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◆会報第97号より-04 光秀洞ヶ峠


光秀、洞ヶ峠に敗れたり

谷村 勉(会員)


 天正10年6月10日、光秀は洞ヶ峠に大和の筒井順慶を待った。
6月2日の明け方、織田信長・信忠を討った後、近江を平定し、矢継ぎ早に朝廷工作や都の治安対策を行い、近隣諸将も味方につけたが、肝心の与力であった細川幽斎・忠興父子に参陣を促すも、信長を弔うとて髷を落として光秀の誘いを断ってしまった。◆会報第97号より-04 光秀洞ヶ峠_f0300125_21324115.jpgならば、せめて筒井順慶は味方に参陣するであろうと藤田伝五(家老)を使いに出したが、この時点で順慶は秀吉より書状を受け取り、既に秀吉側についてしまっていた。細川父子、摂津の中川清秀、高山右近、池田恒興の光秀配下の武将達の離反、本能寺の変直後、味方に付いたかに見えた筒井順慶もついに離反した。秀吉の驚異的な中国大返しのスピードが光秀の策略スピードを凌駕したことを、この洞ヶ峠で思い知った。万策尽きた思いで下鳥羽の陣地に取って返し、淀城を修築して、自らは御坊塚〔境野(さかいの)1号墳・恵解山(いげのやま)古墳の2説あり〕に陣地を進め、定石通り鉄壁の布陣を敷いて秀吉軍に対峙した。
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本能寺の変とその後の行動

天正10年6月2日午前4時頃明け方、本能寺を囲む、午前6時頃、本能寺炎上
   午前7時頃、二条御所(二条家邸宅跡)で信忠と戦闘開始
   午後、安土に向かうが山岡景隆(瀬田城主)に瀬田大橋を落とされ断念
  3日近江攻めの後、坂本城へ
  4日瀬田橋の復旧に全力 長浜城、佐和山城攻略
  5日瀬田橋を復旧し、安土に入城、
  6日安土城占拠、美濃・尾張平定に注力
  7日勅使吉田兼見と安土城で対面
  8日安土城を出陣、坂本城へ帰城
  9日京都へ入り吉田兼見邸を訪れる。朝廷・寺社へ銀子を献上、
    兼見邸で連歌師の紹巴、昌𠮟、心前の相伴で食事
    細川藤孝・忠興に翻意を促す覚書を送る 上鳥羽へ出陣
  10日筒井順慶に出陣を促すべく洞ヶ峠へ(細川忠興軍功記などによる)
  11日洞ヶ峠を撤退し、下鳥羽へ帰陣 淀城改修
  12日山崎の戦い小競り合い
  13日午後4時頃、開戦 光秀の万全の布陣も兵力差は如何ともし難く
    左翼の湿地帯から思わぬ猛攻撃を受けて明智軍は総崩れに、
    勝龍寺城に一旦戻るも坂本城へ向かう途中、醍醐・小栗栖辺りで
    落人狩りにより落命する。
◆会報第97号より-04 光秀洞ヶ峠_f0300125_2243964.jpg
主な参考文献
 「本能寺の変山崎の戦」 高柳光寿
 「明智光秀劇場百一場」 鳥越一朗
 「細川忠興軍功記」
by y-rekitan | 2020-05-22 09:00
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