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◆会報第99号より-04 勅撰和歌集


石清水八幡宮 唯一の宮寺への道
―その2― ~紀光清と勅撰和歌集~

大田 友紀子 (会員)


1.はじめに

 前回報告の白河上皇による鳥羽殿の成立により、古来より淀川などの河川交通を担って来た石清水神人たちは、石清水宮寺への信仰の推進と共に活動範囲を広めてその富を築いて行きました。彼らの奉仕によって、石清水宮寺には富が蓄積され、それによる相乗効果は「唯一の宮寺」へと、石清水宮寺の権威を押し上げ、天皇家をはじめ、堂上公家や新興武士層の帰依をも得て、いよいよ伊勢神宮に次ぐ「第二の宗廟」と言う地位を担うに相応しい経済的な充実を伴って行きました。
 今回は、文化面で石清水宮寺が担った物事について、書き進めて行きたいと思います。代々の天皇の業績として、最重要視されていた勅撰和歌集について語りたいと思っています。
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光清が後妻として迎えた花園左大臣家の女房・小大進(こだいしん)、彼女との間には小侍従と成清が生まれました。成清が、異母兄・勝清が継いだ田中家の分家として、善法寺家を起こします。9歳の時に父光清を喪った成清は、母小大進と共に石清水を離れて、伏見の花園左大臣家に向かいました。同母姉小侍従ついては「歌人として知られるようになったのは、(中略)歌道の名門六条藤家の清輔・顕昭に認められた点にある。」(社報『石清水』「待宵の小侍従」菅宏著)とあり、勅撰集との関連においても興味はつきません。

2.村上源氏の嫡流・久我家と石清水宮寺

 堂上公家のその中でも、特に藤原氏と対抗しうる村上源氏の諸家は、石清水宮寺を氏神としてより深く崇敬して行きます。村上源氏とは、62代村上天皇の第7皇子である具平(ともひら)親王を始祖とする源家の嫡流です。具平親王の母・荘子女王は醍醐天皇の皇子・代明(よりあきら)親王と右大臣藤原定方の娘との間に生まれました。麗景殿(れいけいでん)(※)の女御と呼ばれ、気立ての良い女御だったとあり、58歳年下の上東門院彰子との贈答歌なども残されています。荘子女王の母方は勧修寺家で、『源氏物語』を書いた紫式部の夫・宣孝は4代目です。勧修寺家の始祖である定方の妹・胤子と宇多天皇のロマンスは、光源氏と明石の上とのモデルと言われていたり、それから、具平親王が愛した大顔という名の女性は身分が低く、儚く死んでしまう「夕顔」のモデルとして名高い、など、紫式部は夫の一族に係わる秘話を物語の中に置き換えて、源氏物語を書いています。具平親王は、雑仕女を寵愛するとか、一風変わった貴公子でした。光源氏のモデルでもあります。
 具平親王のひ孫にあたる源雅実(まさざね)(1059~1127)は、村上源氏の氏長者となる久我家を興して、堂上源氏の第一人者となりました。そして、源雅実の末弟雅兼のひ孫であり、紀光清女(むすめ)を生母とする源顕兼(あきかね)(1160~1215)は、説話集『古事談』を著しました。母方が石清水宮寺である事から、石清水関連の記事はおおむね信頼度が高いとされています。石清水宮寺が堂上公家である村上源氏の氏神として、崇敬を受けた事も、「唯一の宮寺」への中興を後押しした事を理解していただきたいと思います。
 (※)平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ

3.石清水宮寺の放生会と歌道の六条藤家

 石清水放生会が盛んになった背景には、末法思想の広がりと浄土信仰の高まりがありました。高まってきた浄土信仰により、その教主である阿弥陀仏がいつ石清水宮寺の本尊となったのかは不明ですが、老若男女が「阿弥陀の聖地」として石清水宮寺へ参詣するという現象が、すべての都人の間に浸透して行き、そして、すべての階層の人々を「石清水へ」といざないました。
◆会報第99号より-04 勅撰和歌集_f0300125_11355565.jpg その頃、後三条・白河両院は度々殺生禁断の詔を出して、生類への哀れみを具現化されたので、この頃から、淀魚市が王権側の支配を受けるようになったといわれています。石清水放生会がますます盛んになった背景として、浄土信仰につながる殺生禁断の詔の影響があったのでは、と考えられています。同時に、人は生きとし生きるものの命をいただき、生きて行く生業(なりわい)から、その命に感謝して調理する儀式として、包丁式が発達して行く事となりました。
 その包丁式の名人として、鳥羽朝期の藤原家成、その子孫である四條隆親が著名です。彼らはまた、善勝寺長者でもあったので、包丁の名人イコール善勝寺長者というように思われていた時期もありました。現在でも包丁式の一流派として、「四条流」が受け継がれ、四條家当主がその名誉職を担われておられます。ここでも、藤原顕季の子孫がそれをつかさどり、長らく政治の中枢にいた四條家であったのでその躍進がありました。
 歌道の名門として、藤原顕季の三男・顕輔の家が『六条藤家』と呼ばれたのは、顕輔の師である源俊頼(1056,7~1129)を「六条源家」と呼んだ事からで、「源家」に対して「藤家」と呼ばれたのです。その頃、顕輔の邸宅は六条東洞院にあり、その事により「六条」を家名としました。
 六条藤家の始祖でもある藤原顕季が始めた「柿本人麻呂影供(えいぐ)」は、柿本人麻呂(662~710)の肖像をかかげて礼拝する事で、元永元年(1118)6月16日に歌会の場において行われました。人麻呂は早くから歌人として高評価を得ていましたが、この頃から「歌聖」として崇められるようになって行きます。その肖像とは、「左手に紙、右手に筆を持った60歳頃の像」であったと言う記録があり、その後、(和)歌会には人麻呂の画像が懸けられるようになりました。歌壇の宗家において、おのおのの人麻呂の画像が伝承されて行ったのでしょうか。
 顕輔が引き継いた「六条藤家」より始まった人麻呂を「歌聖」として崇敬する風習は受け継がれて、「三十六歌仙図」へと発展して行きました。国の重要文化財である『佐竹本三十六歌仙絵』は藤原信実(のぶさね) (1176~1265、藤原隆信の子)の筆との伝承があり、ここでの人麻呂の画像にも「左手に紙、右手に筆」という形式が描かれています。室町時代の一時期、筆・紙を持たず、脇息にもたれかかって画面左方を見やる肖像画が表れますが、それは、南宋時代の『維摩居士像』を左右反転した図像に近似している事から、こうした中国由来の画像に似せる事により人麻呂の聖的な性格を強調していると考えられて、「維摩系」と称されて分類されています。人麻呂については、『万葉集』の歌人としては著名ですが、正史には出て来ず、謎深い人物です。
 六条藤家は、平安末期に起こり、南北朝時代には滅びました。特に、藤原俊成・定家父子との歌論が確執を生み、御子左家(みこひだりけ)の隆盛により、歌道の家として立ち行かなくなったのでは、と思われています。

4.天皇の理想、勅撰和歌集の編纂と天皇

 さて平安時代後期においても、天皇の業績として、特に重要視されていたのが「和歌集」の編纂でした。その作業は天皇または院が勅した事により、「勅撰和歌集」と呼ばれて、その選者となる事は、歌人(うたよみ)の最高の名誉でした。日本古来の「言霊(ことだま)」が込められた自作の和歌が入集するようにと公家たちは精進し、数々の歌合に出詠して、その場は切磋琢磨される鍛錬の場と化して行きました。和歌の真髄については、古今集仮名序に、「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことの葉とぞなりける。」とあり、和歌とは、心象の変化を「たね」として、三十一(みそひと)文字の「ことの葉」で現わす日本独自の文化として、大いにもてはやされて来ました。中国の古典である漢詩集に対して、「和歌(やまとうた)」として、日本人の感性を磨き上げて創作され、そこには「見立て」の要素が特に大切にされて、そのものずばりを言う事をタブー視するほどになって行きました。自身の胸の内を美辞麗句で飾り立てて、心象変化を歌い上げる、優れた和歌は神の心さえも動かす事が出来ると信じられて、いつしか和歌を神前に奉納するようになって行き、歌合が神社で行われるようになって行きます。代表的なものに、住吉神社歌合・広田神社歌合があります。鎌倉初期には、石清水宮寺でも数々の歌合が開かれて、◆会報第99号より-04 勅撰和歌集_f0300125_11482128.jpg今日、頓宮前の安居橋には、元北面の武士であった能蓮法師が石清水宮寺で開かれた歌合に出詠して詠んだ「石清水きよき流れの絶せねば やどる月さへくまなかりける」の歌を紹介する駒札が立っています。この歌は7番目の勅撰集である「千載集」に入集したもので、文治元年(1185)以前に開かれた「石清水社歌合」において、詠まれたとされています。石清水宮寺における歌合は、主に石清水社、若宮社にて開かれました。
 『とはずがたり』の著者である後深草院二条は、村上源氏の庶流の中院(ちゅういん)家の源雅忠を父に、四條隆親の娘を母に生を受け、後深草天皇の典侍(すけ)であった母の縁で、後深草の御所に5歳の時から出仕しました。宮中においては歌人としての一定の評価もあり、入集を望み、心待ちにしていましたが、自身の和歌が勅撰集に入集する事はなく、父の墓前で泣きながら詫びています。それほど当時の公家社会におけるステイタスとして、影響力がはんぱではなく、歌合の判者の多くが勅撰集の選者に選ばれていました。
 法印(紀)光清の歌としては、5番目に編纂された『金葉(きんよう)和歌集』に「何事にあき果てながらさを鹿の 思い返して妻を恋ふらん」の一首が採られています。詞書には「十月十日頃に鹿のなきけるを聞きてよめる」とあり、後に妻となる小大進への詠歌として、入集しています。秋の風情を代表するものとして、「鳴く鹿」を詠みこんでいるこの光清の歌は、藤原(六条)清輔の著書『袋草紙』には、他者の詠歌であると紹介され、『金葉集』の撰者の家を訪ねた作者の僧は、忌む事があり選者とは会えず、紙に書いて小児に渡した所、(誤って)光清の歌とされたという経緯が書かれています。このように、後々まで語られたのは、その事実を作者の僧が大層口惜しがり、いろいろな所に赴き、弁明して歩いたからと思われます。何はともあれ、光清は勅撰集の入集という栄誉を得、その子である小侍従、成清(母はいずれも小大進)も歌人として名をはせています。光清が妻に迎えた小大進は、当時随一の女流歌人でした。
 勅撰集は、醍醐天皇が勅した『古今集』(延喜3~4年に成立)に始まり、その子である村上天皇の『後撰集』(成立年不詳)、花山院の『拾遺集』(寛弘4年頃)の3集を「三代集」といい、それに『後拾遺集』から『新古今集』までの5集を加えて、「八代集」と称されています。その後も、勅撰集は撰上され続け、最後の勅撰集は、後花園天皇が編纂させた『新続(しんしょく)古今集』で、飛鳥井雅世を選者に永享11年(1439)に成立しています。飛鳥井雅世の遠祖・雅経は、「君がため長閑(のどか)にすめる石清水 千年(ちとせ)の影やかねて見ゆらむ」の和歌を詠んでいます。飛鳥井雅経を著名にしたのは、藤原定家の「百人一首」に選ばれた「み吉野の山の秋風さ夜ふけて ふるさと寒く衣うつなり」(『新古今集』秋・483)です。飛鳥井家が蹴鞠と和歌の家職を得たのも、始祖である雅経がその道に堪能であったからでしょうか。7代当主の雅世は、新古今集撰者の1人で、石清水宮寺での歌合にはたびたび出詠しています。『新古今集』の次の『新勅撰集』からは13代集と呼ばれて、計21代集が成立しています。
 後醍醐天皇も『続(しょく)後拾遺集』を嘉暦元年(1326)に成立させています。この続拾遺集は、選者である二条為明が途中に没するというハプニングの後、頓阿が引き継いで完成させたという曰く付きの勅撰集です。最初の勅撰集を撰上させた醍醐天皇とその子の村上天皇の御世は、永らく天皇親政の理想の治世とされ、その中に勅撰集の撰上が輝ける業績として、語り継がれて来ました。皇政の理想の治世を執り行った両天皇を意識して、後醍醐天皇と後村上天皇の贈り名が決められたとも言われています。
 現代的には、和歌を詠めねば貴族じゃない、との意識は顕著ですが、あの藤原頼長(1120~1156)は漢詩・漢籍が上と考えていましたので、和歌を詠んではいません。平清盛(1118~1181)が余り和歌に親しまなかった理由も、漢籍かぶれの合理主義者であったからでは、と私は考えています。日宋貿易を推進させるために、宋の官人との交流があり、ひとかどの漢籍の知識が必要であったからでしょうか。

5.勅撰集の選者たち

 閑話休題、白河天皇が編纂された勅撰集は2集あり、その1つでは応徳3年(1086)に成立した『後拾遺集』です。選者は、藤原通俊(1047~1099)で、退位後の編纂である『金葉集』は、白河院が源俊頼(1056・7~1129)を選者にして編纂させ、大治元年(1126)に成立しました。そして、白河院を父とも仰いだ崇徳院は、藤原(六条)顕輔を選者に選び、『詞花集(しかしゅう)』という勅撰集を成立させています。
当時は「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」の氏が権力を持ち、他者に抜きんでた時代であり、その他の氏の家はかなり低く見られていました。藤原氏と同様に、堂上源氏の諸家でも苗字が同じなのは当然でありますが、それでは日常生活に不便な事から、邸宅を構えた場所を通称にして、「六条」のように邸宅がある地名を「家名」として名乗るようになって行きました。五摂家では、家名を用いられるのが天皇のみとなると、次の家名として、特別に通名を名乗っています。例えば、邸宅が近衞小路にあった近衞家は、陽明門にちなんで「陽明さん」と呼称されました。ユネスコ記憶遺産に認定された『陽明文庫』は、近衞家が代々護って来た日本文化の「華」です。代々の当主の日記などが伝わっています。
『後拾遺集』の撰者である藤原通俊は、父・経平が後三条・白河両朝の親政に参与して権力を持ち、長女経子は白河天皇との間に覚行法親王を生み、下の娘は藤原顕季の正室となり、長実・顕輔を生んでいます。通俊の母は高階成順(出家後、乗蓮)の娘で、母はたぶん女流歌人の伊勢大輔ですから、歌詠みの家系かも知れません。白河上皇は院近臣間の婚儀を斡旋して、彼らとの協調関係を築き、政治基盤を強固にしました。
 今回は、天皇の業績として、勅撰和歌集を取り上げて見ました。石清水宮寺の中興を成し遂げたとされる紀光清については、次回からとなります。院政期という特殊な時代が、石清水宮寺を巻き込んで行きました。
 石清水(大神)の御歌「在りきつつ来つつ見れどもいさぎよき 人の心をわれ忘れめや」「続後拾遺集 巻廿」石清水の社の歌合に、桜を 前大納言(四條)隆房(1148~1209)「神祭る弥生になれば諸人のかざしにまがふ山桜かな」石清水臨時祭の華やかさが伝わって来ます。(つづく)

   (令和2年9月4日 京都産業大学日本文化研究所上席特別客員研究員)

【参考文献】
 社報『石清水』―待宵の小侍従―菅宏著 1992
 「平安朝歌合大成 九」萩谷朴編 1958
 「百人一首で京都を歩く」京都百人一首・かるた研究会 2013
 『流転100年佐竹本 三十六歌仙絵と王朝の美』京都国立博物館 2019
 「古事談 続古事談 上」『新日本古典文学大系 41』川端善明編 
                          岩波書店 2005

                  


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by y-rekitan | 2020-09-28 09:00
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