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◆会報第98号より-03 和氣神社1

和氣神社に奈良時代を学ぶ
―その1 和氣神社―

 野間口 秀國 (会員) 


<和氣神社のこと>

 大阪府枚方市と隣接する八幡市の西北部にある西山地区(西山足立・丸尾・和気)のほぼ真ん中あたりに「西山和気(にしやまわき)」交差点があります。「西山和気」は「橋本興正」、「男山吉井」とともに市内に三カ所ある歴史上の人物と関連のある地名の一つです。交差点から東へ歩いて最初の角を右に折れて道なりに進み、左側にある駐車場横の階段を登ったところに和気清麻呂公を御祭神とする和氣神社があります。八幡市在住の一市民として、この和氣神社に祀られております和気清麻呂公を通して「宇佐八幡宮神託事件」と、事件の起きた「奈良時代」を学んでみたいと思います。地名や神社名および和気清麻呂の姓名の表記には、和気、和氣、および清麻呂、清磨などの他、書籍や各種資料(史料)によって異なる表記が見られますが、本稿にては神社名や説明板上の実表記などを除き「和気」および「清麻呂」に統一して表記し、また西暦・和暦の年数表示及び天皇の代の表示はアラビア数字とさせていただきます。

 既に訪れた人はお分かりと思いますが、この地に鎮座する和氣神社は思いのほか小さな神社です。◆会報第98号より-03 和氣神社1_f0300125_15563339.jpgしかしながら、小なりと言えれっきとした独立した神社(宗教法人)であり、近くの男山にあります石清水八幡宮の摂社や末社ではありません。また、同神社に備えてあります「和氣神社のご由緒等」の案内しおりによりますと、「創立年代不詳」とありますが(*1)、『男山考古録 巻十二』(*2)の「足立寺(そくりゅうじ)」の項に書かれてあります「宇佐八幡宮神託事件」に関わることなどからも江戸時代以前よりあったものと思われます。かつての鎮座地は「京都府八幡市橋本東百反六番地」であり、百反山と(百丹山との記載もあり、別名清麻呂山とも)呼ばれるうっそうとした山林にあったと書かれています(*1)(*3)。現代に入り、昭和50年前後に進められた住宅開発による地形や行政区画変更等によって、鎮座地も「京都府八幡市西山和気一番地の四」に変っていますが、いずれも八幡市域内であることも分ります。

<事件への興味と平城宮跡への訪問>

 さて、明治初期に一世一元号と定められてから、元号は明治、大正、昭和、平成、そして令和と変わり、その時々を反映して今日に至っております。昭和の戦後生まれの私にとりましても、三つ目の元号を迎えることに出会えたことは少なからず新鮮な気持ちになりました。多くの方々にとりまして、昨年春、平成天皇が今上天皇へとその座を譲られたことへの違和感は思いの外少なかったのではなかろうかと思います。その昔、神護景雲3年(769)には「宇佐八幡宮神託事件」と呼ばれる、一人の僧が天皇の座をうかがうという試みがなされたことがありました。歴史に残るこの事件に関わった(個人的には「関わる事になってしまった」と思える)主要な三人のうちの一人の足跡がここ八幡の「西山和気」に残ることを知った時には、改めてもっと知りたいと思いました。時の天皇と権力者との闘争は、12世紀の後半、第77代・後白河天皇が平清盛に幽閉されたこと、その後の鎌倉時代、第82代・後鳥羽天皇(上皇)が幕府軍の北条政子により隠岐へ流罪に処された事件などがありましたが、前述の「宇佐八幡宮神託事件」に見られるような天皇の地位そのものをうかがう事件は歴史上例のないことと知り、事件への興味が膨らんできたのです。

 そんな中、2019年6月5日、当会の年間行事の一つ「歴史探訪バスツアー」にて奈良市を訪れました。平城宮跡歴史公園の朱雀門広場南側でバスを降り立ち、複数の展示館などを現地ボランティアの皆様の案内に従って巡り、平城宮跡資料館などを訪れると、まさに清麻呂の時代にタイムスリップした気分でした。歴史公園、資料館等に続いて石清水八幡宮にゆかりの寺であり、かつて奈良時代の南都七大寺のひとつであった、石清水八幡宮の開祖・行教も勤めたと伝わる大安寺を、引き続き元石清水八幡宮を訪れました。奈良時代の有名な高僧であった行基や、京都・高雄の神護寺別当を勤めた真済(しんぜい)も大安寺の関係者であったことをその後に知りました。

 いつの時代に、いかなる場所で、どのような人達が関わったのかなどが書籍や史料などから少しずつ分かるにつれて、これまでに一度ならず訪れた場所や、聞いた話に関する当時の資料を引っ張り出して読み直す自分がそこにありました。これまでも平城宮跡歴史公園内や東大寺の近傍など、奈良市内で開催された複数回の発掘調査現地説明会に足を運びましたが、その都度得られた資料もその時代への理解を深めるのに役立ったことは言うまでもありません。日本の時代区分の中でも奈良時代は古くて、授業で学んだ時間も少なく、私にとりましては理解しづらい時代でもありましたが、できる範囲で、これまでの知見を手掛かりに、事件の内容と事件の起きた奈良時代について学んでみたいと思いました。

<足立寺史跡公園のこと>

 ところで、和氣神社に隣接して昭和43年から48年にかけて何回か発掘調査をされた「西山廃寺(足立寺)三重塔跡」の地があります。現在では「足立寺史跡公園」として整備されておりますのでそのことについても記しておきたいと思います。西山廃寺の当初の在所は山背国ではなく、隣接する河内国の域内にあったようです。◆会報第98号より-03 和氣神社1_f0300125_16121379.jpgしかし、八幡市西山地区は古代の山背国(794年に山城国に改称)域ですので、いつかは不明ですが国境が変ったのかもしれません。前述の和氣神社の鎮座地を記した案内しおりも合わせ読むと、このことも興味あることではないでしょうか。さて、現地に建つ説明板に書かれた内容から、神社(和氣神社)と共に、弥勒菩薩を祀る足立寺と言う寺もこの地にあったことが分かります。書かれた説明文の一部を引用いたしますと、「・・・ この寺は、奈良時代に和気清麿が弓削道鏡の命で、九州の宇佐八幡宮へ行き、道鏡を追放せよという神託をそのまま報告したため、両足を切られて流刑にされたが、八幡宮の助けで両足が元どおりになったので足立寺という寺を建てたと伝えられてきた。(以下省略・・・)」とございます(*4)(*5)。

 ここまでで「宇佐八幡宮神託事件」に関わる二名(和気清麻呂と弓削道鏡)が登場しました。弓削道鏡についても、まだ登場しない三人目の称徳天皇(孝謙天皇の重祚による新しい天皇名)についても、和気広虫・清麻呂姉弟のことも項目を立てて順次書いてみたいと思います。奈良時代といったテーマは大きすぎてとても扱えるものではございません。が、そのことは重々わかった上で、自身で足を運んで見たり聞いたりしたこと、目を通した書籍や雑誌や諸資(史)料などを基にまとめ、和氣神社を出発点に奈良時代を旅して学んでみたいと思います。次号では事件の起きた「奈良時代とは?」について時代の特徴などを書いてみたいと思います。 

参考にした資料・史料・書籍等
(*1)「和氣神社のご由緒等」 和氣神社の案内しおり
(*2)『男山考古録 巻十二』 長濵尚次
(*3)『文化燦燦 稽古照今・石清水歴史探訪選 第1号』 石清水崇敬会 1998
(*4)「西山廃寺(足立寺)三重塔跡」の説明文 足立寺史跡公園に設置の説明板
(*5)『八幡市誌 第一巻』 八幡市刊 P169





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by y-rekitan | 2020-07-28 10:00
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