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◆会報第96号より-02 後期淀屋

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《講演会》
後期淀屋の歴史について
―倉吉そして大坂で再興―

2020年2月 
八幡市文化センターにて

毛利 信二 (淀屋研究会代表)
 
 2月3日(月)に八幡市文化センター第3会議室にて表題演目の講演会を開催しました。 
 八幡には前期淀屋の屋敷跡や墓があり縁が深くよく知られているが、本講演は、倉吉に淀屋の出店をつくったこと(牧田淀屋)及び前期淀屋(5代)の闕所から59年後に大坂で淀屋を再興した後期淀屋に関する淀屋研究会の活動成果の報告でした。当日の参加者は37名。
 本講演要旨を講師の毛利氏に起案していただき、会報編集担当が構成・取りまとめた。なお、前期淀屋は丹波紀美子氏執筆の「淀屋(前期)について」の記事を参照下さい(本会報96号に掲載)。

 
1.神應寺にある淀屋の墓所

 紅葉の名所の神應寺には、墓地の一角に淀屋の墓所があります。淀屋2代目言當、淀屋3代目箇斎、そして言當の弟岡本道雲(箇斎の父)の供養塔。そしてその前に淀屋5代目広當の小さい墓があります。豪商淀屋は1705年(宝永2年)に幕府から闕所(財産没収と所払い)の処分になり、「祖先に対して申し訳ございません」と頭を垂れているようにも感じます。墓には「潜龍軒咄哉个庵居士(せんりゅうけんとっさいこあんこじ)」と刻まれて、「今は地下に潜っているが、いつか龍となり再び天下に出てくるぞ」と宣言しているようにも解釈できます。その横に2015年5月に作家の新山通江さんの墓が建立されました。なお、淀屋本家の墓は大阪の大仙寺に、又淀屋分家の墓は大阪の珊瑚寺にあります。
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2.新山通江さん(作家)と伊藤博章さんについて

 新山通江さんは1926年(大正15年)京都に生まれ堀川高女を卒業後に、父の故郷倉吉付近に住まいを移しました。1979年頃は倉吉市の洋装店ササキに勤務されていました。その時に大きなニュースがありました。その様子を1979年6月5日の日本海新聞が次にように伝えています。見出しは「淀屋清兵衛は同一人物だった」そして内容は、『倉吉・淀屋家の墓を発見したきっかけは、倉吉市仲ノ町 会社社長佐々木安弘さんが数年前、地元の古老から「大坂の淀屋と関係があるのではないか」聞いていたことから。このため、佐々木さんや福嶋住職、同住職の妻和子さんらが調べた結果、寺に残っている過去帳や位牌などから、倉吉にも初代の淀屋清兵衛をはじめ、三代にわたり清兵衛を名乗る牧田家であることがわかった。そこで、永年にわたって大阪・淀屋の史実を研究している元大阪市立大学講師・横山三郎さんを先月末から倉吉に招き、横山三郎さんが墓や寺の古文書を鑑定して大阪と倉吉の清兵衛は同一人物だったと断定したもの・・・』◆会報第96号より-02 後期淀屋_f0300125_9221712.jpg これを機会に倉吉では淀屋の実態を調べることになりました。
 社長の佐々木安弘さんは、社員の新山通江さんに淀屋を研究してほしいと頼みました。新山通江さんは、淀屋に関係する書籍等を調べ、大阪大学名誉教授の宮本又次さんなどの教えを請いながら、新山通江さんが主体に編集した『鴻鵠の系譜』(1981.2.25 鴻鵠の系譜編集委員会)の発行にこぎつけ、又倉吉の有志の編集による『日本を変えた淀屋』(1981.4.20因伯時事評論社)も発行されました。新山さんは、その後資料を調べ、淀屋の史跡を訪ねて『淀屋考千夜一夜』(1985.7.25発行)、『真説淀屋辰五郎上・下』(2003.4.10)等の発行となった。
 2004年4月より倉吉市大阪事務所長の伊藤博章氏さんと新山通江さんが淀屋の顕彰活動を大阪と八幡、倉吉を中心に始めました。
 2005年4月には神應寺で「淀屋闕所300年忌の法要」を、2005年5月には鳥取県大阪事務所交流室で「淀屋闕所300年記念の淀屋サミット」が開催されました。
これを契機に、大阪では淀屋研究会(代表は伊藤博章さん)と倉吉では淀屋サミット委員会が発足して、展示会や講演会など毎年顕彰活動をされてきました。そのお蔭で豪商淀屋は少し世間に知れ渡るようになってきました。
 しかし残念なことに、伊藤博章さんは2014年7月75歳、新山通江さんは2015年2月88歳で逝去されました。
 特に、新山通江さんの生前のご遺言もあり、神應寺の大木祖淨住職のご厚意により神應寺にお墓が建立されました。そして2015年5月に神應寺で関係者をお呼びになって法要が行われました。

3.倉吉淀屋(牧田淀屋)8代の歴史について

 倉吉淀屋のことは、牧田庸一さん(牧田本家の子孫)から『牧田本家系図」や『牧田本家過去帳』の提供。神戸の牧田博之さん(淀屋清兵衛の子孫)から『牧田分家系図」の提供。その後に鳥取県博物館に「伯耆国東三郡旧藩中米金等授与之者其□廃絶ニ□御恩典願(牧田家)」が保管されていることがわかり入手して一気に全体像がわかってきました。そのほか『鳥取藩史』『鳥取県史』『新鳥取県史』『鳥取県の歴史』『鳥取県大百科事典』『倉吉町誌』『倉吉市誌』『倉吉市史』『鴻鵠の系譜』『鴻鵠の系譜(続)』などから牧田家に関する情報を収集して倉吉淀屋の事が分かってきました。

次に倉吉淀屋(牧田淀屋)の8代と主な出来事を列記します。
(初代)牧田仁右衛門季佳(1637~1720)84歳で没(倉吉淀屋のスタート)
  ・天和 2年(1682) 淀屋番頭の牧田仁右衛門が倉吉で米屋・開業
  (豪商となった淀屋は幕府に潰されるのではと危機感を抱き暖簾分け)
  ・宝永 2年(1705) 前期淀屋(大坂淀屋)が闕所(財産没収と所払い)
  ・正徳 4年(1714) 町火消役
(2代)牧田孫三郎季昌((1670~1730)61歳で没
  ・正徳 4年(1714) 岩阿弥陀仏の寄進
  ・享保 6年(1721) 伯耆国一之宮への六神像の寄進
  ・享保12年(1727) 町火消役
  ・享保14年(1730)ごろ 大坂へ(多田屋を僣称)
(3代)牧田五郎右衛門寿弘(1703~1777)75歳で没
  ・宝暦 5年(1755) 町目代
  ・宝暦10年(1760) 牧田淀屋家が建築(現存)
  ・宝暦11年(1761)ごろ 大坂へ(多田屋を僣称)
(4代)牧田五郎右衛門善与(1729~1786)58歳で没
(5代)牧田孝四郎成庸(1761~1822)62歳で没
  ・寛政元年(1789) 町目代
  ・寛政10年(1798) 藩主公務用度補助(15両)
  ・文化 7年(1810) 国恩冥加の献納(2207両)
  ・文政 4年(1821) 鳥取城普請入費補助(60両)
(6代)牧田仁右衛門庸信(1789~1846)58歳で没
  ・文政 5年(1822) 藩用金談で大坂へ、金銀貸付座締役
  ・文政 9年(1826) 凶年貧民救助を献納(300両)
  ・文政10年(1827)国恩冥加の献納(746両)
  ・天保 3年(1832) 藩主公務用度金献納(9両)
             倉吉名家7軒の富豪
  ・天保 8年(1837) 大飢饉貧民救助を献納 (133両)
  ・天保 9年(1838) 「倉吉淀屋」附属屋増築(現存)
  ・天保 9年(1838) 大蓮寺に「本尊仏厨子」の寄進
  ・天保11年(1840) 銀主方に就任、8人扶持の増
  ・天保11年(1840) 国恩冥加の献納(270両)
  ・天保12年(1841) 長谷寺観音堂の紋付幕の寄附
  ・天保14年(1843) 藩主公務用度金献納(103両)
  ・弘化 3年(1846) 西国33カ所巡礼夫婦と同行者
(7代)牧田仁右衛門庸定(1823~1856)34歳で没
     (俳諧を好んだ、号は長翆軒、文人が多く来倉した)
  ・弘化 2年(1845) 「御用場御手伝銀」240貫目
  ・弘化 4年(1847) 藩主公務用度金献納(70両)
  ・嘉永元年(1848) 長谷寺に絵馬奉納(現存・市指定文化財)
  ・嘉永 2年(1849) 藩主公務用度金献納(67両)
  ・嘉永 3年(1850) 軍事費を献納(30両)
  ・嘉永 7年(1854) 広瀬旭荘(儒学者・漢詩人)が倉吉に来遊
(8代)牧田孫三郎庸業 (1846~1895)50歳で没
  ・万延元年(1860) 凶年貧民救助を献納(正米4石)
  ・元治元年(1864) 軍用馬上銃を献納(5挺)
  ・慶応元年(1865) 軍費補助を献納(40両)
             鉄砲買入金を献納(200両)
             国恩冥加の献納(283両)
  ・慶応 3年(1867) 臨時銀主に就任
  ・明治 2年(1869) 町年寄に就任
             国恩冥加の献納、凶年貧民救助を献納
  ・明治 3年(1870) 藩知事池田慶徳への年頭御礼参列者名簿町年寄
             :牧田孫三郎、遠藤吉五郎ら
  ・明治 4年(1871) 廃藩置県(鳥取藩⇒鳥取県)
  ・明治 5年(1872) 『久米郡倉吉宿田畑字限図』に牧田孫三郎の
             屋敷と持家が数箇所              
  ・明治12年(1879) 『伯耆国東三郡旧藩中米金等授与之者其口廃絶ニ口
             御恩典願』鳥取県令境二郎殿に提出        
  (明治 9年~14年まで鳥根県)
      牧田孫三郎:諸役免除・町奉行別支配臨時帯刀・永世扶持8人口
  ・明治26年(1893) 倉吉大洪水
  ・明治28年(1895) 50歳で没

◆会報第96号より-02 後期淀屋_f0300125_16461246.jpg 上記の年表から読み取れるのは、初めは小さな店でしたが、商売を広げ地元の信用を勝ち取り、だんだん地位が上がったことです。5代目孝四郎は町年寄、6代目仁右衛門の時は倉吉名家7軒の1つになり、7代目と8代目も町年寄として地元のために貢献しました。そして文化面でもお茶や俳句などの普及に尽力しました。また幕府や鳥取藩のために高額な金額(5代から8代まで合計4533両)を献納しています。
 しかし、明治中頃に牧田家本家筋は大坂に引っ越して、倉吉には牧田本家筋の子孫は居なくなりました。「倉吉淀屋」の建物は倉吉市が買い上げて主屋は2008年、附属屋は2017年に復元修理され倉吉市指定文化財となり開館(9時~17時)していますし、各種文化行事にて使用されています。
 倉吉大蓮寺には牧田家一族の墓、淀屋清兵衛の供養塔(1代~3代目)、牧田英治郎家の墓、牧田庸一家の墓、佐々木安弘家の墓などがありますが、2016年10月21日の鳥取中部地震の影響として、特に淀屋清兵衛の供養塔全体が緩んで来ていてずれが進んでいますので、全体を組みなおして修築することが必要なようです。
 なお、お世話になった福嶋照純前住職は、2019年にご逝去されました。

4.淀屋清兵衛家(後期淀屋)5代の歴史について

 淀屋を再興するために牧田家2代目孫三郎は3代目五郎右衛門に家督を相続後、享保14年(1730)大坂に出てきて「多田屋」を名乗りました。又3代目五郎右衛門も家督を相続後、宝暦11年(1761)大坂に出てきて「多田屋」を名乗りました。この「多田屋」のことは、よく分っていないが、大坂大川町の元淀屋屋敷を買い戻す仕事をしていたのではないかと推察されます。
 ◆会報第96号より-02 後期淀屋_f0300125_9281967.jpgなお、その再興を予言するような不思議な灯篭があります。宝暦9年(1759)に 京都淀の與杼(よど)神社に片岡正英・政冬が高灯篭を寄進しました。その灯篭の正面の右銘文「亭々欽寸輝」・左銘文「灼々傳千古」、下に「大坂淀屋」と刻まれています。意味を推察すると「大坂淀屋は永遠にきらきら輝いているのだ」と読めます。その後の調査でこの親子の墓が橋本近くの久修園院にあることがわかりましたが、この親子と牧田淀屋や淀屋清兵衛家との関係は不明です。
 そして、いよいよ牧田3代目五郎右衛門の
4男が大坂に進出し、淀屋清兵衛を名乗ります。

 次に淀屋清兵衛家(後期淀屋)の5代と主な出来事を列記します。
(初代)淀屋清兵衛(1735~1782)48歳で没
  ・宝暦13年(1763)大坂で木綿商を営む(淀屋清兵衛家)
(2代)淀屋清兵衛(1763~1805) 43歳で没
  ・寛政10年(1798)大川町月行事
(3代)淀屋清兵衛(1777~1832) 56歳で没
  ・文化年間(~1815)因州青谷興宗寺に十六羅漢座像の1つを寄進
  ・文化12年(1815) 大川町年寄役
  ・文政 5年(1822) 「浪華持丸長者鑑」西前頭41枚目
  ・文政 8年(1825) 大川町年寄役、「長者鑑」東前頭46枚目
  ・文政 8年(1825) 大川町年寄役
  ・文政 9年(1826) 大蓮寺(倉吉)に供養塔を建立
  ・天保 4年(1833)「浪華持丸長者鑑」西前頭23枚目
  ・天保 5年(1834) 天保の飢饉への施行(米10石)
  ・天保 8年(1837) 大川町年寄役、150貫文の施行銭「長者鑑」
             西前頭50枚目
  ・天保12年(1841)大坂の願正寺に「牧田家」の墓を建立
  ・天保14年(1843)大坂城大手門更築資金2千両を命ぜられる
             130貫文を献納
(4代)淀屋清兵衛(1802~1855) 54歳で没
  ・弘化 3年(1846)子の元吉が篠崎小竹「梅花社」に入門
【注記】 「梅花社」は篠崎三島が安永5年(1776)に大坂開いた儒学塾。
     元吉が入門したのは養子篠崎小竹の時で、その時の門人録「麗沢簿」に載る。
    「麗沢簿」には『牧田元吉 淀屋清兵衛子 正月廿二日』とあります。
    《天保15年(1844)に八幡宮の社士谷村光訓(★)が入門している。》
     (★)谷村光訓は「大坂篠崎小竹の門に入りその塾頭になり、
        八幡帰郷後に鳩嶺書院で講義を行った」:八幡市誌(第2巻p326)
  ・嘉永 3年(1850)持屋敷1軒を加嶋屋に売却
  ・嘉永 6年(1853)「淀屋」が鳥取藩木綿附込所に
(5代)淀屋清兵衛(1846?~1895) 50歳で没
  ・安政 3年(1856)貸銀返済仲裁の訴え
            『大川町水帳』には21軒を所有
            『今橋一丁目水帳』には1軒を所有
  ・万延元年(1860)御用金として銀140貫目献金
  ・文久元年(1861)「 淀屋」が「大坂木綿附込所」に(上方分一手引受)
  ・明治元年(1868)「大坂木綿附込所」廃止
  ・明治 4年(1871)大川町の借家を売却、『大川町水帳』には
            「牧田利兵衛」で2軒を所有
          
◆会報第96号より-02 後期淀屋_f0300125_1724878.jpg上記の年表から読み取れるのは、淀屋清兵衛が淀屋橋南詰めの元屋敷跡に再興を果たし木綿問屋を営み、鳥取藩との取引の窓口として活躍してきたこと、『浪花持丸長者鑑』には、前頭23枚目から50位までの間で商売に精出していたこと、そして幕府に対して御用金を献納していたことなどがわかりました。しかし幕末には競争が激しくなって、木綿業附込所が廃止されました。
 また、安政3年(1856)『今橋一丁]目水帳』から当時の金融中心地に淀屋清兵衛の家があることがわかり驚きました。『大川町水帳』記載の内容から、地籍地図をつくり安政3年(1856)そして明治 4年(1871)の持屋敷の推移がわかりました。明治44年(1911)には牧田信治郎(2代目牧田利兵衛の孫)の名前が残りますが、昭和初めの御堂筋の拡張工事により神戸に引っ越し、淀屋の子孫が北浜からは居なくなりました。
 ◆会報第96号より-02 後期淀屋_f0300125_17305520.jpg昭和62年(1987年)に前期淀屋の碑文を淀屋橋南詰め西側の淀屋屋敷跡に地元のロータリークラブが大きな「淀屋の碑」を建立しました。碑文は宮本又次氏さん作成。
 又、2024年から2025年の完成を目指し、淀屋橋南側の両側に御堂筋を挟んで高層ツインビルが建立されることになりました。そして現存している淀屋小路をビルの中に造って淀屋の痕跡を残す運動が苦労の末実り、実現することになりました。
東側ビルは150m、西側ビルは135m、2025年大阪・関西万博に花を添える感じです。
 なお、淀屋清兵衛家の菩提寺は谷町8丁目の願正寺ですが、嘗ては淀屋清兵衛一族の多くの墓がありましたが昭和33年(1958年)に谷町筋の拡張(6m→40m)により寺域が半減したので、現在は「牧田家」の墓1基のみに収納されています。

5.牧田家・淀屋清兵衛家の子孫は(敬称略)

◆会報第96号より-02 後期淀屋_f0300125_17485159.jpg 牧田庸一(牧田本家の子孫・2016年逝去)と牧田博之(淀屋清兵衛の子孫・2018年逝去)。牧田家に関係する人で有名になられた人では牧田成起(良平・牧田分家で茶人)、松本仁平(倉吉町長)、磯野長蔵(キリンビール社長)などを輩出しています。

 なお、娘達の嫁ぎ先の関係で三木露風(詩人)や桑田藤十郎・熊蔵(実業家)も親戚にあたるようですが今後の調査が必要です。


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by y-rekitan | 2020-03-22 11:00
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