石清水祠官家 光清の時代 100号


石清水八幡宮 唯一の宮寺への道
―その3― ~光清の時代~

大田 友紀子 (会員)


はじめに

 前回、前々回は、「唯一の宮寺」へと、石清水宮寺を押し上げた経済的、文化的な要因について、書かせていただきました。白河院政の中、伊勢神宮に次ぐ「第二の宗廟」となり、それに相応しい山上伽藍が整備されて、麓にも壮麗な建物群が建ち並びました。春と秋の勅祭の時には、天皇の行幸があり、朝廷の年中行事として華麗に執り行われて来ました。山上へと向かう勅使たちを送りだした後(のち)、天皇は麓の頓宮(または高坊、高坊には御座所に玉座があった。)にて休息されて、山上にて執り行われる神事と儀式を下宮より見護られました。天皇在位中は、山上の宝前へは参れない不文律があったらしく、国家祭政を司る天皇は、現世での王(=現人神)ですから、三世を司る神仏と直接合いまみれる事は禁じられていたのでしょうか。朝廷の年中行事は、四季がある日本独特のものです。それは自然の中で共に生きる事を前提とし、春は石清水臨時祭、夏には賀茂祭(現葵祭)、秋は石清水放生会、最後を締めくくる賀茂臨時祭が初冬に行われて終わります。
 それが、江戸期になると、天皇の代理として勅使が発遣され儀式に臨むようになり、現在でも宮内庁の掌典職が勅使として差遣されています。今日でも、下鴨神社の神服殿には「開けずの間」があり、天皇行幸時には「玉座の間」となり、御所が被災した際の臨時の御座所と定められていました。季節ごとの祭祀を「例(ためし)の如く」行う事で、政治と一体化していました。

国境の山寺、石清水八幡宮寺

 平成24年(2012)、八幡市にて開かれたシンポジウム『日本文化と史跡・石清水八幡宮』において、京都大学(当時)の上原真人教授は講演にて、「国境には封鎖機能と交通機能という相反する側面があり、交通機能に注目すると、石清水八幡宮は男山だけではなく、その裾野や淀川対岸の大山崎、淀津などの周辺部、さらには平安京や難波津なども含めて歴史的な位置づけを必要とする。比叡山延暦寺は平安京の鬼門、石清水八幡宮は平安京の裏鬼門だそうだが、平安京への物資流通を考えれば、表玄関は石清水の方である。世界遺産としての京都が、比叡山延暦寺を含めた広がりを持つ以上、その表玄関に当たる石清水八幡宮が含まれないのは甚だしい片手落ちだ。」と述べられ、西国からの表玄関として、石清水八幡宮寺が担っていた役割の大きさを論じられています。確かに、平安京への物流などから考えてみると、石清水八幡宮寺が担ってきた役割は国家の根幹に触れるものばかりです。
 今日でも、1月18日に行われている神事として『青山祭』があります。石清水祠官家 光清の時代 100号_f0300125_22154423.jpg平安の昔から、行われて来た古式床しい儀式で、椿、椎(しい)、青木を青竹の棚に詰めた八角形の青柴垣の真ん中に高く盛った砂に神籬の大榊(おおさかき)を建て、ここに道の安全と疫病の侵入を防ぐ八衢(やちまた)比古・八衢比賣・久那斗(くなどの)神の三神が降臨される。陰陽道の泰山府君祭・四角四界祭の元となった祭です。(京都新聞「いのちのほむら―祭り京・近江56」から)  
このようにして、西国(九州など)からやって来る疫病などの侵入を受け止め、都へ入る事を防いで来たのが、石清水八幡宮寺でした。
この事は、天慶8年(945)、「設樂(しだら)神」入京の噂が広まった騒ぎの時も、民衆が担いで来た神輿を留め置いたとある事からも理解できるでしょう。ちなみに、「志多羅神」とも書きます。
 八幡で育った私にとっては、石清水八幡宮は今でも尊い『お山』です。

石清水祠官家の歴史

 貞観元年(859)7月、八幡大菩薩が男山に遷座された時から、行教の一族である御豊系紀氏が別当職などを継承して来た、との思い込みがありました。私だけかもしれませんが、そのように考えて来られた方は多いのではないでしょうか。
 藤原道長の時代、長和3年(1014)、第19代別当に就く為に宇佐からやって来た元命(栗林氏)は、宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺講師でした。弥勒寺は、現在、全国に4万社以上ある八幡神社の総本宮である宇佐神宮の内政を統轄する、石清水で言えば護国寺と同じ役割を果たしていました。
 八幡大菩薩の顕現は、欽明天皇32年(571)、宇佐神宮内の「今も境内に残る菱形池の付近に、3歳の童子が竹の葉に乗って現れ、自らを『誉田(ほんだの)天皇(すめらみこと)広幡八幡麿』、『護国霊験威力神通大自在王菩薩』であると名乗った。誉田天皇とは、応神天皇の別名である。」(「週刊・日本の神社」17号)にあり、その為に千日間祈った大神比義(おおがのひぎ)は、この功績のより、わが国最初の祝(はふり)職に補任されました。その後、顕現からおよそ150年後を経て、神亀2年(725)に宇佐神宮に「一之御殿」が造立され、現在の地にご鎮座されたとあります。この縁起を基にして、石清水に元命を招聘したのが、時の権力者である道長です。
 つまり、この頃までは、御豊系紀氏ではない他氏が別当職に任じられていたのです。現在、八幡大神が男山に遷座されたのは紀氏の一族である行教が、八幡大神の神託を受け、その神託に従い、僧衣の袂にお遷し申し上げ、宇佐から都へ向った事に端を発しています。そして、山崎に至ると、向こう岸にそびえる男山の峰に祀れとの新たな神託がくだり、八幡大神を男山に移座した事の顛末が『八幡宮縁起絵巻』にあります。それから5年後、行教の甥の安宗が初代別当になったので、石清水八幡宮寺の別当職は代々紀氏が継承した、と思っていました。けれどそうではなく、25代別当に就いた紀(垂井)光清が補任されてからの事で、光清が中興の祖と言われる最大の理由です。
 田中家初代は第1代神主に補任された御豊で、安宗の弟です。弘法大師空海の十大弟子で、高雄僧正と呼ばれた真済は、御豊の弟だと言われています。後宮に入った紀氏の娘たちはいずれも皇子を生みましたが、藤原氏との皇位争いに敗れた為、護国守護の最たる石清水八幡宮寺の別当職の地位の継承は、紀氏一族の生き残りをかけた悲願となって行きます。
 そんな中、宇佐からやって来た元命は別当職に就くと、それ以後、自分の息子を別当職に擁立する事に成功し、20代清成、21代清秀、22代戒信、24代清円と元命の家の者により、別当職が継承されて行きました。(前号の「紀光清略系図」参照)
 18代の別当紀定清に実子はなく、そこに付け込まれたと言えそうですが、そんなの中、定清の猶子・兼清(頼清の父、定清の甥兼輔の子)と元命の娘との婚姻により、(常盤)頼清が生まれ、頼清は寛治元年(1087)にやっと23代別当に就任する事が出来、その摘子として光清が誕生したのです。御豊系紀氏がようやく返り咲き出来る足場に立ったのはこの時からです。
 遡って康平6年(1063)10月7日、その時権別当であった兼清は、八幡大菩薩の宝前において、「舌噛切」(舌をかみ切り)自死します。「西方ノ衆ヲ滅スベキ願意也」(京都府立大学文化遺産叢書・第4集「中世の石清水八幡宮における祠官「家」の成立」刑部香奈著)とあり、栗林元命への怨恨が原因とされています。「臘次による昇進」から「嫡子への相伝」へと舵を切った元命が与えた影響の大きさが解かります。「西ノ衆」とは、宇佐からの元命の系統を指しますが、光清の母は清円の弟覚心法眼の娘というふうに血縁関係はかなり複雑です。この祖父の自死を目の当たりにした事が、光清に与えた衝撃の大きさは計り知れません。

光清の生きた時代

 道長の死後、形勢が傾く一方の藤原氏、その間隙をぬって、朝廷の中心となったのは、退位した天皇が『上皇』となり、最高の権力者『治天の君』となって、その近臣が政治に参画する時代で、その政治は上皇御所の院庁にて行われた事から、「院政」と呼ばれています。院政を開始した白河上皇は、父である後三条上皇の施策を受け継ぎ、摂関家を抑えて政治機構を刷新し、天皇家が直接政治をする体制を調え、そして、白河上皇は、道長の創建した法成寺を超える規模の大寺院・法勝寺を創建し、絶大な宗教勢力を持つ比叡山延暦寺を従えて宗教的な権力をも手に入れました。法勝寺の本尊には全宇宙を包括する毘盧遮那仏を迎え、金堂に安置し、その境内に八角九重塔を建立して勢力を誇示しました。その白河の地は、関白となった藤原師実(1042~1101)が白河天皇に寄進した土地であり、古くからの桜の名所でした。桜が開花すると、白河院の主催で花見の宴が催され、宮廷社会の舞台の一つとなりました。『今鏡』では、「光清姫」として御所勤めを始めた美濃局の衣裳が華麗に描かれていて、娘の出仕に万全を期して臨んだ光清の意気ごみが感じられ、その財力は、当時の宮中を凌駕しました。筥崎宮などを手中にし、海外貿易に依る富が石清水にもたらされたからです。
 当時の花見の宴などの折には、舞楽を家職とする公達による「萬歳楽」などが演じられました。石清水祠官家 光清の時代 100号_f0300125_22444319.jpg現在は、「男山さくら祭り」の時の舞楽奉納にて、仮設の舞台で演じられる事があります。宮廷文化を偲ばせる華麗な舞です。
紀光清【長久3年(1083)~保延3年(1137))は、石清水宮寺25代別当・10代検校に就いた田中家9代目で、彼の娘たちは先妻が生んだ美濃局(鳥羽院女房で、2皇子および皇女を儲けた)、後妻・小大進を生母とする小侍従(二条天皇・大皇大太后多子に仕えた女流歌人)たちがいて、特に美濃局が鳥羽院の皇子・皇女を生んだことが大きく、石清水宮寺での光清の立場を強固にし、別当職の継承に大きな貢献を果たします。栗林元命が敷いた「嫡子への相伝」を光清が可能にし、その後、光清の系統に依る別当職の継承が続いて行く事になりました。
 康和5年(1103)12月25日、朝廷から石清水宮寺の第25代別当に補任された光清は、ほぼ同時に大宰府の宝満山にある天台宗の末寺・大山寺の別当にも補任されます。大山寺は大宰府宝満山の竈門(かまど)神社の神宮寺で、『神道大辞典』によると、「(前略)、中世天台宗徒が寺塔を興し、修験道の道場として盛時は370坊を有したと言う。この天台宗徒の寺塔が、大山寺である。『天台座主記』によれば、天台座主慶朝は、太宰大弐高階成章の3男とある。高階成章(990~1058)は後冷泉天皇の乳母、藤原賢子(紫式部の娘)と結婚し、賢子は「大弐三位」と呼ばれたことが知られているが、賢子は慶朝にとっては義母になる。」(菅宏著「待宵の小侍従」)ここに出てくる慶朝は第38世天台座主で、父である高階成章はその父業遠(965~1010)が藤原道長に仕えて「無双」の臣といわれた受領ですから、裕福な財をバックに台頭して来た典型的な受領層の出身で、白河天皇の近臣として著名です。成章の息子為家(1038~1106)・孫為章(1059~1104)は、父子で白河上皇の院司となり、播磨、近江、越前、備中などの国司をつとめ、財力を蓄えて、寵臣として権力を持ちました。この頃、高階一族や平正盛などの新興勢力(新受領層)と結び、光清は九州の大山寺の経営に乗り出しました。彼の思いはひとえに紀氏の家系の向上とその地位の存続でした。父や祖父の時代に舐めさせられた辛苦は、彼の心と身体を強固に育て上げたのでしょう。
 光清はいったん、比叡山延暦寺の法薬禅師という悪僧が引き起こした大山寺事件のために免職されたりもしますが、2日後には復職しています。しかし大山寺はこの時以来、石清水宮寺の手を離れ、完全に叡山の末寺となってしまいました。この紛争の根源は、叡山が大山寺の持つ日宋貿易の権益に目をつけたことにあるようです。「嘉承元年(1106)3月5日、朝廷は勅使権中納言正二位源国信(号・坊城)を石清水八幡宮寺に遣わし、奉幣・宣命のことがあった。宣命の趣旨は竈門社に於ける乱行を法により処断したことを報告、併せて近日堀河天皇のご健康優れず、速やかなるご平癒を祈願するにあった。この年7月23日、白河法皇には石清水八幡宮(寺)に御幸になり、御幸の勘賞として、別当法橋光清を法眼に叙せられた。『祠官系図』によれば、光清は「三壺の仙籍を聴せらる。」とあり、白河法皇・鳥羽法皇・崇徳上皇の三院より昇殿をゆるされたと考える。「三壺」は三つの「蓬壺」即ち「上皇御所」であり、「仙籍を聴せらる」は「昇殿を許される」ことである。」(菅氏著)翌年の12月、光清の妹である紀頼子が内裏女房として出仕、初めは東宮(後の鳥羽天皇)の女蔵人として正六位上の身分です。女蔵人以上の官女を女房といい、上級官女としての出仕でした。頼子はその後、皇后・令子内親王(1078~1144)の女房に転じますが、天永3年(1112)3月、「局に法師3人を引き入れて臥したる」ことが発覚して、白河法皇の怒りをかい宮寺からも追放されました。
 この年の2月27日、丹波守平正盛が石清水宮寺の大塔を造進しています。白河院別当として権勢をふるった藤原宗通(1071~1120)や正盛たち懇意の近臣の協力を仰いで、妹の不始末を躍起になって取り繕う光清の姿が目に浮かぶようです。
 妹の不始末から、今度は自分自身の娘を後宮に入れる必要性を痛感した光清は、親しく出入りしていた花園大臣家の女房で当時著名な女流歌人であった小大進を後妻に迎えました。そして長女(後の美濃局)の養育に努め、後宮の女房としての立ち居振る舞いなどを身に付けさせて万事怠りなく準備を整えて行きます。
 大治年間、紀家子(=美濃局)は初め待賢門院の女房として出仕しますが、鳥羽上皇に見初められ、鳥羽上皇の第6皇子を生みました。その美濃局のために、長承2年(1133)6月11日、光清は観音堂を建立しています。その観音堂は、江戸時代の絵図にある護国寺の東側に描かれている観音堂ではないかと、私は思っていますが、他にも観音堂は存在し、いずれの観音堂かは不明です。美濃局の栄達を祈り、その法力を頼み観音像も同時に造立しています。その観音像は、今は行方知れずとの事ですが、善法律寺の千手観音立像のような截金細工に彩られた美しい像ではなかったでしょうか。光清の12男である(高野)成清(1122~1199)を祖とする善法寺家の菩提寺にある千手観音像は、その長男祐清(?~1221)が建立した観音堂の本尊とされています。
 ところで新しく妻となった小大進は、何処に住んだのでしょうか。私の推測ですが、淀津に近い美豆の先端・木津川尻の近くに光清が新築した屋敷に住んだのでは、と思っております。そこは伏見の花園大臣家にも近く、木津川の水運を治めるためにも必要不可欠な場所です。というのは、元永元年(1118)9月26日から28日の3日間、笠置寺に詣でた藤原(中御門)宗忠(1062~1141)の日記『中右記』の記事に石清水宮寺の権別当が食事を差し入れている箇所が書かれているからです。日記の主の宗忠は、父の妹(もしくは姉)の全子が生んだ藤原忠実に近侍し、公務に精通している事務官僚のトップです。後に小侍従の夫となる藤原伊実の祖父に当たる宗通の兄の子で、上記の大山寺事件で活躍する検非違使別当藤原宗通は父の弟に当たることから、光清にとっても大切な存在でした。宗忠は笠置詣を終えて28日の午前6時頃に木津で乗船し、午後2時(未刻)木津川尻に到着、停泊して八幡宮権別当同賢からの接待を受けて2時間後に出発し、日没頃には桂川尻(鳥羽)到着、鳥羽から牛車で午後10時頃に帰京、帰宅しています。「廿八日、(略)随流水如飛行、未剋至木津川尻、八幡権別当同賢送儲物、暫留舟勧盃酌」とあり、お酒(「盃酌」)も出ていて時間的に考えると昼食(「儲」)を取り歓談したことが書かれています。この事を当時の状況から推し測ると、その近くには料理をつくる場所があり、権別当たちが到着まで待機することができる建物があったと考えられます。元々は待合い施設に台所が付いたぐらいの規模であったのを、光清が別宅のように整備して小大進母子に与えたのかも知れません。そのように考えるのは、婿入り婚の当時、娘に屋敷を与えて婿に通わせる事が当たり前で、小侍従の新婚生活も最初はここで始まったのかもと想像しています。そして後に、洛中にある藤原伊実の邸に迎えられたのでは、と思われます。永暦元年(1160)8月20日の二条天皇石清水行幸にて、権別当となった成清と和歌を詠み合う再会から間もなく、夫である伊実が没します。小侍従の再出仕は40歳からでした。
 以前に、八幡市教育委員会文化財保護課の講演で、八幡宮社領内外の推定地範囲が示されたことがあり、江戸時代の木津川では美豆より北に合流点があったようです。その軟弱な地に石垣を築いて、土盛りして土台を強固にし、周回に木津川の流れを引き込んだ堀を巡らせ、邸内に船着場を備えた屋敷の姿が目に浮かびます。

光清その後、法園寺の創建

 上記のように、田中家中興の祖・光清の後には、石清水八幡宮寺の別当職及び検校職が御豊系紀氏によって継承されて来ました。光清の多くの息子たちは分家を繰り返し、はたまたやがては集約されて、今日では田中家が石清水八幡宮の宮司家となっています。光清の嫡男である田中家祖・勝清の孫の道清(1109~1206)は美濃局の猶子となってその遺産を子孫に伝えました。その息第34代別当宗清は、建保4年(1216)、勝清・慶清・道清3代の先師の墓所脇に一堂を営み、その後、子息第39代別当行清が唐招提寺の聖守を開山として伽藍を整備して「法園寺」を創建しました。寺名は供物用の菜園があったことに因みます。法園寺は大谷川に架けられた橋のたもとにあり、南北朝時代は戦乱の舞台となって、本尊の阿弥陀三尊は焼失しましたがその後再建され、江戸時代、法園寺は、善法律寺100石に次ぐ90石の朱印地を有する律宗五ケ寺組の一寺となりました。
 石清水祠官家 光清の時代 100号_f0300125_22502661.jpg昭和9年の室戸台風で倒壊した堂宇の下敷きとなった本尊釈迦如来坐像の胎内から多数の経巻・古文書類などが発見されます。現在、その本尊の釈迦如来坐像(重要文化財)を護る為に建てられた収蔵庫が境内地の高台にあります。
 何年か前、石清水八幡宮の神職さんから、先日、法園寺であった田中家先祖供養の法要の時の話をお聞きした。その折、本尊の後ろの壇に、昭和13年に供養された南朝の忠臣の位牌が祀られていて、その中には四条隆資卿の位牌があった事を教えて頂きました。その時、「南北朝の時に分かれた両家の法要を、律宗の同じく壬生寺の貫主様が勤められた事に不思議な縁を感じます。」と感想を述べさせて頂きました。
 それからしばらくして、本当に不思議な事が起こります。その前に、石清水八幡宮の本殿周りの瑞垣に、極彩色のカマキリの彫刻があり、このカマキリは「祇園祭の蟷螂山のルーツ」であるという事が神職の方々の間で伝承されて来たそうですが、口伝のみで確たる証拠もありませんでした。そんな中でも、昭和の蟷螂山再興の時には、蟷螂山保存會の方々が、石清水八幡宮を参拝された、と言う話がありました。
 その事から、蟷螂山との関係、唯一の絡繰りのカマキリが取り持つご縁を感じて来た私は、蟷螂山保存會の方々との親交を育んでおりました。そして、その年の祇園祭が近づいてきたとある日、蟷螂山の評議員をされている方に久しぶりに電話を差しあげたところ、その方は仕事で法園寺に来られて、初めてその本堂(収納庫)に入られたそうです。その時に、松浦貫主は「おたくは蟷螂山さんでしたね。」とおっしゃり、見せていただいたのが四条隆資卿のお位牌だったそうです。その裏にはびっしりと隆資卿の生涯の事が書かれていて不思議な位牌でしたよ、とおっしゃいました。「別に一生懸命に探していた訳ではないのに、このような形で知ることになるなんて、本当に不可思議なことがあるものですね。」と驚いておられました。  
 正平塚を探して中ノ山墓地に行ったその時から、隆資卿との不可思議な体験を持つ私にとってはさもありなん、と思える事でしたが、その時を思い出すと、受話器を持つ手が震えた事を思い出します。
 最後に、なかなか書き出せなかった紀光清と当時の石清水宮寺について書けるようになったのも、隆資卿のお陰かも知れません(合掌)  (つづく)
  (令和2年11月4日 京都産業大学日本文化研究所上席特別客員研究員)
                          
【参考文献】
シンポジウム「日本文化と史跡・石清水八幡宮」資料集 上原眞人 2012.3.17
「週刊・日本の神社」17号 「宇佐神宮」2014.6.10
京都府立大学文化遺産叢書・第4集 「中世の石清水八幡宮における祠官「家」の成立」(P21~41)
社報『石清水』「待宵の小侍従」 菅 宏著 1~8
京都新聞「いのちのほむら―祭り 京・近江56」2011年2月21日(月)
  
 


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by y-rekitan | 2020-11-30 08:00 | 唯一の宮寺への道
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