高田 昌史(会員) 八幡東部の川口、戸津、内里、下奈良、上奈良地域では、かつては梨栽培が盛んであった。した。中でも川口地区では昭和39年(1964)に京都府下で最初の「梨狩り」が始まり、多い日には4000人ぐらいの人が来園した。(※1) しかし、都市化による梨園の住宅地等に転用や後継者不足により100戸を超えていた生産農家も最近は20数戸と伺った。 私の住宅も川口の梨園を住宅地に転用された地域だが、転居当時は梨のシーズンには周辺の道路脇や農家の小屋前に多くの梨の直売所があり、また、京阪八幡市駅からは「川口観光梨園」への直通バスが運行され大勢の観光客が梨狩りに訪れていた。しかし、その後、観光梨狩り園は1か所のみとなり10年間以上続けていたが、4年前に閉園となり京阪電車内(八幡の梨狩)の吊り広告も姿を消した。 以下に「八幡の梨」について、振り返ってみる。 八幡の梨の収穫量は昭和39年(1964)9月の「八幡町政だより」には260トンとあり、その後の記録は「八幡市統計書」に昭和51年(1976)~平成18年(2006年)まで記載されている。(※2)その間の収穫量を下図にグラフ化したが、収穫量は約3割近くまで減少していることが確認される。 なお、昭和11年(1936)11月発行の「八幡町誌」には梨の生産数量83,930貫(314.7トン)、作付11,928本とあるので、その後の約40年間の昭和57年(1982)頃までは梨収穫量は300トン前後で推移していた。 ![]() 梨の原産地は中国で日本では弥生時代の登呂遺跡から梨の種子が見つかっており、奈良時代の日本書紀(720年)には梨の栽培を奨励する記載がある。その後の江戸時代中期には多くの品種が誕生した。(※3) 山城地域には文政12年(1829)に美濃の国から梨の苗木を持ち帰り栽培したのが始まりで各地に広まった。八幡町でも梨の栽培が盛んになったが、現在の梨の栽培は川口地区と内里、上奈良地区のみである。(※1) 梨の品種は長十郎で小玉な品種(赤ナシ)だったが、最近の栽培品種は比較的大玉でより美味しい、「幸水」、「豊水」、「あきづき」の品種に植え替えられ、現在長十郎は姿を消した。 ![]() (1)川口の梨狩り 川口地区で昭和39年(1964)から始まった「観光梨狩り」は最高で29戸の観光農園があり、8月中旬から約2カ月のシーズンには農園近くには臨時のバス停(梨狩前)が設けられる盛況でシーズンで2万人を超える客が訪れた。それに梨狩りの写真は何回も八幡市の“広報やわた”の表紙を飾った。 ![]() (2)川口梨園地域の今は 昭和50年(1975)頃からの始まった川口地区の宅地開発や後継者難により、多くの梨園が宅地等に転用されて急激に梨園が減少した。 下の左写真は昭和50年(1995)頃の川口地区農地の航空写真(※5)で、右の写真は現在の川口地区の宅地開発後である。現在は約1000軒の住宅が建てられているが周辺の農地には梨園が残っており梨の生産・販売を継続している。 ![]() 以上、八幡の梨栽培の歴史を川口地区中心に取りまとめました。現在の梨園農家の方は大変とは思いますが「八幡の梨」の栽培は絶やさないようにと願っています。 末筆ですが、八幡梨果組合会員の皆様、八幡市の環境経済部農業振興課及び政策推進部秘書広報課のご担当の方々には、八幡の梨栽培資料や撮影写真等を提供いただき厚く御礼申し上げます。 《参考資料》
by y-rekitan
| 2020-11-30 07:00
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