谷村 勉(会員) 「天理大学附属天理図書館」に細川藤孝自筆の連歌巻子本(かんすぼん)の名品が残されている。この連歌巻には、細川藤孝や里村紹巴をはじめとする里村一門の人々、一大茶人津田宗及が参加する豪華な連歌会に橋本等安が同座し8句を詠んでいる。 連歌巻子本集二の「解題」(尾崎千佳)を中心に以下要約した。 天正九年(1581)三月十六日、細川藤孝主催の連歌会が行なわれた。場所は洛中の里村紹巴邸と云われる。参会者は里村紹巴(14句)、細川藤孝(14句)、里村昌𠮟(しょうしつ)(13句)、芦中心前(13句)、歓喜光寺の文閑(10句)、津田宗及(11句)、橋本等安(8句)、則益(9句)、景韻(7句)、金阿(1句)等、天正期の紹巴連歌の連衆(れんじゅ)が集っている。紹巴は当時五十七歳、藤孝は四十八歳であった。 初折表の下絵には、紹巴発句「霞(かすみ)つゝ有明にあきの夜はもかな」、藤孝脇「かへるかりなく遠のしら雲」、昌𠮟第三「浦波もひとつにみねの花さきて」の句に応じて、雲間の満月、帰雁、桜花、遠山の端、水辺の景が金銀泥で描かれる。 なお、巻末後補紙には古筆了佐極札(きわめふだ)を貼付、「細川殿玄旨法印(黒印「琴山」)」とある。 勝龍寺城主の細川藤孝は天正八年(1580)八月、信長より丹後国の領知を命ぜられ、宮津に急遽城を築いて本拠とし、先に亀山に築城していた明智光秀と協力して、丹後国支配を進める。天正九年(1581)三月五日、信長は丹後一国検地の実施を求め、国人・寺社から申告された知行高に従って本領を安堵したうえで、検地の結果出た余分については、裁量に従って軍役等を賦課するよう、藤孝に命じた。本百韻の張行(ちょうぎょう)はその約十日後の事である。 「津田宗及茶湯日記」によれば、上記の百韻張行の約一カ月後、四月十二日に 藤孝は、明智光秀父子三人、紹巴、宗及、宗二、道是を宮津に招いている。招かれた人たちは、藤孝嫡男忠興の茶事・振舞を受けるが、武家儀礼にかなった五膳に引物二色を付した七ノ膳が出され、それは豪華なものであったようだ。一行は飾り船で久世(くせ)戸(ど)(橋立南端、文殊勧請の地)へ見物に行き、天橋立文殊堂にて振舞をうけた後、光秀、藤孝、紹巴は連歌に興じている。 発句 「うふ(植)るてふ 松は千年の さなえ(早苗)え哉 光秀」 ※ うふるてふ=植えたばかりの 脇句 「夏山うつす 水のみなかみ(水上) 藤孝」 第三 「夕立ちの あとさりけなき 月みえて 紹巴」 橋本等安の『高好連歌帳』に天正十四年(1586)の年紀の次に、 「越前北庄ニ知人有しを、尋行、不思逗留せしかば、 旅宿の徒然に相綴侍しを、玄旨、紹巴へ合点ヲ望畢」と記している。 越前に知人を尋ねるが、思わぬ長逗留となってしまったので、独吟百韻を詠んで、玄旨(げんし・藤孝)、紹巴の二人に合点を依頼した。玄旨・紹巴二人の合点・添削の入った返書(独吟百韻巻子本)は橋本家文書として残っている。 橋本等安は里村紹巴の門人として、当時第一級の教養人である連歌界の重鎮二人の指導を受けていた事が分かり、天正九年(1581)三月時点の藤孝主催の「賦何人連歌百韻」にも紹巴一門の連衆として参加していた。 なお、細川藤孝は天正十年(1582)六月の本能寺の変後、剃髪し、家督を忠興(三斎)に譲り、幽斎・玄旨と名乗る。 主な参考資料 ・『連歌巻子本集二』八木書店(天理大学附属天理図書館蔵) 解題 尾崎千佳 ・『評註津田宗及茶湯日記』松山米太郎評註 津田宗及茶湯日記刊行後援会 ・『高好連歌帳』橋本家文書
by y-rekitan
| 2021-05-23 10:00
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