見の戦い」で淀から敗走してきた旧幕府軍は、橋本陣屋など八幡・橋本で戦いました。しかし、津・藤堂藩が橋本の対岸・高浜船番所(高浜砲台)からも約4時間火砲を打ち込まれ、橋本の街も120軒のうち82軒が焼かれます。旧幕府軍は総崩れになり、大坂城へ敗走しました。「鳥羽伏見の戦い」はここで旧幕府軍の敗北が決し、幕藩体制は崩壊していきました。
 橋本陣屋の跡地は明治2年(1869)、以前の持ち主に返却され、その後、明治22年(1889)に八幡紡績株式会社の工場が建てられました。しかし、明治末期の紡績業の景気悪化で、大正元年(1912)、津田電線合名会社に買収され銅線などを製造していました。いずれも八幡町では一番大きな工場でしたが昭和46年(1971)、工場は操業を止め閉鎖されます。今も京阪電車の踏切に「津田電線踏切」という名前が残っています。

④ 小 金 川
 小金川(こがねがわ)は、「金川」とも書かれ、山城国と河内国の国境であり、現在も京都と大阪の府境、八幡市と枚方市の市境となっています。『河内名所図会』に、京街道が橋本の街に入るところに「金橋」が架かっていたことが描かれています。小金川は小金川樋門を経て大谷川と合流し、淀川に流れていきます。

 これらの橋本の街並みや歴史遺産は、今すすめられている橋本駅前とその周辺の整備計画で大きく変わろうとしています。元橋本歌舞練場は、令和2年(2020)4月から取り壊しが始まり、跡地周辺は「駅前広場」に整備されます。橋本陣屋跡地も、「分譲マンション」や「有料老人ホーム」などを建設する計画が考えられています。
 橋本駅周辺の街並みは、いま、大きな転換点を迎えています。



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by y-rekitan | 2020-01-27 11:00
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