和氣神社 弓削道鏡 102号


和氣神社に奈良時代を学ぶ
―その5 弓削道鏡―

 野間口 秀國 (会員) 


<幻の都 由義宮(西京)の跡>

 およそ4年前の平成29年(2017)2月11日の午後、立春が過ぎたとはいえまだ寒さが残る日でしたが、大阪府八尾市東弓削で、奈良時代に称徳天皇と弓削道鏡が建てた由義寺(ゆげでら)跡と称される「東弓削遺跡(由義寺跡)の発掘調査(遺構確認調査)現地説明会」に足を運びました。前日の京都新聞には「寺の実在が確認できた。平城京の国家寺院の塔に匹敵し、法王となった道鏡の権力を物語っている。」とありました(*1)。                               
 さて、時はその当時の都に戻りますが、神護景雲3年(769)正月、平城京の大極殿で行われた朝賀の儀式では、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱や蝦夷(えみし)政策に功のあった者、すなわち称徳天皇に対する忠誠者や功労者が重視され、中央に位置する道鏡に全ての大臣以下が新年の喜びを述べたと書かれてあります。また、道鏡は「称徳天皇と法王による治世が永らえるように」との詞(ことば)を道鏡自らが告げたともあります(*2)。結果的には幻の都とはなりましたが、道鏡の出身地である由義寺を含むこの地一帯(現在の大阪府八尾市)の「由義宮(西京)造営計画」も、翌年の称徳天皇の崩御により計画は中止され、その完成を見ることはありませんでした。この年の正月が称徳天皇と道鏡による共同統治の絶頂期であったことは歴史の語るところではないでしょうか。
 和氣神社 弓削道鏡 102号_f0300125_22102174.jpg現在では史跡公園となったこの地に建つ「史跡 由義寺跡」記念碑には以下のような由来が書かれてあります。曰く、“由義寺は、「続日本紀」に登場する奈良時代の寺院で・・・(省略)・・・ その後、由義寺と由義宮の場所はわからなくなっていましたが、平成27年(2015)に始まった八尾市曙川南土地区画整理事業に伴う埋蔵文化財発掘調査において、一辺が約20メートルの基壇が発見され、その大きさや出土した瓦などから由義寺の塔基壇と判明しました。奈良時代は、東大寺の創建や国分寺の整備など、仏教と政治が深くかかわっていました。由義寺は、そのような仏教政治の到達点であると同時に終焉を示すものとして、平成30年(2018)2月13日に国の史跡に指定されました。” と。

<看病禅師への階段>

 本章の殆どは(*2)(*3)を、また必要に応じて(*4)(*5)も参考にいたしました。はじめに、道鏡の生まれ故郷は河内国若江郡弓削郷(現在の大阪府八尾市)で、父は弓削村の長でありましたが、道鏡誕生の確かな記録は無いようです。青年期以降のできごとなどから、それは和銅3年(710)と推定されており、そうであれば、まさに平城遷都の年に生を受けたこととなります。後に国政を司る二つの政府(律令政府と仏教政府)の一つである仏教政府の最高位を得ることになりました。道鏡は若き頃の師の教えに従い、妻を娶らず、金貸し業などには手を出さず、若い頃よりひたすら自らを律して葛城山山頂近くの堂などで厳しい修行を重ねていたようです。そして最終期には二つの政府を超える法王の位を得たのです。この時代、貴族でもなく、あまり身分の高くない者が勝ち上がるための術は軍人か僧侶であったようです。数多くの経典に目を通し、梵語(ぼんご:古代インドのサンスクリット語)を学び、山中の堂にこもって呪術の修行を行い、神亀4年(727)に僧正・義淵(ぎえん)の門下僧となり、翌年には道鏡の法名を得ています。道鏡はさらに上を目指し、天平19年(747)頃に東大寺で僧正・良弁(ろうべん)の見習僧となるのです。道鏡の名が始めて文書に現れたのは天平19年(747)の正倉院文書とありますが、この年は東大寺の大仏鋳造が開始された年でもあります。その6年後の天平宝勝5年(753)には法師道鏡の名で書が残され、その8年後の天平宝字5年(761)には、前号の「称徳天皇」にて書きましたが、念願であった当時の孝謙太上天皇の看病禅師へと到達したのです。
 いつの時代でも、どんな社会でも、組織には階級や順守すべき規則が存在します。いわゆる新入社員から社長までのように、個人の能力・適性、組織の求めによって少なくても四五段から、多くは十数段にも及びますが、この時代の僧侶の世界でもそれは存在しました。道鏡も決して最初から孝謙太上天皇の傍で仕えることが出来た訳ではありませんでした。天平宝字5年(761)、その座を淳仁天皇に譲位され太上天皇となられた孝謙太上天皇は、保良宮行幸に際して当時推定51歳の道鏡を「看病禅師」に命じられたのです。看病禅師とは、そのお傍で天皇(または太上天皇)の病を治し健康を守ることが役目でした。

<薬の医術 と 祈祷の毉術(いじゅつ)>

 ところで、看病禅師の役目については前述のとおりですが、道鏡の医学的知識や技術は認められるに足りるものであったのでしょうか。そのことを知るには、この時代の治療法には大きく二つあったことを知る必要があるようです。一つは現代と同様に薬などを用いる療法、いわゆる「医術」です。そしていま一つが病を治すという善意の呪術とも言える能力(古くは祈祷によって治療する人も医術を行うと考えられていた)である「毉術(いじゅつ)」といわれるものです。看病禅師である道鏡の備えた能力はその後者によるものであったことは書かれたものからも理解できます。道鏡の天皇との関わりの出発点は、彼の若き頃、当時の師に「おまえは国政の支配層になれる」と言われたとのことによるようですが、その目的達成のための強い執着心がその根本にあったと思われます。加えて、人並みならぬ日々の精進をする中で、僧正・玄昉(げんぼう)が聖武天皇の母親(文武夫人・藤原宮子)の病を毉術によって治したことを先例として、それに学んだことであると思えます。孝謙太上天皇の看病禅師となった後は、まさに飛ぶ鳥を落とすが如く、天平宝字7年(763)には小僧都に任命され、その翌年には大臣禅師に、翌々年の天平神護1年(765)には太政大臣禅師となります。すなわち前号の「称徳天皇」にも書きました、「政権中枢の一翼」の座を得たのです。さらにその翌年には法王、すなわち政権中枢の最高位で天皇に極めて近い地位と権力を得ましたが、それはまさに宇佐八幡神託事件の起きた3年前のことです。

<「道鏡は悪僧」だったのか>

 ここで道鏡に関して京都府内に伝わることを一つ書きたいと思います。比良山系の西側を北進して京と若狭を結んでいた街道が「鯖街道」と呼ばれておりますが、同じく両地区を結ぶ今一つの街道は「西の鯖街道」と呼ばれています。西の鯖街道(主に現在の国道162号線)を北上して、京北町下弓削・上弓削へと至ります。地名から道鏡とのつながりを想像できると思いますが、京北下中町に和同4年(711)に聖武天皇の勅願によって僧・行基によって建立されたと伝わる福徳寺があります。この地に道鏡が七堂伽藍を建立し、村人はこの縁で道鏡の為に供養塔を建てたと伝わります。和氣神社 弓削道鏡 102号_f0300125_22163321.jpg また、『峠越え 西の鯖街道』(*6)には以下のような一文があります。曰く、“伝説によると、道鏡は薬師如来に三年間祈願したが霊験がなかった。道鏡は怒って薬師如来像を放り出しこれに放尿し、・・・(中略)・・・。仏罰の恐ろしさにその所業を悔い、故郷の河内国若江郡弓削郷に帰って謹慎したというのである。これが道鏡の巨根説となったのであろう。” と。 後の世に「道鏡は悪僧」との内容で面白おかしく書かれたものもあるようですが、果たして真偽のほどはどうだったのでしょうか。なお、福徳寺にある道鏡禅師の供養塔(五輪塔)前に立つ碑柱には、「・・・(略) 禅師の品位を尊重し後世に傳わる醜名を解消し偉大なる人格を稱揚し霊を慰む」と彫られてあります。他にも、京北田貫町にて、道鏡のおい弓削旅人の子が朝廷から弓削荘の地を与えられた屋敷跡に、「弓削荘公文所」として使った、との由来を記した石碑が立てられたことを京都新聞(2018年3月1日付け)は伝えております。

<神託事件への流れと清麻呂の登場>

 さて、本題の「その1」より複数回出てきました「宇佐八幡宮神託事件」について道鏡の側からも見てゆきたいと思います。道鏡は確かに「国政の支配層」を目標に突き進んでは来たものの、初めから天皇の地位を狙い、また望んできたようには思えないのです。道鏡について書かれたものを(多くはないですが)読む限りでも、道鏡みずからそのような言動を発したり、命じたりした内容を殆ど見いだせないのです。しかしながら、取り巻きの動きによって流れはその方向へと進んで行きました。この事件に限らず、時代の流れや成り行きによって、時としてその人が望んでいたものとは異なる結果にもなり得るのだと思います。この事件までの道鏡の歩みを見ると、その時々のことがらに当たっての行動は決して無理はせず、強引に進めるようなことは極力控え、時には山にこもって時を待ち、と言った進め方だったように思えるからです。無論、強力な軍を持たなかったこともありますが、では「何故」と思う時、最大の理由はやはり称徳天皇の道鏡に対する、仏教の師と弟子の関係を超えた恋愛感情にも似た思いを抜きには考えられないと思われます。当時の称徳天皇の立場を考えると、独身の天皇に皇位継承者は無く、後継者指名もせずの状況でしたので、たとえ「道鏡を後継者に・・」そう思ったとしてもそのような前例は無く、当然のことながら朝廷などの反発は火を見るより明らか、という複雑な思いの中にいたのでしょう。
 神護景雲3年(769)、そこに舞い込んだのが「道鏡を天皇にすると良い」と言う宇佐八幡宮の神託でした。もたらされた神託が周囲の忖度の結果なのか、仕組まれたものだったのかは明らかではないようですが、称徳天皇も道鏡も歓喜しました。二人は念のために宇佐八幡宮に人を出向かせて神託を再確認することとし、その役目が称徳天皇のお傍に仕える女官、和気弘虫へ申し伝えられたのです。弘虫はこれを丁重に辞退して、弟である和気清麻呂へその任務を任せたのです。任務を受けて宇佐に赴いた清麻呂の持ち帰ったものは「臣を君の地位には就けられない」との内容であり、称徳天皇と道鏡の思いに全く反するものでした。称徳天皇と道鏡は無論その報告に激怒して、即刻和気弘虫・清麻呂姉弟の役を解き、位を取り下げて流罪とし、姉・弘虫を備前に、清麻呂を大隅へと送ります。清麻呂が前述の神託を持ち帰った翌年の宝亀1年(770)8月に称徳天皇は崩御され、それを追うかのように同月内に道鏡も失脚して下野(しもつけ:現在の栃木県)薬師寺別当に左遷されました。そしてその2年後の宝亀3年(772)に道鏡も同寺にて世を去りました。

<道鏡禅師坐像、西大寺に>

 冒頭に書きました平成27年(2015)に始まった八尾市の区画整理事業に伴う埋蔵文化財発掘調査の結果、平成30年(2018)2月13日にこの地は国の史跡に指定されました。また、史跡指定までの期間と軌を一にするかのように、「道鏡さんを正しく評価して」と40年の長きに亘って活動を続けてこられた同市の郷土史家の皆さんによって、昨年の秋に等身大の木像(座像の高さ84cm)が称徳天皇ゆかりの西大寺(奈良市)の聚宝館に奉納されました(*7)。昨年秋の奉納に際して行われた一般公開時に館内の木像を至近距離で見る機会を得ましたが、「私には悪僧には見えませんでした」との感想を記して閉じたいと思います。 最後に福徳寺ご住職、八尾市歴史民俗資料館のご担当者のご親切にお礼申し上げます。次号では和気清麻呂とその姉弘虫について書きたいと思います。
(2021.2.22)一一
  
(*1)京都新聞(2017.2.10.朝刊)記事 及び 2017.2.11の八尾市東弓削での「東弓削遺跡の発掘調査現地説明会」配布資料
(*2)『孝謙・称徳天皇』 勝浦令子著 ミネルヴァ書房 2014.10.
(*3)『道鏡』 横田健一著 吉川弘文館
(*4)『弓削道鏡 上』 黒岩重吾著 文藝春秋刊
(*5)『弓削道鏡 下』 黒岩重吾著 文藝春秋刊 1992.7.
(*6)『峠越え 西の鯖街道』 小畑登著 京都ゼミナールハウス刊 2017.11.
(*7)毎日新聞(2020.10.5.夕刊)・日本経済新聞(2020.10.22.夕刊)記事



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by y-rekitan | 2021-03-28 10:00 | 和氣神社に学ぶ
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