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◆会報第105号より-01 佐川田昌俊

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心に引き継ぐ風景・・・㊱

佐川田喜六昌俊
【天正七年(1579)~寛永廿年(1643)享年65】

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 佐川田喜六昌俊は松花堂昭乗の友にして、昭乗の没後六日目にあたる寛永十六年(1639)九月二十四日には早くも『松花堂行状』を著した。二人は相当に親しい間柄であったことが伺える。寛永十年七月の「松花堂茶会記」にも永井直清、江月宗玩、竹中重信、佐川田喜六の名がみえる。昌俊は淀藩十万石永井尚政の家老として武人の一面をもつが、連歌宗匠里村昌琢(しょうたく)に関東随一の力量の持ち主と評され、和歌を飛鳥井雅庸(まさつね)に、茶を小堀遠州に、漢学を林羅山に、書は松花堂昭乗に学んだと云われる。
 歌人として佐川田昌俊を著名にした歌に、                    
『吉野山花待つ頃の朝な朝な心にかかる峰のしら雲』
の一首がある。
 江戸時代の随筆『翁草』に見える話に、とある日、将軍徳川家光が側近の永井尚政にみずから白扇に一首を書いて与えた。尚政は邸に帰るとすぐ昌俊を呼んで見せた。昌俊が拝見すると「これは有難い、身に余る幸せ」、「実はこの歌、昌俊が中院通村卿にさしあげた愚詠でござる」と、これを聞いた尚政は深く感じ入った。連歌師宗祇(そうぎ)の高弟である「柴屋軒(さいおくけん)宗長」は一休ゆかりの酬恩庵(一休寺)の地で最期を迎えたいと『宗長手記』に西行法師の「願はくは花の下にて‥‥」の如くその心境を歌に残す。寛永十五年(1638)淀藩を致仕した昌俊も一休縁(ゆかり)の酬恩庵の傍に不二山黙々寺を結び終焉の地とした。
(文と写真 谷村 勉)空白


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by y-rekitan | 2021-09-27 12:00
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