八幡の古寺巡礼 ―第8回:男山四十八坊跡を巡る― 高田 昌史 (会員) 今年の「八幡の古寺巡礼」は、各地の古寺を訪問してご住職から講話をお聞きするのではなく、12月2日に男山山上の主要な坊舎跡を巡って当時を偲びました。 当日は天候にも恵まれてコロナウィルス感染防止に留意しながらの快適な男山山上の歴史探訪ウォーキングでした。その概要を報告します。 参加者は23名でした。 男山には「男山四十八坊」と称されていた坊舎は、嘉永元年(1848)に纏められた「男山考古録」には60坊の坊舎が収録されている。 また、山上伽藍の堂塔は長享3年(1489)の「石清水八幡宮堂塔目録」によると26の堂塔が記載されています。これらの坊や堂塔跡を巡る“歴史探訪ウォーク”を開催して、当日は男山の北谷地区の「男山展望台」に集合・受付後に、配布の「しおり」によるコースの概要説明をしてから出発した。今回の訪問先と巡る順序は、下図に示した通り四十八坊跡は5ヶ所、山上伽藍跡は3ヶ所の計8ヶ所を巡りました。 ![]() 最初は男山展望台の西奥(八幡宮の北総門の北側)の太西坊です。太西坊跡には入れないなので、展望台入口に設置の太西坊説明看板前で説明をしながら当時を偲びました。 太西坊の住職、専貞(せんてい)は赤穂藩家老・大石内蔵助の実弟で、その専貞の跡を継いだ覚運(かくうん)は内蔵助の養子でした。元禄15年(1702)の赤穂浪士の吉良邸討ち入り後には、覚運が仇討ちを手伝ったことが評判となり、たくさんの寄付が集まり太西坊を再興したと伝えられている「忠臣蔵ゆかりの坊」です。この覚運の墓が善法律寺墓地で2013年に発見されました。また、太西坊の燈篭は、護国寺跡の東辺(太西坊入口道)及び一の鳥居前に一対が現存しているので当日確認しました。なお、「太西坊跡」三宅碑(昭和2年建立)は、平成30年(2018)4月歴探会員により発見され、発見当時の石碑の写真はしおりにいれたが、発見場所は当時の護国寺から太西坊への道の途中です。 太西坊跡から坂を下ると、すぐに護国寺跡です。 石清水八幡宮は、平安時代初め貞観元年(859)、奈良大安寺の僧・行教和尚が、豊前国(現・大分県)宇佐八幡宮から、八幡大神をこの地に遷したのが起源です。そして翌貞観2年(860)、本殿が朝廷により建てられました。護国寺は行教和尚がこの地に前からあった山寺を改め「護国寺」と名付けたと伝わります。八幡宮本殿の尾根筋から東に少し下がった男山の中腹に位置し 本殿と一体となり全山を取り仕切った重要な施設でした。平成22年(2010)の発掘調査で江戸時代後期、文化13年(1816)に建てられた本堂の礎石の跡が見つかりその内側には地鎮祭の跡があり、銅でできた輪宝(りんぼう)に独鈷杵(とっこしょ)を突さ立てる天台宗の方式で、八角形に須弥壇を取り囲んでいた。護国寺は明治元年(1868)の神仏分離令発布により他の山上伽藍や坊舎と共に破却されました。 護国寺跡から少し下り石清水社の東方面に「寛永の三筆」の一人の松花堂昭乗が 住職をつとめた瀧本坊跡です。坊跡の入口部に設置の「瀧本坊跡の説明看板」前で概要の説明をして当時を偲びました。平成22年(2010)の瀧本坊跡の発掘調査では、多くの瓦、土器、陶磁器などの出土品があったが、遺構から当時の復元図が作成されています。 説明看板には【将軍の茶道師範でもあった小堀遠州は昭乗の親友で、この瀧本坊には遠州と共に造った茶室「閑雲軒」があり、 詳しい絵図面も残されています。発掘調査では、坊跡の地面の上に、南にあった客殿の礎石と、北には漆喰作りの瓢箪型の池が見つかりました。さらに、東の崖の斜面には、建物の柱を支えた礎石の列が30m以上に渡って見つかり、閑雲軒の北に懸け造りの書院があったことがわかりました。茶室「閑雲軒」は7mもの柱で支えられ、床面のほとんどが空中に迫り出した「空中茶室」ともいうべき構造であったことが判明しました。】との説明文と、発掘調査による平面図や「閑雲軒」のイメージ図があります。当時の「閑雲軒」からは見晴らしがよく宇治方面や巨椋池等の眺望は素晴らしかったと想像できます。 参道まで上がり東総門を過ぎるとすぐに宝塔院跡の説明看板があります。 明治元年の神仏分離令により宝塔院が破却された後に基壇の中央に参道が通されたので、現在は参道の両側に礎石が残されている。宝塔院は平安時代に建てられた天台密教系の仏塔で軒の四隅に風が吹くと鳴るように琴がかけられて、「琴塔」と呼ばれていたようです。現在も参道を通ると両側に大きな礎石が確認できる。 宝塔院跡から本殿前の正面参道を横切り、休憩所(石翠亭)前の広場北側が大塔跡で、現在は生垣の通路の真ん中に礎石が確認できます。 ![]() 三の鳥居から表参道を下るとすぐ左側が豊蔵坊跡です。 豊蔵坊は江戸に幕府を開いた徳川家康の三河時代からの祈願所で、毎年江戸に参府し、徳川将軍家の坊として江戸時代に最も栄えた。文久3年(1863) に孝明天皇が攘夷祈願を行った場所としても有名です。石高107石は男山四十八坊といわれた坊のなかでも随一でした。(朱印地の他に300石給る) 豊蔵坊は正法寺の開祖に繋がる志水家の娘で、家康の側室となったお亀の方(相応院)の縁(えにし)により、江戸幕府の手厚い保護があったともいわれています。お亀の方の子義直は初代尾張藩主となり、母の菩提寺である正法寺を厚く庇護しました。 豊蔵坊跡から表参道を下ると左側に橘本坊跡の高い石垣が目につきます。橘本坊は足利氏の祈願所でした。室町幕府3代将軍である足利義満の母、良子は、石清水八幡宮寺の別当である「善法寺家」の出身であったことから大層ゆかりが深く、足利将軍の多くは生涯に何度も八幡宮に参詣し、放生会も執り行いました 。 橘本坊には世に名高い八幡太郎義家の産衣や甲冑がありましたが 、宝暦9 年(1759)火事で焼失し、今は石垣だけが残されています。 男山の麓、八幡宮道を南へ約300 mに善法寺家ゆかりの寺、善法律寺があります。 表参道をさらに下り大扉稲荷社前の影清塚横から分岐の石清水社への参道を上るとすぐに泉坊跡の説明看板があり、その横を少し上がると泉坊跡です。 泉坊は約400年前に松花堂昭乗が瀧本坊の住職を引退したのちに泉坊で晩年を過ごし「松花堂」と名付けた庵を建てました。泉坊は明治7年頃に「書院」と草庵「松花堂」が松花堂庭園に移築されたので現在も見学ができます。 また、泉坊跡は平成19年(2007)から5ヵ年に渡り石清水八幡宮境内の発掘調査した中で、 唯一発掘遺構が露出展示されている。松花堂跡はコンクリート囲いをしており、土間や茶室などの跡にはコンクリート板の表示が設置されています。泉坊跡の見物後に表参道に戻り一次解散してから、二の鳥居~頓宮~一の鳥居に15時半過ぎに到着し、一の鳥居前の一対の元文2年(1737)に設置の太西坊燈篭を確認してから解散としました。 今回の古寺巡礼は、すべてが男山の古寺跡巡りであったが、主な男山四十八坊跡や山上伽藍跡には説明看板が設置されているので、迷うことはありませんでした。 受付で今回の「古寺巡礼」のしおりと一緒に15の坊や伽藍跡が纏められています〈男山四十八坊跡の観光案内〉のパンフレットを配布しました。四十八坊跡に説明看板を設置しパンフレット発行の八幡市役所商工観光課の担当の方にはお世話になり御礼申し上げます。 〈参考資料〉
by y-rekitan
| 2021-01-26 11:00
| 歴史ウォーク
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