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◆会報第98号より-05 紀光清

石清水八幡宮 唯一の宮寺への道
―その1 ~紀光清、登場~―

大田 友紀子 (会員)


1.はじめに

 以前に、石清水八幡宮の神職の方との談笑の終わりに、「石清水八幡宮寺の最盛期は何時ですか?」とお尋ねした事がありました。そのお答えは予想外で、とても驚きました。
 私は何となく、善法律寺家の娘良子が生んだ足利義満の頃ではと考えていました。ところが神職の方がおっしゃったのは、25代別当に就任した紀光清(1083~1137年)の時代、つまり、院政を始めた白河上皇の御世でした。そう言えば、以前に岡崎の歴史についての講演でも、白河上皇が延暦寺に対抗する為に法勝寺を建立、南都の雄である興福寺に対抗出来るよう、石清水八幡宮寺の伽藍を整備し、石清水行幸を年中行事化して権威を高めた、と言う話を聴いた事がありました。演者は高橋康夫氏、この時は花園大学文学部教授でした。演題は、「京都の中の岡崎」で、岡崎の歴史や文化的景観の変遷について話された時です。法勝寺の建設に関しては、藤原道長建立の法成寺を超える事を目的として大規模にし、八角九重塔を建築した、との事。摂関家の権威を自らの意志で「国王の氏寺」として建立したとの事でした。八角九重塔は、南北朝時代に焼失するまで都のランドマークとして存在しました。
 白河上皇と言えば、院政を始めた事で有名です。確かに、白河上皇は摂関政治から、天皇親政へと大きく舵を切り、新時代を切り開きました。その治政は「院政」と呼ばれて、それまでの日本にはなかった絶対君主、「治天の君」として君臨します。しかし、その時は話の展開が唐突過ぎて理解出来ず、ただただ唖然とするばかりでしたが、石清水八幡宮寺が何故「唯一の宮寺」と成りえたのかは、おぼろげながら分かってきたような気がしました。八幡宮の神職の方が、紀光清の時にと具体的におっしゃったので、それはその時、確信となりました。
 その時、石清水では白河上皇の号令一下、多くの建築物群が居並ぶ山上伽藍が建てられ、その麓には、神宮寺や大乗院をはじめとした諸伽藍などが建ち並び、そこに市などが開かれ、多くの人が集まる門前町を形成して、「唯一の宮寺」として仰がれる石清水八幡宮寺が出現しました。今日、その景観は失われて久しく、今は想像だにする事は出来ませんが、確かにその光景は存在したのです。伊勢神宮に次ぐ『第二の宗廟』へと登りつめて行った理由などなど、その秘話を知りたいと思っていました。
 平成24年(2012)2月14日に、高橋康夫教授の話をお聞きしてから、早くも8年経ちました。今ようやく石清水八幡宮寺について、その長い歴史の中で多くの人々が紡ぎ続けた営みのほんの一瞬ですが、その事をお話しするが出来る、事をとても嬉しく思っています。                    
 歴史を作ってきたのは、人間である、という上田正昭先生の言葉をかみしめています。初代別当安宗から始まった御豊系紀氏は18代別当定清でひとまず終わり、その猶子である兼清の子である23代頼清に至り、ようやく復活、御豊系紀氏が別当職の座に返り咲きます。そして、その孫である勝清と成清の2人は田中・善法寺の2家を興し、現在、田中家が石清水八幡宮の宮司を継承されています。父である頼清がまいた種を育てて、「宮寺」という大樹に育てた息子光清の軌跡を追います。

2.鳥羽殿(鳥羽離宮)の成立と石清水八幡宮寺

(1)石清水八幡宮寺と鳥羽殿
 石清水八幡宮寺は、貞観元年(859)、大安寺の僧・行教が宇佐から八幡神を山城男山に遷座した時に始まります。男山が信仰の地となったのは、八合目の山腹に湧く湧水(=清水)であり、その事から石清水とよばれ、この湧水の近くに石清水寺が建立されました。◆会報第98号より-05 紀光清_f0300125_21122488.jpg八幡神の遷座後、この寺は石清水八幡宮護国寺となり、全山を管轄して行きます。石清水神人の活発な経済活動などにより、淀川周辺の地域などに広く石清水八幡宮寺の勢力が及んで行きました。このような時に、鳥羽殿(=鳥羽離宮)が成立し、石清水八幡宮寺及びにその神人たちに大きな影響を与える事になります。その頃、鳥羽殿成立の1年後、寛治元年(1087)8月、紀頼清は23代石清水別当となります。そもそもここでいう「神人」とは、どのような人々だったのでしょうか。商業的な活動をする神人の代表とされる石清水神人には、鳥羽殿に居住する地下雑人達などと大きな軋轢を生む程盛な活躍を繰り広げていきます。
 一般的に神人は、平安時代から俗体をもって神社に奉仕し、祭儀その他の雑務をつとめたもので、「じんにん」ともいわれます。古代において特定の神社に付属していた神賤(しんせん)あるいは神奴(しんぬ)に源流を発し、大化の改新後いったん解放されましたがその後も、生活の便宣を得るため、神社付近に居住し、その特殊な技能をもって神社に奉仕しました。社寺の領地に住む農民もまた国衙からの課役免除の特権と身分の保障を得るため、神人の身分を取得して行きました。その身分は一般に神官や社司よりも下にありました。それから、社寺は荘園内の名主を神人に任命して、社領の統制を計り、この場合、神人らは荘園に分詞された鎮守を中心に一つの祭祀組織を作って行きました。神人は祭祀や神事及び雑務に奉仕しますが、そのような場合は「頭人」を定めて奉仕するのが常でした。淀の魚市を支配し、その財力を背景に石清水放生会神人を請け負っていた事は有名です。

(2)鳥羽殿の造営
 応徳3年(1086)8月18日、白河天皇の「鳥羽殿」は上棟式を終え、造営が開始されました。そして、同年10月頃には「凡ト百余町・近習卿相侍臣地下雑人等、各賜家地」という状況となり、『都遷り』ともいわれた鳥羽殿内の堂舎の建設が進みました。これまで、鳥羽殿造営の理由としては「皇太弟実仁が死去した事で、息子である善仁(後の堀河)に皇位を継承させる好機を迎え、譲位後に備えたものだとされるが、(略)それにも関わらずこの地に百余町に及ぶ後院(ごいん)が造営されたのには、別の意図を考慮する必要がある。その点で注目されるのが、承保3年(1076)から石清水行幸が年中行事化されたことで、(略)すでに前代からこの地には宿泊施設・川湊の存在が知られ、この地が交通体系上の結節点であることは充分に踏まえられていたものと思われる。」(「中世京都都市論」大村拓生著)という理由から、白河上皇の譲位後の御所として、成立した鳥羽殿には、それに加えて、院政の洛外拠点としての役割を考える必要がある、と述べておられます。それは、洛中からの交通路の再編であり、京内は京職・京外は諸国所課から、京内は検非違使庁・京外は鳥羽殿・石清水などの殿舎と権門へ賦課されるように次第に変化して行き、「鳥羽殿は白河(王権)にとって、交通の要衝に造立された京外の後院であることに意味があり、交通形態の変更をもたらし、周辺所領を包摂してその維持に当てる点に特徴があった。そしてその象徴といえるのが、財宝を納めた「二百余所」の御倉で、「鳥羽南北両所」にも少なからぬ部分が立地していたことだろう。」二百余所の倉の管理者の1人として、藤原顕季(あきすえ)(1055~1123)について見て行きます

(3)四條家の隆盛
 藤原顕季は、正平役にて八幡で陣没した四條隆資の祖先の一人です。そして、この家の隆盛をもたらしたのは、顕季の特殊な院近臣としての立場によりました。隆資の頃は武官の家として、それなりの家格にありましたが、四條家の最盛期は鳥羽院政の時であり、鳥羽法皇の寵妃・美福門院とその従兄藤原家成が「院第一の寵臣」と言われるほどの権勢を誇った時代でした。
 いずれも藤原顕季の孫に当たる彼らの地盤を作る事が出来たのも、きっかけは顕季の母・親子が白河上皇の乳母であったからです。つまり、乳母子(めのとご)である顕季は幼い頃より白河上皇に近侍し、破格の待遇を受ける事が出来たからでした。
 ◆会報第98号より-05 紀光清_f0300125_21254281.jpg藤原顕季は、藤原北家の房前の5男魚名の系統で、その子末茂から始まり、9代目が顕季です。母の親子は何人もの乳母の中で唯一長命であったので、白河上皇から母のように慕われ続けます。親子が願い出た寺の建立も許され、建てられた善勝寺は法勝寺の西側にありました。それに加えて、その寺の名には、白河上皇が、岡崎界隈に建てた六勝寺と同じく「勝」の字が入っている事からも、いかに特別であったかが分かります。
 善勝寺は、その後、顕季が引き継ぎ四條家の氏寺となりますが、その継承者は嫡流である「氏長者」で、「善勝寺長者」と呼ばれました。四條家の家名は、顕季の次男家保の孫隆季が四条大宮に邸宅を構えた事に由来しています。そして、歌人でもあった顕季は、和歌の道を3男顕輔に伝え、顕輔が「六条藤家」を興した事によりの六条家の祖となりました。
 藤原顕季は、国司を歴任して財を蓄え、白河院別当をして勢力を持ち、修理大夫(しゅりだいぶ)、正三位となりました。その職務を長らく務めたので、呼び名は「六条修理大夫」です。修理職とは、宮中で建築物の修繕や造営を司る役所で、長官は「修理大夫」で、その職種の性格上金銭的に裕福な貴族が就任しました。そして、受領とは国司の別称で、元来は前任国司の解由状(げゆじょう)を受領するという意味でしたが、だいたい9世紀の間には国司の別称として用いられるようになりました。そしてこの時期は、摂関家の興隆に伴い、その庶流や没落貴族が増加し、彼らは受領となる事を望み、その性格は行政官から徴税使へと転換して行きました。彼らは成功(じょうこう)・重任などによって、ますますその経済力を強めて行きました。私には、彼らは鵜飼の鵜のように見えます。もちろん、鵜匠は院で、彼らを大国の国司に任命、その代わりに御所や御堂、御願寺などの造営を請け負わせているからです。
 鳥羽殿の「二百余所」の御倉のうちの一つが、その藤原顕季の倉で、承徳元年2月16日、「西大路・顕季直盧・北路」と出てきます。「西大路」とは、鳥羽作路(つくりみち)のことで、白河上皇の時代には、南殿、北殿、馬場殿、泉殿、東殿が造営されました。平安京朱雀大路からまっすぐ南へ下がると、北楼門があり、北楼門の前には北大路が東西に延び、北楼門から南に西大路が延びて南楼門に突き当ります。南楼門を越えて、川湊である草津(鴨川尻)まで作路が敷かれていました。その西大路の西側には院近臣の邸宅(直盧、又は宿所)、院庁諸機関、地下雑人の家地などが置かれました。康和5年(1103)11月5日、中大路の南に面する顕季直盧の記載があります。
 このように、鳥羽殿の成立には西国受領層の関与が指摘されています(上の大村著)。鳥羽殿と西国受領層との関わりを見ると、第一に彼らは自身の倉の安全確保の為に、王権の保護下に入って他からの介入を防ぎ、各自で家司を居住させて管理していたようです。その事例として「寛治5年(1091)、淡路守に任じられた藤原為隆は、9月25日に「鳥羽宿所」に入り、石清水別当頼清から供給を受け、28日に進発している。ここでは院とは無関係に鳥羽の宿所が利用されていることがわかる。また藤原宗忠は鳥羽に宿所を有していなかったようであるが、自らの熊野詣の帰途・春日行幸供奉の帰途などに大舎人頭藤原邦宗の宿所で宿泊している。このように鳥羽殿内の院近臣の宿所は院とは無関係に利用・賃借されており、その管理もそれぞれが行っていたと考えられる。」とあります。
 第二の受領層のメリットとしては、河川交通の要衝としての安定性の確保を挙げていて、桂川と鴨川にはさまれた鳥羽の地に離宮が存在する事で、土砂の堆積や鳥羽堤の保全が定期的に行なわれ補強されて、河川交通のネットワークの中で川湊としての利便性が保たれた事が考えられています。

(4)石清水神人と鳥羽殿との対立
 では、石清水神人と対立したといわれる鳥羽殿には、どのような人々が所属していたのでしょうか。「基本となるのが、高陽院装束に「鳥羽殿侍百人、北殿75人、南殿17人、泉殿8人、同殿庭掃北殿82人、南殿20人」が動員されたという史料である。」(同掲書)とあります。「侍」とは「はべり」と読むのか「さむらい」と読むのか分かりませんが、「天皇への供給なら供御人、院への供給なら侍となると考えられ、特権身分をもった商人的な存在とすることができよう。(略)供御人たちがこのように天皇・院それぞれに兼帯するのは一般的だったと思われる。なお対立する八幡神人もまた同様の存在だと考えられる。このように侍には商業に携わる存在も想定されるのである。」と解説されています。そして、同じく「庭掃」については、読み方は分かりませんが、名称からして鳥羽殿に営まれた庭園の整備・管理の為に置かれた者たちと考えられ、その中には御厩舎人(おんうまやとねり)に替わって行列に供奉できる存在でもあり、流通業者をも兼ねていたのでは、と大村氏は推測されています。
 そのような鳥羽殿の管理者は、「鳥羽預」と院別当クラスの貴族の存在があります。「鳥羽預」とは、その殿舎の利用の有無に関わらず置かれた、院庁の実務責任者です。もう一つの「鳥羽預」は院別当クラスがなり、「史料上で明確になるのは、(藤原)長実の甥藤原家成であることは、「仰預鳥羽殿加賀守家成、挙天下事一向帰家成」からわかる。(略)鳥羽殿を握ることこそが、鳥羽院政における家成の権威の象徴として理解されており、その重要性をうかがわせる。」と、藤原顕季の孫の代になって堂上貴族としての第一人者となっています。その子家明も、後白河院政期に「鳥羽預」となり、その地位が継承されたとあります。
 今回は、白河上皇の院政期、鴨川・桂川の合流点の北側に鳥羽殿が成立した事により、石清水行幸が年中行事化するなどした事により、それまでの行幸路が鳥羽を経て淀からに変更されました。このように鳥羽殿の役割は、河川交通に対応した交通路整備体制の確立、周辺居住者(交通業者)の編成などに圧倒的な影響力を有するものでした。石清水八幡宮寺とその神人たちも、その影響下でこれまで関わってきた淀川河川交通のシステムの変化に依る多くの軋轢を受ける事となりました。
摂関家の衰退を受けて、石清水別当職には御豊系紀氏の出である紀頼清が補任されます。頼清は、白河上皇及び院近臣の藤原為隆などの西国受領層に接近して鳥羽殿に出入りするようになりました。「敵を知るには、その懐に」との頼清の気概を感じます。その子である光清の時に、丹波守平正盛による大塔の寄進など、白河上皇の元、伽藍の整備が始まるのです。「宮寺」への第一歩です。

 私は、白河上皇と紀光清との間には一つの共通点があると思います。次回は、その事についてお話します。その共通点とは、養育環境、つまり成長過程において、最も感受性の高まる時期に、大きなトラウマを感じる出来事に遭遇するという経験をそれぞれが持つに至った事でした。 (つづく)
   (令和2年7月6日 京都産業大学日本文化研究所上席特別客員研究員)
                                  
【参考文献】
◎ 高橋康夫『海の「京都」日本琉球都市史研究』2015京都大学学術出版会
◎ 大村拓雄『中世京都都市論』吉川弘文館





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by y-rekitan | 2020-07-28 08:00
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