―その2― 大田 友紀子 (会員) 前回は、石清水八幡宮寺(男山自体も)が天皇家を諌めるために鳴動したりする事により、恐れられもし崇敬された事など、今では想像も出来ないくらいの権威を持っていた石清水八幡宮寺の時代について書きました。それ故に、南北朝時代の暦応元年(1338)7月の兵火からの復興が、同年12月14日の遷宮という異例の速さで行われました。わずか5カ月余りとは、仮殿であったとしても驚異的な事です。それほどに天皇家、朝廷にとっては何を差し置いてでも成し終えなければならない事であったといえます。鎌倉幕府に次いで幕府を開こうとしていた足利尊氏の崇拝の念も高かったからでもあり、それに加えて、その造営を可能に出来るほどの、自給自足できるほどの職人集団を抱えていたからとも言えるのです。そのご子孫たちが、現在の国宝に指定される根拠ともなった(八幡造りの本社本殿である)寛永期のご修造を成し遂げたのではないかと、私は思っております。 さて、話をもどして、七不思議の四つ目に挙げている“「南総門から本殿の楼門前まで伸びる斜めの参道」”についてお話します。 これまで案内した時に初めて目にされた方は、どなたも一応に違和感を感じられるようです。そこで、そのことを指摘してからお話しすると「そうゆうことなのね。」と安心されるのです。しかし、それはいったいどこから来るのでしょうか。それは、目の前の光景を初めから認めようとしない視角の変化を感じ取ることと同時に、それを否定しようとする思いが心を捉えるからではないでしょうか。あり得ない光景を見て、それを容認出来ない心理はもっともな事ですから。「斜めの参道」が敷かれた理由の一つに山の尾根道に沿っているからだとお聞きした事があります。南に向かって開かれている本殿の方向から、ずれているのはなぜなのか。観光客の方々には、「お参りを済ませて後ろを向いて歩くと、神様においどを向けてしまい、失礼にあたるから。」と、説明しています。けれども、それは後づけで言われていることで、本当の理由では無いようです。 三の鳥居から一直線に走る尾根道の上に参道を設ける必要性があったからです。この場所で、源頼朝が鏑流馬を奉納しています。ということは、一直線の道であったのではないでしょうか。前回もお話したように、本殿のかさ上げされた、つまり、石段の上に本殿が調えられた時に南総門が造られたのでは、と考えています。 私説では、その理由として、尾根道イコール神の道ではないかと思っています。元寇の時、多くの人々が三の鳥居の前に鎮座する「一つ石」から、いまでは見ることが出来ない「五つ石」(南惣門の石段の下に取り込まれた)までをお百度参りをしたと伝えられています。その道は神への祈願の道です。そして、その先の本殿の宝前では、奈良西大寺の高僧、叡尊が一心に「敵国降伏」の祈りを捧げていたのです。それは、亀山上皇の命を受けてのことでした。満願の時、愛染明王の御手から鏑矢が解き放され、鏑矢は西を目指して飛び去り、九州の海に充満していた元と高麗の船団を神風を起こして追い払ったといわれています。 その頃の信仰では、自身が祈る神(この場面では八幡大菩薩)が敵の神を撃退すると信じられていました。確かにその後の報告では、海の中から巨大な龍が現れ、船団を木の葉の如く消し去ったとありました。 眼の前に玄界灘が広がる「日本三大八幡宮」である筥崎宮の楼門には、『敵国降伏』と書かれた扁額が掲げられています。上記の逸話を彷彿させる『敵国降伏』の扁額の字は、小早川隆景が楼門建立の際に、醍醐天皇ご宸筆と伝わる筥崎宮の神宝の三十七葉の内の一つを模写拡大したもので、専門家によると鎌倉時代の文字とされて、亀山上皇のご宸筆との説もあります。「その『敵国降伏』の祈りとは、正確には「敵の降伏する」と読み、「相手が降伏する」との意味で力で支配する覇者の道ではなく徳で治める王者の道をといたものと解されます。」(「日本の神社」66号『神職さんの言葉』より)とあり、同社は「創建時の醍醐天皇や元寇の際の亀山上皇に連なる国家鎮護の祈りと、神話の世界から今日に至る生命のつながりや先人たちの躍動に感動を覚えずにはいられない」と語られています。筥崎宮のご神宝三十七葉の「国」の文字は4種類あり、それぞれ国構えの中には「王」、「民」、「或」と「武」が草書体で記されていて、王と民と武士が心を一つにして祖国日本を治める盤石な國體を象徴しているとか。 次は五つ目として、三の鳥居の前の“「一つ石」”(どこまで埋まっているのかが不明)の謎です。 四つ目ともリンクして、尾根道の不思議でもあります。「八幡山名所案内記」によると、「一個石」と書かれていて、「同所馬場の末、中央ニあり、五個石と同し。」とセットで書かれています。「古ハ御本宮に参て御千度、御百度と称して此所迄下りて、賽(かへりまをし)をして、又御神前に参る。」「賽」とは、「賽銭箱」の「賽」です。漢和辞典を引くと、「①むくいる(報)むくいまつる。神から福を受けたことを感謝して祭る。②お礼まいり。参詣する。賽銭。」とあり、神へのお礼として納めたお金となります。「かへりまをし」と言っていたようです。その参った数を数えて何回も参詣し、その都度、お賽銭を納めたので、「因て近来、寛政の此迄ハ此石の上に賽銭箱あり。菊坊より出す仕丁と争論に及ふ。御当宮に於て決めて無き事ゆえに取除らる。今ハ御本宮を廻(めくる)事に成たり。」、そして、「弘安蒙古襲来の時ハ朝廷より道俗千度参を御出さる。」で締めくくられています。今は、この石の周りに注連を巡らしています。石だけが参道にあった時には、上ばかりを見て歩いていると足を引っかけてしまう恐れがあるなど、危険な状態でした。実は、私も三の鳥居の説明しながら後ろ歩きをした時に、もう少しで踏んでしまいそうになり、ドキリとした事がありました。六つ目に“「細橋」”を採り上げます。 「ささやきばし」と読むこと自体が不思議そのものですが、今、その石橋は、八幡宮寺を統轄する検校などがおられた護国寺跡から上がった所の右側に移され、その東側に伊勢遥拝所があります。昔の絵図にも書かれているので、その頃は渡る事が出来た石橋であったようです。その下を東門の下にある水分(みくまり)社から流れ出た清い水が流れていて、東の下側にある石清水社にまで流れていました。現在、水の流れはなくなり、注連を張り巡らされた石の橋のみで、ケーブルの開通時に現在地に移されたそうです。注連が四方に巡らされていても、気に留める人はいません。往古からの話では、その橋の上にて、東から来られた伊勢の大神と八幡大菩薩の2人の神が人には聞き取れない程の微音で日本のことを話合われるとか、微音で話されることから「ささやきばし」と名付けられたようです。もともと、神様方のお話を人が聞く事自体、禁秘事項です。 次は、七つ目の“「玄武の杉」”です。南面している本殿の後ろには北総門があり、西側に摂社の住吉社、一童(いそら)社が並んでいて、 東側には龍田社、貴船社、若宮社、若宮殿社と並んでいます。その北総門の左に一本の大杉(玄武の杉)が植わっています。古くからの大樹でその根は亀の長い尾のように盛り上がって枝分かれしています。そして、その杉の木には一匹の白い小さな蛇が住み着いているそうです。そして、その姿を見ると、幸運に恵まれるとか。朝早く、もしくは未明の時に神職の方が見られたとか、そんな伝承が伝わっています。私はいつも玄武の尾である木の根を撫でて、願い事を呟いています。(人が見るとけったいな風景です(笑))石清水八幡宮の不思議は七つまで書きましたが、まだまだあります。次は、一番書きたかった「水若宮社」について書かせていただきます。それから、「古今著聞集」に書かれている八幡大菩薩の奇瑞譚についても、触れたいと思っています。 (次号に続く) (京都産業大学日本文化研究所 上席研究員) 一
by y-rekitan
| 2020-01-27 10:00
| 八幡宮の七不思議
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