近世八幡の歴史に興味は尽きない
2月17日午後2時より八幡市立松花堂美術館講習室において表題の会員研究発表がありました。発表は石清水八幡宮神人の橋本家文書から最近発見された話題の連歌師「橋本等安」、近世八幡の恩人ともいえる「お亀の方(相応院)」、それに「松花堂昭乗」をテーマの盛りだくさんの発表でした。特に新発見の橋本等安連歌巻の中身については、山城郷土資料館や近隣の市、町でも紹介されて大きな話題になっています。 研究発表会の参加者は34名でした、講演の概要は発表者の谷村氏により纏めていただきました。(会報編集担当) 八幡橋本町に橋本等安と云われる連歌師がいた。安土桃山時代から江戸時代初期に活躍していた。驚いたことに、当時連歌界の第一人者の里村紹巴や最高の文化人と云われた細川幽斎と同座して連歌を巻いている。それを裏付ける等安連歌巻などの関連資料が発見された。八幡の文化人と云えば松花堂昭乗を思い出すが、昭乗の時代を少し遡る安土桃山時代、かの信長、秀吉が統治した時代を中心に橋本等安は活躍している。 「山城綴喜郡誌」と「八幡市誌」 かつて明治41年発行の「山城綴喜郡誌」に紹介されていたが、残念ながら解説不足は否めない内容であった。昭和55年刊行の「八幡市誌」第2巻P320に「山城綴喜郡誌」からほぼ同じ内容の引用文がある。
連歌とは 日本の詩の歴史の中で古代以来の和歌から派生し、やがて近世の俳諧の生みの親となったのが連歌です。連歌とは和歌の上の句(五七五)と下の句(七七)を次々と別の人が交互に作って繋げていく文芸であった。(五七五七七)の歌とその後半の(七七)にまた(五七五)を付けた(七七五七五)という形の歌が、鎖のようにつながる百句(百韻)としたのである。それを一堂に会した人々が、その場で次の句を考えて展開させていくもので、それを連歌の会とか、一座興行(張行・ちょうぎょう)といった。参加者を連衆(れんじゅ)といったが、和歌や古典に対する深い教養だけではなく、例えば月や花、特定の季節に内容が片寄らないようにするための式目(約束事)が連歌にはいろいろあったので、それを守りながら豊かな発想を以って自在に歌をつくれる必要があった。会を捌(さば)いていく宗匠がいて、上手な句は多く採用され、下手な句は採用されなかったからである。それが二つ折にした四枚の懐紙八面に書き継がれて、一つの作品になった。 (千利休の「わび」とは何か・神津朝夫) 橋本等安(とうあん)連歌巻と見所 連歌最盛期の第一人者「里村紹巴」の弟子に八幡宮社士の「橋本等安」がいたが、「等安連歌巻」に細川幽斎、里村紹巴の評点や紹巴の手紙が出てくる事が初めて分かった。幸い「地域史料研究会やわた」の研究活動から橋本家に辿り着き、資料の提供を受けるに至って大きな再発見になった。等安連歌の見所の主な4点、
里村紹巴(じょうは) 大永四年(1524)~慶長七年(1602)享年78。興福寺一乗院御小者頭、松井昌祐の子、連歌師周桂の門人となったが、周桂没後、里村昌休に師事、昌休の死に際して家督と共に後事を託され、その息の昌𠮟(しょうしつ)の後見となり、里村家を継承した。有力公家・武家と接触し、三条西公条らから古典学を学ぶ。連歌師の宗養没後の四十歳頃には連歌界の第一人者となる。近衛稙家から古今伝授を受け、多くの連歌秘伝書を書写。信長・細川幽斎らに知遇され、津田宗及と親交し、また明智光秀興行の『愛宕百韻』に同座し、謀判に加担したと疑われた。豊臣秀吉との関係も深く、百石の知行を得た。『連歌教訓』『連歌至宝抄』などの連歌論書、『源氏物語紹巴抄』などの古典注釈書、紀行『紹巴冨士見記』などその著作は多い。(廣木一人著「連歌辞典」東京堂出版他)紹巴は元亀四年(1573)六月五日に連歌興行などのため勝龍寺城を訪れているが、等安連歌巻の紹巴書状から、安土城よりも早く勝龍寺城「天主」の存在が確認された。 細川幽斎(ゆうさい)(藤孝) 武家。天文三年(1534)~慶長十五年(1610)享年77、藤孝。玄旨。近衛稙家(たねいえ)に文事を学び、三条西実枝(さねき)より古今伝授を受け、智仁(としひと)親王・三条西実条(さねえだ)らに授けた。連歌は宗養に学び、弘治二年(1556)九月十日細川晴元が興行した百韻連歌をはじめ、元亀二年(1571)二月五日の『大原野千句』、同四年の『大覚寺千句(嵯峨千句)』など、多くの会に参加、紹巴・昌𠮟ら連歌師や、多くの公家・武家・僧侶らと一座を共にした。家集に『衆妙集』が、連歌句集に『玄旨(げんし)公御連歌』、紀行に『九州道の記』その他多くの注釈書類がある。松永貞徳著『戴恩記』によれば、「この藤孝公は、出は細川殿で尊い方であったが、身分低い人をも卑しめることなく、諸芸に達しておられたが、他をそしることなく…ひとつとして非のうちどころなき仁君であった」。と記しているのは、紹巴や等安から見た場合も同じであっただろう。 村井貞勝(さだかつ) 歴史の表舞台に登場するのは信長の代になってからで、信長が家督を相続してから、主に織田家の財政面を担当した。天正元年(元亀四年・1573)信長は将軍・足利義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼした後、新たな行政機関として「京都所司代」を置き、貞勝を京都に常駐させる。以後、信長政権に関する京都の様々な政務にあたり、特に朝廷や公家との関わりが大きく、朝廷や公家方も貞勝と連歌や茶道を通して信長の近況や意思を把握するために頻繁に貞勝と接触を持つようになった。天正十年(1582)明智光秀による「本能寺の変」が勃発。貞勝は妙覚寺に滞在していた信長長男・織田信忠を二条御所(*)に移したが、明智軍に包囲され、息子の二人と共に討死、主君信長の後を追った。 高好連歌帳によれば貞勝とは元亀二年(1571)九月八日に両吟百韻を二人で、元亀四年(1573)六月十二日に四吟百韻を貞勝、重経、渕可、等安の四人で詠み、それぞれ紹巴の評点を受けている。なお、元亀二年九月十二日には比叡山焼き討ちがあり、元亀四年七月には信長が槙島城を破って、義昭を追放している。同年四月に武田信玄死去、八月には朝倉氏が滅亡し、続いて八月末には朝井氏が滅んだ。 (*)二条御所/烏丸御池/現京都国際マンガミュージアム 大村由己(ゆうこ) 分筆家。天文五年(1536)?~文禄五年(1596)61歳?。播磨国三木の人。はじめ僧であったが、還俗して由己と称し、天正八年(1580)より前、豊臣秀吉の右筆、同十年に大阪天満宮別当、文禄元年(1592)法眼となる。連歌は、天正四年十一月十八日「何墻(かき)百韻」に紹巴・永種・昌𠮟らと同座、天正十年頃より秀吉を含め、貴顕との会に度々加わっている。和漢聯句で漢句も詠じ、俳諧・狂歌も詠んだ。秀吉の武勲を描く軍記物(『天正記』と総称される)を数編著し、新作能や、謡曲・和歌・連歌・俳諧・狂歌などに多彩な才能を発揮した。藤原惺窩(せいか)や山科言継(ときつぐ)・里村紹巴など、同時代の知識人達と交友し、『梅庵古筆伝』を著すなど、古筆への造詣も深い。 (連歌辞典・廣木一人/他) 勝龍寺城関係資料集 *等安連歌巻の里村紹巴書状は、勝竜寺城の天守の存在が確認された貴重な書状となり、令和二年長岡京市教育委員会発行の『勝龍寺城関係資料集』にも、「天主」に言及した史料で、リアルタイムの記述としては「唯一のもの」と紹介される。 高好連歌帳 天正十四年六月廿二日「越前北庄ニ知人在しを 尋行不思逗留せしかハ 旅宿の従然候て相綴侍しを 玄旨紹巴へ合點ヲ望畢」との記述から、旅行先の越前北の庄から細川幽斎、里村紹巴へ独吟の添削を依頼している。(従然=ショウゼン・落ち着く) 〵三吉野の花やハ夏に峯の雪 涼しさをくる月に朝風 〵阿波を高瀬の小船さしつれて 堤につゝく里はいくむら 呉竹の末葉ほのかに打煙 〵〵めかけにあへす霧や解けん かたゝゝに羽吹出たる鳥のこゑ かこふあたりもひろき苗代 細川幽斎連歌巻 縦17.5㎝横488.5㎝(天理図書館蔵) 天正九年(1581)三月十六日 藤孝(細川幽斎)筆 賦(ふす)何(なに)人(ひと)連歌 霞つゝ 有明にあきの 夜はもかな 紹巴十四句 かへるかりなく をちのしら雲 藤孝十四句 浦波も ひとつにみねの 花さきて 昌𠮟十三句 心前十三句 文閑十句 宗及十一句 等安八句 則益九句 景韻七句 金阿一句 天正九年、藤孝筆の連歌懐紙が残っている。細川藤孝や紹巴をはじめとする里村一門の人々、一大茶人津田宗及が参加する豪華な連歌会に等安も加わっている。 (竹の葉に うつる朝日の 影うすミ 等安八句) 津田宗及(そうぎゅう) 茶人。?~天正十九年(1591)。宗達の子。堺の豪商で天王寺屋を称した。政商として多くの武将に接近したが、今井宗久・千利休とともに織田信長・豊臣秀吉の茶頭ともなった。祖父宗伯は肖柏から古今伝授を受けた連歌師であり、戦国末期の堺の連歌壇の中心的な人物である。永禄六年(1563)に宗養と同座している。以後、多くの連歌に紹巴・昌𠮟・心前らと同座、細川幽斎主催の『大原野千句』にも加わっている。著書に『天王寺屋会記』がある。天正十九年(1591)堺の屋敷で亡くなった。宗及の子に大徳寺第156世住持の江月宗玩がいる。 (連歌辞典/廣木一人/他) 八幡・片岡家の名器(香炉)の記事二つ 八幡でも連歌と共に茶の湯も盛んであったことが推察される。 津田宗及「他会第五冊・茶湯拝見」(自天正三年至六年冬) 天正四年六月十二日昼 八わた片岡宇右衛門殿(片岡光次孫) 「一、引拙香炉 四方盆ニ」「評註/鳥井引拙ノ香炉・青磁ナルベシ」 「信長公記」天正七年十二月十日…去る程に、八幡の片岡鵜右衛門と申者、 周光(しゅこう・珠光)香炉所持候を、召し上げられ、 銀子百五十枚を下され候也 明智光秀 武家。享禄元年(1528)~天正十年(1582)。五十五歳。惟任。永禄十二年(1569)頃から織田信長に仕え、近江国坂本城主、丹波一国領主となった。連歌を好み、永禄十一年十一月十五日「何路百韻」で、道澄・紹巴・昌𠮟らと同座、以後、天正元年六月二十八日に坂本城で歌仙連歌、翌年正月二十四日に現奈良県大和国多聞城で「何人百韻」を興行するなど多くの連歌会などを催した。紹巴と同席することも多く、最期の連歌となった『愛宕百韻』でも紹巴に脇を詠ませている。 (連歌辞典/廣木一人)一一 明智光秀と連歌 天正二年七月四日『何人百韻連歌』に参加している(『連歌総目録』)。 連衆は紹巴ら里村一門に藤孝を加え、塙(ばん)直(なお)政(まさ)、古田(ふるた)重(しげ)然(なり)(織部)が確認できる。[発句]槙木の板継はし白し夕月夜 [発句作者]紹巴14、[脇句作者]直政1、藤孝13、光秀10、昌𠮟13、心前12、玄哉10、有隣8、玄良8、一実3、重然7、重種1.(於坂本城) 塙直征は光秀と共に都の政務に当たった人物。古田織部は中川清秀の与力として活躍、千利休没後、茶の湯宗匠として二代将軍徳川秀忠の茶道指南役に抜擢されている。光秀は間もなく河内方面から大和に転戦した後、坂本城に帰る。 天正二年閏十一月二日[坂本城]、『山何百韻連歌会』を興行(『連歌総目録』)。[興行者]明智殿、[目的]船中の御参会、[発句]大舟の雪にしつけき堀江哉 [発句作者]藤孝 [脇句作者]光秀 [連衆]藤孝 光秀 紹巴 昌𠮟 心前 英姑 宗及 重種 自然丸。里村一門や一大茶人津田宗及も参席する豪華な顔ぶれ。自然丸とは光秀の息子(次男) 等安連歌・巻子本3-16 此百韻 墨点事書奥書 玄旨真筆也 同朱点者紹巴写也 不伯斎 慶長三年十一月廿五日 等安 熊本県立大学鈴木元教授の検証の結果、幽斎の真筆が確認された。幽斎の文書は多数残るが、最終的に幽斎真筆と評価されている屏山文庫蔵の「為舟独吟何路連歌百韻」と「詠三十首和歌」との対比すべき文字として「長表示」を比較した。また、「付墨○○句(首)/内長一」という、一連の筆の流れが同筆であることを雄弁に物語り、長点の対比も幽斎筆たること、疑う必要はないものと思う。 (『等安独吟百韻連歌』への伝幽斎筆評点について(国文研究第六十五号)/鈴木 元) 天正五暦(1577)十月十九日 連歌会 東寺遍昭新院 貞海 四 此内長一 新善法寺 賢心 六 同長一 大和兵部少輔 貞栄 六 同長一 橋本満介 高好 八 同長二 奥村禅右衛門尉入道宗白 二 橘本坊 春誉 四 新与兵衛付 尚則 三 同長一 森川与兵衛 清永 一 宮本坊 重祐 四 同長一 永椿庵 宗栄 三 同長一 イロコカタヤ 善別 三 同長一 日向衆客僧 長尊 一 公文所宮内卿 院興 二 同法眼 院慶 (百五十句)
志水家の「お亀」は文禄三年(1594)、徳川家康の側室となり、近世八幡を切り開く大きな足跡を残した。慶長五年(1600)五月、徳川家康は石清水八幡宮を中心とする八幡に361通の「領知朱印状」を発給し、徳川政権構想に取込みました。この年、豊臣政権の領地召し上げによって中断していた「安居神事のまつり」が復活、十二月には早くも「安居の頭役」を志水家が担って、武運長久と天下泰平を祈願している。関ヶ原直前の7月、豊臣奉行衆による家康弾劾状「内府ちがひの条々」の最後には「内縁の馳走を以、八幡之検地被免候事」とあり、お亀の出身地、八幡の「検地免除」を非難するが、実際に御朱印にそって検地が免除され、それを喜ぶお亀の手紙が伝わる。これ以後、江戸時代を通して、八幡は「検地免除(けんちめんじょ)」・「守護不入(しゅごふにゅう)」の地として近世自治組織の体制が整いました。「お亀の父、志水宗清は上杉征伐に参陣し、兄の志水忠宗はお亀の子の尾張藩祖、徳川義直卿に従い大坂夏の陣に従軍、その後も代々尾張藩家老として藩政を支えました。」(志水氏家系) 関ケ原合戦後、蓬左(ほうさ)文庫「城州八幡愚聞抄」によれば志水忠宗が代官に指名された時期は不明だが、慶長七年十月二日、山城国内に五百石の知行が代官役領として支給された。 八幡生まれの「お亀の方」 父は志水宗清、母は田中甲清嫡女、天正四年(1576)生まれ、母方の実家は八幡宮詞官家田中家傍流の東竹家、母親は宇治のお茶師尾崎坊家の縁者では、など諸説がある。 「お亀」は文禄三年(1594)、徳川家康の側室となるが、家康とどこで出会ったか、これも諸説あって、正確なことは分かっていない。『英勝院由緒書(於梶の方)』にはこの頃の側室を「中の三人衆」とし、於亀の方、於万の方、於梶の方を挙げている。於亀の方は山城国石清水八幡宮社人の娘で、竹腰定右衛門に嫁いだが、夫に死別し、(次に豊臣秀吉の家臣であった石川光元の側室になり、石川光忠が生まれるも、夫とは離縁する。)其の後、京の承地法印に奉公して、たまたま法印の屋敷に休息を求めて立寄った家康にみそめられたという。文禄四年(1595)には、伏見で仙千代を出産したが、七歳で早世、慶長五年(1600)五郎太丸(徳川義直)を産んだ。義直は僅か四歳のとき甲斐に、後に尾張に封ぜられた。ある日、武蔵の忍(おし)に鷹狩に出た家康は義直が痘瘡を患ったことを聞き、心配のあまり急ぎ駿府に帰城の途中、病状が軽いとの知らせを受け、於亀の方と於阿茶宛に安心したとの書状を送っている。(歴史への招待・西村圭子) 正法寺 徳迎山正法寺は鎌倉時代の建久二年(1191)に天台宗の寺として開創。当地に八幡宮幣礼使として来往した鎌倉幕府御家人・高田蔵人忠国が、本寺を開いたと寺蔵文書が伝えている。正法寺の第一世は忠国の次男・願阿円誓。清水という地名にちなんで高田から志水と改姓し、志水氏の菩提寺になる。正法寺の隆盛を築いたのは、室町時代後期に住持となった聖誉上人(浄土宗に改宗)と伝誉上人。ことに伝誉上人は後奈良天皇の帰依を受け、天文十五年(1546)に勅願寺になるなど、本寺の中興に尽力した。この時期に多くの塔頭寺院が開創された。その後相応院の菩提寺となり近世を通して尾張藩の厚い庇護を受けてきた。現在の伽藍は相応院の寄進によるもので、寛永六年(1629)頃に建立される。本堂・唐門・大方丈(いずれも重要文化財)の他、小方丈・書院・鐘楼(京都府指定文化財)など、近世前期の建物を当時の規模のままに保っている。 (正法寺しおり) 一一 中西家住宅(守口市大久保町) 「大窪荘中西家:大窪荘にあり中西四郎範顕の後裔にして、年久しくここに住す。太平記にも出たり。其後尾張亜相源義直卿御由緒ありて勤仕す。代々大坂の尾州邸令となる。」(河内名所図会) 中西家は、近世初期に尾張徳川家と姻戚関係を持ったことなどから、後に尾張藩天満御屋敷奉行などを勤めた河内きっての名家のひとつ。 志水於鶴は中西孫右衛門要保の妻となる。中西家は元々八幡の出身といわれる。 安居神事の復活:お亀(相応院)と志水家の奔走 山上山下衆も一大決心か、家康は関ヶ原合戦の直前朱印地を確定し検地免除も保証。
by y-rekitan
| 2021-03-28 11:00
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