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◆会報第104号より-02 楠木正成親子

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《講演会》
楠木正成・正行・正儀まさのりと八幡

2021年4月
八幡市文化センター第3会議室にて

生駒 孝臣 (花園大学 文学部 専任講師)

 4月18日(日)に八幡市文化センターにて、日本中世史研究者の生駒孝臣氏による表題の講演会を開催しました。引き続いて、研究、執筆等で大変ご多忙な中、講演の要旨も作成していただき本会報に掲載できました。会報編集担当一同感謝致します。
 また、数年前から八幡市も加盟している ”「楠公さん」大河ドラマ誘致協議会” により、NHKの大河ドラマで放映を!の運動中であり注目されています。

はじめに

 楠木正成・正行は、現在でもその実像からかけ離れて、後醍醐天皇・南朝の「忠臣」として「賛美」「称揚」される傾向にある。しかし、そうしたイメージは、彼らに関する確かな史料(一次史料)が極端に少ないために、『太平記』や後世の伝承・伝説に基づいて肥大化したものである。
 また、正行の弟の正儀は、『太平記』に父とは違い、兄よりも劣った存在と酷評されている。◆会報第104号より-02 楠木正成親子_f0300125_16334585.jpg一方では、同じ『太平記』でも正儀の動きは正成のそれを彷彿とさせる描写が多く、実際にも南朝の重臣として活躍したという実績がある。近世において、正成・正行が評価されたのに対して、正儀の評価は低かったが、それは正儀が南朝から北朝・室町幕府に降伏したのち、再び南朝に帰参したという事実のせいである。つまり、「忠臣」の正成・正行との対比で正儀は語られてきたというわけである。
 だが、南北朝時代において正儀のような生き方をする武将の方が普通だったのであり、正成・正行も正儀のように長生きしていれば同じ道を歩んだ可能性もある。
 そこで本講演では、一次史料に基づいて楠木正成・正行・正儀の実像を復元した上で通説を再検討し、楠木父子と八幡との関係に目を配りつつ、彼らの歴史的位置と現在の評価を提示したい。

1.楠木氏の出自と正成の実像

 楠木正成は、元弘元年(1331)9月に河内国千早赤坂(大阪府千早赤阪村)で挙兵し、鎌倉幕府滅亡後には建武政権の一員として活躍する。そして、建武3・延元元年(1336)5月 に摂津国湊川で足利尊氏・直義兄弟と戦い敗死する。このように、正成の歴史の表舞台での活躍はわずか五年に過ぎない。
 その実像とイメージについては、後醍醐天皇の「忠臣」、「悪党」(現代で使われる悪者・単なるアウトロー集団のことではなく、荘園領主などに対して反抗的行動を取る集団。利害対立者からのレッテル)、鎌倉幕府の御家人、商人的武士など、多様な側面で語られてきた。それは、正成のわずか五年という活動期間と、生年さえ不明な謎の多い出自とつかめない実態のせいである。
 楠木氏の出生地は、正成の本拠地が河内国金剛山山麓の赤坂(現千早赤阪村)であったことから、同所であることが自明のこととされてきた。しかし、河内及びその一帯に「楠木」「楠」といった名字の地となる地名がないため、正成以前の楠木氏は本当に河内の出身だったかどうかという疑問が出されてきた。
 近年、楠木氏の出生地をめぐっては、駿河国の「楠木村」(静岡県静岡市清水区)が注目されるようになった。正応6年(1293)7月29日、鎌倉幕府が鶴岡八幡宮に寄進した「駿河国入江荘内長崎郷三分一・同荘楠木村」のうち、「長崎郷」が内管領(得宗被官の長)長崎氏の名字の地だと考えられることから、「楠木村」も得宗被官の楠木氏の名字の地であった可能性が浮上したのである。
 楠木氏及び正成が得宗被官だった徴証としては、元亨2年(1322)8月に正成が最後の得宗北条高時の命令により紀伊国の保田荘司を討伐したという「高野春秋編年輯録」の記事がある。つまり、正成は北条高時の命令によって、幕府への反乱者を討伐する、得宗被官だったというわけである。ただし、「高野春秋編年輯録」は江戸時代に作られた史料であり、内容の信憑性については、疑問視する見解もある。
 その一方で、正成と同時代の人間が、正成を次のように認識していたことは、正成の実像を探る上で重要な手がかりとなる。
 正成が河内の千早城に籠城して鎌倉幕府軍を相手に奮戦していた正慶2年(1333)閏2月頃、京都ではなかなか正成を討てずにいる幕府軍を揶揄した次のような歌が誰かによって詠まれた。
  楠の木の根ハかまくらになるものを 枝をきりにと何のほるらん
   (楠木の根は鎌倉に成るものを 枝を切りにと何のぼるらん)
                      (「後光明照院関白記」)
 「楠木の根っこは鎌倉に成っているのに、どうして(鎌倉の連中は)わざわざその枝を切りに(畿内へと)のぼってくるのか」という意味の歌にみえる楠の根とは、正成のルーツが鎌倉にあったということであり、正成が鎌倉幕府に連なる人間だということは、当時広く知られていた事実だったことを示している。
 正成挙兵以前の楠木氏は、永仁3年(1295)頃~元徳3年(1331)頃には、正成の父祖ないしは一族にあたる人物から正成にいたるまで河内国にいたのは確実である。
 したがって、楠木氏は、駿河国「楠木村」出身の鎌倉幕府御家人あるいは得宗被官として、永仁3年頃までに正成の父祖が河内国に移住した。正成は河内(千早赤坂)で誕生して、幕府関係者として活動し、やがて幕府を裏切り挙兵したと考えられるのである。

2.正成と後醍醐天皇

 元弘元年(1331)年9月11日、正成は後醍醐天皇の倒幕運動に呼応して河内国の赤坂城(下赤坂城)で挙兵したが、10月21日に兵粮不足により城を脱出して行方をくらました。
 およそ一年の潜伏後、正慶元・元弘2年(1332)12月初旬に紀伊隅田荘に押し寄せて幕府方の隅田党と合戦に及んだ。その後、赤坂城を幕府軍から奪還して、正慶2・元弘3年(1333)1月から河内・和泉を北上し、摂津の四天王寺(大阪市天王寺区)で六波羅探題の軍勢を撃破すると、5月に至るまで千早城に籠城して、ゲリラ戦術等の奇策により幕府軍に徹底抗戦した。その間、幕府を裏切った御家人の足利高氏(尊氏)は5月7日に六波羅探題を攻略して京都を制圧し、同じく新田義貞は5月22日に鎌倉幕府を落として北条高時以下、1150人を自害に追い込み、ここに鎌倉幕府は滅亡した。それにより、後醍醐天皇は建武の新政(建武政権)を開始することになった。
 建武政権下の正成は、後醍醐天皇から政権中枢のポストに抜擢され、従五位下の官位や摂津・河内・和泉の国司や守護の官職・役職、諸国の所領など、破格の恩賞に与(あずか)ることになった。また、正成は後醍醐天皇内裏(二条富小路殿)近辺に、千種忠顕・名和長年・結城親光ら〝三木一草〟とともに屋敷を構えていた。このことは、正成たちが日常的に後醍醐天皇に奉仕していたことを物語っている。ちなみに、建武元年(1334)9月21日、後醍醐天皇が石清水八幡宮に行幸した際には、足利尊氏らと供奉しており、正成は天皇の親衛隊の位置にいたことが知られる。
 こうした正成らのように天皇に引き立てられた武士たちは、先例を無視した人事による破格の待遇だったため、「武家楠・伯耆守・赤松以下山陽・山陰両道の輩、朝恩に誇る事、傍若無人ともいひつべし」(『梅松論』)と、非難の的となった。
3.正成の最期

 建武政権は、後醍醐天皇の人事のあり方など多くの問題を抱えていたため、次第にほころびがみられるようになった。建武元年(1334)10月、正成とともに倒幕運動に尽力した天皇の皇子護良親王が謀叛の嫌疑により捕縛された(翌年に鎌倉で足利直義に殺害される)。また、建武2年(1335)6月には、公卿の西園寺公宗による後醍醐天皇暗殺計画が発覚し、正成が逮捕した。公宗の天皇暗殺計画は単独犯ではなく、北条泰家・時興(高時の弟)、高時の遺児時行らと共謀したクーデター事件であったことが判明し、7月には北条時行が信濃で挙兵して鎌倉を占拠するという大事件(中先代の乱)に発展した。
 時行の反乱は足利尊氏によって鎮圧されたが、尊氏は天皇の帰京命令に応じず鎌倉に留まったため謀反と認定された。天皇は11月に新田義貞を尊氏の討伐に派遣するも、失敗。建武3年(1336)正月には、尊氏軍が上洛して正成たちと宇治・京都で数度の合戦に及んだ。同年2月、正成は丹波から摂津へ逃げようとする尊氏軍を西宮浜(打出浜)に追撃し、尊氏を討ち取ることが可能であったが、それをせず尊氏たちを九州へ走らせた。
 尊氏が九州へ逃れると、建武3年2月19日、後醍醐天皇は「建武」から「延元」へと元号を改めた。いわば戦勝ムードの中での改元であったが、『梅松論』によると、正成は天皇に新田義貞を討って、九州へと逃れた尊氏との和睦を提案したという。正成は、後醍醐天皇を痛烈に批判していたが、そこには武士からの人望の篤い尊氏を政権に復帰させることこそが建武政権の再建にとって重要だという認識があらわれており、後醍醐天皇に対する冷静な視線を持っていたことを示している。
 同年4月、足利尊氏・直義は、九州の武士を味方に付けて京都を目指した。正成は、後醍醐天皇を比叡山に逃し、からになった京都に敵を入れて、新田義貞と挟撃するという作戦を提案したが(『太平記』第16巻)、これもまた却下された。天皇から尊氏討伐のため兵庫へ下向せよとの命令を受けると、「討ち死にせよとのご命令であれば討ち死にします」と返したと『太平記』の古態本(数ある諸本のうち古い形を残すもの)にみえる。『太平記』古態本と『梅松論』という、性格の異なる二つの史料で、後醍醐天皇に対する批判的な言辞がみえるということは、いずれも正成が実際に言い放った言葉であり、この頃正成が建武政権内部において孤立していたことを周囲も認識していたことをあらわしている。
 5月25日、正成は摂津湊川に新田義貞と布陣して、足利尊氏・直義軍と激戦を繰り広げた。しかし、衆寡敵せず、戦場近くの小屋に火をかけて弟の正季(正氏)と差し違えて、一族28人が自害した。正成を倒した足利尊氏は、6月に京都を制圧し、8月には持明院統の豊仁親王(光明天皇)即位させた。11月に比叡山に逃れていた後醍醐天皇は足利尊氏と和睦して、三種の神器を光明天皇へ譲渡した。しかし、天皇は12月に吉野へと逃れ、譲った神器は偽物であり自身こそが正統であることを主張して、吉野に南朝を樹立した。
 すなわち、正成の死から半年足らずで京都の北朝と吉野の南朝とに分かれた南北朝時代が本格的に始まったのである。

4.楠木正行の登場

 楠木正成の嫡男正行は、『太平記』にみえる湊川合戦に向かう正成との摂津国桜井宿(大阪府島本町)での別れで著名である。だが、『太平記』の「桜井の宿」に該当する施設は発掘調査でも発見されず、正成と京都にいたであろう正行は建武2年(1335)末までには河内へ帰されていたと考えられ、『太平記』のフィクションの可能性が極めて高い。
 正行の年齢について、『太平記』では貞和4・正平3年(1348)正月に四条畷合戦で戦死した時点で23歳または26歳(いずれも数え年)と一定していない。しかし、延元5年(1340)4月に正行が作成した河内国石川郡建水分神社の扁額には、「左衛門少尉正行」という官職と合わせた署名があることから、元服済の年齢なのは間違いない。いずれにしても23~26歳前後の生涯であり、父と同様に歴史上での活躍は短期間だったわけである。
 延元4年(1339)8月、吉野で後醍醐天皇が死去し、後村上天皇が即位すると、楠木正行・和田正武が、2000余騎の兵を率いて御所を警固したと『太平記』にある。先述した延元5年4月8日に正行が奉納した建水分神社の扁額により、この頃から楠木一族の棟梁として南朝に出仕したと考えられる。
 南朝において正行は父と同じく河内国司・守護を務めた。まだ若年の正行が抜擢されたのは、南朝が正成以来の楠木一族による河内国への影響力・支配力を期待したためであろう。河内国司・守護としての日々はのちの挙兵のための足場固めであったと推測され、正行は7年間の雌伏の時を経てついに挙兵する。
 貞和3・正平2年(1347)8月10日、紀伊で挙兵した正行は隅田城に攻め寄せた。ここは父正成が二度目の挙兵をした場所である。その後、8月24日までに河内へと入り、池尻(大阪狭山市)で、9月9日には八尾城、同17日には藤井寺、同19日には教興寺、11月26日には天王寺・住吉合戦で北朝の河内守護細川顕氏軍に連戦連勝した。
 正行の快進撃に焦った幕府は、12月初旬に正行討伐のため高師直・師泰兄弟を河内へと派遣した。南朝は12月12日の時点で11日に幕府軍が出京したとの情報を得ており、幕府軍迎撃の軍勢を渡辺・天王寺まで派遣することを決定した。
 『太平記』第26巻「四条合戦の事」には、高師直の大軍が攻めてくるという報せに接した正行の、12月27日に吉野の後村上天皇を訪れて別れの挨拶をしたり、辞世の句を詠むなど、死を覚悟した行動が描かれる。しかし、正行が高師直との合戦(四条畷合戦)に先立って、死を覚悟したり、後村上天皇に別れを告げたりしたという史実は確認できない。
 これは、『平家物語』が平家の滅亡を必然的なこととして結果からさかのぼって描いたのと同じ物語構成であり、『太平記』作者が正行は戦死するという結果を知っていたことによる物語上の演出に過ぎない。よって『太平記』の描く正行像は、あくまでイメージとして捉える必要があり、実際に四条畷合戦に臨んで死ぬつもりだったかどうかも疑ってかかるべきである。
 そこでヒントとなるのが、楠一族の大塚惟正が四条畷合戦の前に配下の武士に出した書状(「和田文書」)である。そこには、「今度の合戦、いつと申候ながら先途にて候」とあり、高師直との戦いが「先途」、すなわち勝敗、成否あるいは存亡の決する大事と認識されていたことがわかり、正行たち南朝軍が当初から師直の大軍に対して負け戦をするつもりではなかったことが読み取れる。8月以来、幕府軍に連戦連勝で「恐いものなし」だった正行及び南朝の諸将は、高師直・師泰を倒して「決戦」を制する心づもりだったというのが事実に近いのではないだろうか。
 ところが、貞和4・正平3年(1348)正月5日、野崎(大東市)に布陣した高師直軍に対して、正行軍は深野池と飯盛山山麓西部に挟まれた狭い東高野街道を進軍せざるを得ず、師直の本陣を目指して突撃を敢行し、最後は正行、弟の正時、従姉妹の和田賢らと、「河州佐良々北四条」(大東市北条1・2丁目付近)で討死する。
 正行を討った高師直は、そのまま吉野へと軍勢を進めて、南朝の本拠を焼き討ちにして、後村上天皇を賀名生(奈良県五條市)へと追いやる。また、高師泰は、正行たちの本拠地である河内の千早赤坂を中心とする東条へと総攻撃を仕掛け、正行館を焼き払い、翌年の7月まで攻撃を続けた。これは東条に残る楠木残党の掃討を目指したものであり、楠木一族に対する警戒心の裏返しでもある。
 こうして正行の死は、南朝に存続の危機をもたらした。これは正成の死後、後醍醐天皇が吉野へと逃れざるを得なかったのと同じ状況である。それだけ、楠木一族の存在は、南朝にとって重要だったわけである。

5.楠木正儀と南北朝内乱の終結

 楠木正成の三男であり、正行の弟の正儀は、1352年(観応2・正平7)の時点で23歳であったという(『太平記』第31巻)。『太平記』は、正儀のことを「父や兄に似ず、優柔不断な男」と厳しい評価をしているが、実際には四度にわたる京都の奪還や北朝との粘り強い和平交渉など、父・兄以上に南朝を支え続けた重臣といえる存在である。
 南朝における正儀は、正行死後の楠木一族の棟梁として、正平4年(1349)8月以降、父正成以来の職務である河内国司・守護として、また和泉守護・摂津守護として活動した。
 観応2・正平6年(1351)3月に南朝と幕府(足利直義)との間で和睦交渉がはじまると、  正儀はその窓口となった。正儀起用の理由は、彼が南朝守備範囲の最前線にあたる摂津・河内で常に幕府軍と対峙してきたことによるのであろう。この交渉は5月に、南朝の重鎮北畠親房の反対により決裂しており、その際正儀は「将軍が出陣すれば正儀自らが吉野を攻め落とし、南朝を没落させる」(『園太暦』)と怒りをぶちまけたという。せっかく、交渉をうまくまとめようとしていたのに、反対した親房ら南朝首脳陣への不満と本音をあらわしたものとして興味深い。しかし、正儀は南朝を裏切ることなく、南朝の主力として河内・和泉等で幕府軍との合戦を繰り広げた。
 観応2・正平6年(1351)10月、弟の足利直義と対立した尊氏は、直義を追討するため、南朝に降伏を申し出た。それに伴い、南朝は11月に北朝年号(観応)を廃止して正平年号に統一すると、崇光天皇・皇太弟直仁親王を廃位した上、北朝の人事(叙位・任官)を否定した。いわゆる正平の一統である。
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 文和元・正平7年(1352)2月に、後村上天皇は入京すべく賀名生を出発し、閏2月19日に石清水八幡宮に行幸して、そこを行宮とした。天皇に供奉していた正儀ら南朝の軍勢は閏2月20日に京都へ攻め込み、足利義詮(尊氏の子)を近江へと敗走させ、京都を占領した。しかし、義詮は3月に京都を奪還すると、正儀ら南朝軍は八幡へと撤退し、石清水八幡宮に籠城することになった。『太平記』において、正儀は和田正武とともに、包囲する足利軍の後詰めのため、河内へと下されたが結局出撃しなかったために、八幡は陥落したと記される。だが、史実の正儀は和泉方面で幕府軍と交戦していたことが確認できる。いずれにせよ、5月11日に八幡は陥落して、南朝は四条隆資ら多数の犠牲を出して大和へと撤退した。これが第一次京都争奪戦の顛末である。
 その後、康安元・正平16年(1361)12月まで三度に及ぶ京都争奪戦が繰り広げられ、正儀はその都度、南朝軍の主力として京都の奪還に力を尽くした。また、延文4・正平14年(1359)12月~翌年4月には、足利義詮による東条及び南朝本拠への総攻撃が実施されるが、『太平記』第34巻にみえる正儀の姿は、まさに父正成の姿を彷彿とさせる描写である。
 貞治6・正平22年(1367)4月以降、幕府と南朝との間で和睦交渉が再開され、正儀が南朝の責任者となるが、またもやうまく整わなかった。正平23年(1368)3月に後村上天皇が死去すると、南朝では幕府への強硬派である長慶天皇(後村上天皇の皇子)が即位する。これにより、幕府との和平を進めていた正儀は、南朝内部で孤立する。
 応安2・正平24(1369)正月2日、正儀は北朝(幕府)に投降の意思を表明した。幕府側の細川頼之からの勧誘と南朝内部での孤立が最大の要因である。正儀は北朝の河内・和泉守護や摂津国住吉郡領主を任されて、南朝攻撃の総司令官にも任じられた。
 ところが、康暦元年(1379)閏4月、正儀の後ろ盾であった細川頼之が失脚すると、再び南朝へと帰参しており、永徳2年(1382)閏正月24日には、河内国平尾で幕府方の山名氏清と合戦している。帰参した南朝では、弘和2年(1382)の時点で「参議」の官職(公卿の地位)が与えられており、確実な史料では元中3年(1386)4月19日付の古文書を最後にその後の消息は不明となる。正儀が南朝に帰参した時期には畿内の争乱はほぼ沈静化しており、正儀の歴史の表舞台からの退場は南北朝時代の終焉だったともいえるわけである。

おわりに

 楠木正成・正行の死は、南北朝内乱の本格化、激化という事態を生み出した。また、正儀の南朝への帰参は畿内における南北朝内乱の終息と連動していた。このように、楠木三代の動向は、まさに畿内の南北朝内乱の展開と軌を一にしていたと評価できるのである。
 正成・正行は古くから「忠臣」といわれてきたが、正成は後醍醐天皇に対する冷静な視線を持っており、妄信的な後醍醐天皇の臣下ではなかった。また、正行の四条畷合戦に赴く悲壮感は『太平記』のフィクションであり、むしろ「決戦」に臨む若き猛将としての性格を重視するべきである。それに対して父・兄とは「異なる」と『太平記』で評された正儀は、父・兄以上に政治・戦争・外交全てに通じた存在であった。正儀を父・兄と比較して現代的な価値観で評価をすることはもはや無意味であり、正成・正行・正儀の三名は、南北朝時代の一武将として考えるべきである。

『一口感想』より

楠木三代の講演、その複雑な事を含め興味深く拝聴させていただきました。(O・K)
楠木正成一族について、劇的な生き方をされたというフィクションしか知らなかったので、興味深く聴かせていただきました。
はりのあるお声でとても聞きとりやすかったです。ありがとうございました。 (K・M)
分かりやすい、講演有難うございました。
南北朝の時代は、理解が難しい事が多かったのですが、少し分かったようです。後世時代の風潮により、事実がまげられる事が多いのが、よく分かりました。 (S・M)
楠木正成・正行・正儀 八幡と関係があって素晴らしい業績を上げておられることが良くわかりました。学ばせて頂きました。ありがとうございました。 (T・M)
以前、愛知県に住んでいた時、岡崎市内の小学校や庄内緑地公園等に楠木親子像(桜井の別れ)があったが、十分な管理されていなかった。本日のご講演を拝聴して「桜井の別れ」が史実であったか否かが不明なこと、それ以前に楠木父子の評価が正しかったか否かさえ不明であることが理解できた。歴史は様々に解釈できることが非常におもしろい。
 今後も色々な切口のご講演をお願いします。ありがとうございました。 
(T・M)
面白い講演で楽しませていただきましたが、むつかしかったです。(N・K)
畿内武士の立ち位置の特殊性(御家人或は得宗被官であるとともに貴族に仕え、なりわいとして商業・運輸に携わるという)に一例として楠木氏ご説明があり、南朝の接点その後の重用活躍の遠因があったんかとわかり易く理解できました。ありがとうございます。 (B・K)
研究者の方の話は、専門用語が多く歴史にうといものにとっては、むずかしいものです。ですが生駒氏は本当にわかりやすい資料も見やすく楽しくお聞きしました。
南北朝時代の足跡が残る八幡の地で暮らす私にとってはよい勉強になりました。 (F・N)
よかった。
詩吟関係の者ですが、歴史的に違う面から見れて考え方が変わりまいた。正儀は母の策で北朝に移り、楠木氏の血が絶えないようにしたのではないかと、しろうと考えですが?  (N・H)
生駒先生の若々しい講演楽しく聞かせていただき、その内容の多さに感心し、八幡と楠木親子の身近に感じた。 (N・K)
わかるようでわかりにくかった南北朝時代の楠木正成一族がわかってきました。今も大河ドラマ「楠木正成」誘致運動をしている関西のあちこちの地であることも今日の話から見えてきました。有難うございました。(-・-)



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by y-rekitan | 2021-07-28 11:00
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