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◆会報第105号より-04 橋本の町①


「変わりゆく橋本の町」 その1

野間口 秀國(会員)


 
<コロナ禍の日々を暮らす>

 今年の夏は、その序盤と終盤で雨の日が続き、その間は猛暑日や熱帯夜が続くといった例年とは少し様子の異なる夏でした。加えて日々の暮らしは「コロナ禍での外出は控えましょう」、「ワクチンを接種しましょう」の呼びかけが続きました。 そのような日々、他人様や家族に迷惑をかけないで、また、お叱りを受けないで出来るのはオリンピックのTV観戦と、メダカの餌やりとマスクを着けての近所の散策くらいでした。そのような日々の中で京阪電車の橋本駅周辺は(駅の南西地区が主なエリアです)歩くたびにその様子が変わり続けています。何らかの方法で変わり続けるその様子を少しでも残していくことが必要と改めて思い直していました。

<目に見える変化の序章>

 実は、これらの変化の様子は、筆者が会報38号から書かせていただきました 「大谷川散策余話」 シリーズの第12話及び13話(会報49号及び50号)にて、大谷川が淀川流域に合流する橋本樋門手前の地点にて、橋本南山線が淀川堤にある府道への延伸工事が行われていたことを書きましたが、振り返ると今から7年半前頃(2014.4~5)から具体的にその変化が目に見えて分かるようになったように思います。
 この延伸工事完成の結果、2017年の夏ごろになると橋本の住宅地内の生活道路を通過する車両が減ったことを実感できるようになりました。 また、この道路の完成に軌を一にするように道路の南側に(枚方市楠葉中之芝住区)スーパーマーケットなど4つの店舗が開業して、近隣の枚方市民の方々のみならず、私たち橋本の住民にとりましても買い物がとても便利になったことは多くの方が感じられていることでしょう。

<消えゆくものを記録に>

 消えゆくものを記録に。そのことを思って、会報80号にて「消えた踏切道を思う」と題して65年間(1952.3~2017.3)にわたって役目を果たしてきた京阪電車の一本の消えた踏切道のことを書かせていただきました。
 この「消えた踏切道・・・」を書くきっかけは、当時会報に残る変化の記録を探しているうちに、会報48号に掲載の先輩会員の石野喜幸さんによる 「かわりゆく橋本を目の前にして」 と題する投稿を読んだことでした。 その中で石野さんは 「過ぎ去った歴史を学び見聞を記録し(略)・・・」 と述べられていたのです。 同時に、橋本南山線の高架道路工事にも触れておられたことに、今思うと私の思いを知っておられたのかな、と思わざるを得ない感じでした。

<消えたものは何か>

 道路の延伸工事が終わり、スーパーマーケットなどが開店すると、この頃より市の担当部署による「橋本駅周辺整備に関する住民説明会」が4回開催されました。2018年11月には 「橋本駅前広場整備計画」が提示され、目に見えて周辺の姿が少しずつですが確実に変わり始めました。駐車場の閉鎖や駐輪場、バス停の移設などはこれまでの風景を確実に変えてゆきました。
 そして、この令和3年(2021)の正月明けに八幡市教育委員会より「橋本陣屋跡発掘調査の実施について」と題しての告知がなされて、開発に伴う橋本公民館前の空き地の実質的な発掘調査がこの年の春から夏にかけて実施されました。◆会報第105号より-04 橋本の町①_f0300125_10144138.jpg発掘調査の進展にそって何回となく見にゆきました。この地は、幕府陣屋の跡(陣屋の縄張り開始が安政5年/1858)のみならず、その後の綿糸工場(八幡紡績株式会社創業が明治22年/1889)や電線工場(津田電線八幡工場操業が大正元年/1912)が稼働していた歴史が眠っている橋本にとって貴重な場所なのですが、コロナ禍の日々のせいでしょうか、心待ちしていました発掘調査現地説明会は残念ながら開催されませんでした。
 
 ◆会報第105号より-04 橋本の町①_f0300125_10182981.jpg先に書きました「消えた踏切道(小金川踏切道)」の橋本駅側の一つ隣の踏切の名前は「津田電線踏切道」ですが、踏切の北東側に前述の津田電線八幡工場がありました。津田電線の工場は現在残っておりませんが、踏切そばの鉄道用鉄柱にはその名が踏切名として残っておりますし、近傍にある「西遊寺焼野霊園」入り口左にある石碑にもその名が残されていることが確認できます。

 さて、消えたものの一つが「橋本遊郭のなごりの館跡」です。明治20年(1887)橋本遊廓が復活して、当時の橋本一帯はより消費都市的性格の町に大きく変わってゆきました。そして、大正11年(1922)に「歌舞練場兼芸娼妓慰安余興場」が建設されました。◆会報第105号より-04 橋本の町①_f0300125_10211495.jpg昭和33年(1958)4月1日に橋本遊郭の廃止を見るまでに、この歌舞練場や昭和31年当時には80軒あったと伝わる貸席からは相当の額が税収に寄与していたであろうことも「橋本遊廓廃止 大幅な税収減」との八幡市誌の記録よりもうかがい知ることができます。津田電線踏切道を渡って西遊寺へと向かう道沿いにあり、見上げるようなその建物はこの夏を最後に橋本の歴史から、そして、この場所での演芸など楽しまれたご経験をお持ちの皆様の思い出から姿を消してしまいました。

 このように、日々変わってゆく橋本の町を見ていると、すこしずつ薄らいでゆく懐かしい風景とともに、生まれ変わる姿にもまた新しい歴史を感じることもできます。まさに本稿を書き終えようとしている時に「都市機能4地区に誘導」との見出しで、八幡市の「立地適正化計画策定」の記事が目に飛び込んできました。これからも更に変わりそうな橋本ですが、時代の変遷とともに消えてゆくものや、移設されて残ったものなどをできる範囲で拾って報告してゆきたいと思います。
(2021.08.20) 一一
  
〔参考資料・情報提供など〕
京阪電車お客さまセンター(踏切道の情報)
京都新聞2021.08.19付、「立地適正化計画策定」の記事 
八幡市誌 第三巻(P199 第3章第三節、および年表、他)
会報38号(2013.5.21刊)、会報48号(2014.3.24刊)、会報49号(2014.4.28刊)、会報50号(2014.5.21刊)、会報80号(2017.7.18刊)



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by y-rekitan | 2021-09-27 09:00
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