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◆会報第93号より-02 好嶋荘

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《講演会》
忘れられた荘園
-石清水八幡宮領陸奥国好嶋庄-

2019年8月
八幡市文化センター第3会議室にて

鍛代 敏雄 (東北福祉大学教育学部教授)
    (石清水八幡宮研究所主任研究員)

 今夏も、猛暑、台風、大雨と例年と相変わらずの天候でした。皆様にもご自愛頂いているものとお喜びしております。
 さて、恒例となっております鍛代敏雄教授による当会夏の例会「講演と交流のつどい」を、表題演目の元、令和元年8月24日(土)午後2時より、八幡市文化センター3にて開催させていただきました。
 鍛代先生には、毎年の石清水八幡宮での夏の曝涼行事のお忙しい中で、最新の研究成果をダイナミックに、我々にご教示いただいています。今回も驚きと「目から鱗」の連続でありました。先生に御無理をお願いして、当会報の発行に間に合うように講演要旨のご報告もいただきました。なお、当日の参加者は26名でした。

 今回、石清水八幡宮領陸奥国岩城郡好嶋庄(よしまのしょう)(福島県いわき市)について、論題を「忘れられた荘園」とした理由は、第一に現在の石清水八幡宮にまったく史料がのこっていない点、第二に『国史大辞典』(吉川弘文館)の「石清水八幡宮領」(竹内理三氏執筆)の荘園一覧表には掲載されなかった点から、ほとんど注意されてこなかったからです。
◆会報第93号より-02 好嶋荘_f0300125_09542621.jpg しかし、昭和10年(1935)に石清水八幡宮社務所が発行した『石清水八幡宮史』(第5輯、165頁)には、東京大学史料編纂所架蔵影写本「飯野(いいの)八幡社古文書」6点(直接関連する史料は5点)が収載され、同14年の同書首巻には善法寺坊領(これは誤認。正しくは社務領)として「陸奥国 好嶋庄」と見えます(92頁)。したがって、陸奥国内における「石清水八幡宮領」の存在は、戦前すでに確認されていたことになります。

 もっとも、その後、石清水八幡宮寺と好嶋庄との関係について、本格的に論証されることはありませんでした。好嶋庄関連の史料は「飯野八幡宮文書」および「飯野家文書」の中の飯野文書に収載されています。自治体史では、『福島県史』第7巻資料編2古代・中世資料(福島県編集・発行、1966年)や『いわき市史』(第8巻原始・古代・中世資料、1988年)が史料を蒐集しています。また、玉山成元氏校訂・解題『飯野八幡宮文書』(史料纂集〔古文書編〕、続群書類従完成会、1983年)によって、文書群として一括公開されています。さらに近年では、飯野文庫から発行された『定本 飯野家文書 中世編』(CD-ROM版、2002年)が発行され、新史料をあらたに加えて、活用の便宜がはかられました。
 しかしながら、石清水荘園の史料調査や研究の立ち遅れもあって、これらの史料紹介の成果を得ながらも、石清水にかかわる基本的な文書名などを含め、誤った歴史情報に関しいまだ修正されていないのが現状です。
       
 本報告では、石清水関連の古文書を読み直しながら、石清水八幡宮寺の検校職について改めて見直し、好嶋庄と石清水八幡宮寺領の特質について、私見を提示しました。
 飯野文書の史料にもとづいた当日の論証の過程は割愛しますので、レジュメを再読していただければ幸いです。ここでは先行の基盤研究を踏まえた上で、新たに究明できた諸点を中心に、本報告のまとめを掲示しておきたいと思います。
 飯野文書において、石清水八幡宮寺に関する史料は12点、関連する参考史料は2点あります。石清水側からの発給文書は、鎌倉末期の石清水八幡宮検校の壇朝清、善法寺通清の年貢請取状、南北朝期の平等王院曩清宛ての光厳上皇院宣案(検校の転任を通知するために案文が送付されていた)、雑掌光智申状、社務検校竹朗清代朝円年貢請取状などが確かめられます(当日のレジュメ【表Ⅰ】参照)。
 これまで、好嶋庄(西方)が鎌倉幕府の関東御領(将軍直轄地)かつ石清水八幡宮領ついで、室町幕府将軍家の御料所となった点は指摘されてきましたが、石清水八幡宮寺の社務検校が直接、預所の伊賀氏に年貢請取状を発給し、検校職が祈祷料所(将軍家の祈祷)として直務支配し、それが鎌倉から南北朝期、史料上は25年余の間続いた点は、再発見の新しい歴史情報として重要です。また、石清水検校は社務と称され、本宮と護国寺の宮寺を統括する最高の職階でしたが、とくに祭祀の裁量権を掌握し、祭祀料や祈祷料の所領および別宮からの年貢に関する収取権を支配し、なお、宮寺内における下行(祈祷・祭祀奉
仕者への謝金)の権限をもっていた点が明らかになりました。
 いっぽう、好嶋庄の成立については、鎌倉の鶴岡八幡宮寺の創建とひとしく千葉常胤の影響が大きかったといえます。石清水八幡宮寺の分霊を勧請し、好嶋庄の八幡宮を創建、自らは預所職になり、関東御領に組み込んだ可能性があります。
 荘園としては、鎌倉幕府(実朝将軍期)と後鳥羽上皇との公武融和政策を背景にして、好嶋庄の八幡宮を石清水八幡宮の別宮(末社)とし、将軍家の祈祷料所としました。石清水八幡宮寺を本家と仰ぎ、石清水検校職(社務代官・雑掌の存在が確認できます)に、史料上、鎌倉末期から南北朝期においては、確実に年貢が上納されていました。したがって、鎌倉末期の欠史時代はありますが、先行研究が説くように南北朝期に突然、再興されたとの指摘は妥当ではありません。
◆会報第93号より-02 好嶋荘_f0300125_10004506.jpg 鎌倉幕府の関東御領から室町幕府将軍家の御料所への転換、および石清水社務職による年貢所務の裁量権に鑑みますと、預所職の安定をはかった伊賀氏によって好嶋庄は将軍家御祈祷料所として再寄進され、石清水八幡宮寺を本宮(本社)に、好嶋庄の八幡宮を別宮(末社)とし、好嶋庄の本所として石清水八幡宮寺を奉戴したことは明白です。
 地域史の推移としては、その後、預所職を喪失した伊賀氏が「社家別当」「神主」の飯野氏を称するようになり、好嶋庄の飯野八幡宮は石清水八幡宮寺の別宮(末社)の立場から離れます。京都に本所をあおぐ荘園としての機能が消滅したことを意味します。14世紀後半、石清水八幡宮寺を本所(将軍家御祈祷料所)とする旧来の枠組みは、鎌倉府の東国統治、地頭国人の地域支配が深化することで解体されました。とくに観応の擾乱期を分水嶺として、石清水八幡宮寺と飯野八幡宮との本末関係(本宮と別宮)は史料の上でも、実質的にも断絶したと見なされます。
 今回、あらためて石清水八幡宮の地方荘園について考えてみましたが、400箇所を超える荘園や70数か所の別宮についての本格的な研究の必要性を痛感いたしました。石清水八幡宮を主とした課題であるとともに、中央政界(公武(こうぶ)政権)と地域社会がダイナミックに連動しながら進運する日本の全体史を理解するためにも、重要なテーマになるものと確信いたしました。                
(2019年8月26日 鍛代敏雄記)一一
 
『一口感想』より

中世期における武家・公家・社寺・国人等の複雑な相互関係と、八幡宮ゆかりの荘園  を通してご説明があり、興味深く聞かせて頂きました。(B・K)
石清水八幡宮について理解するということで参加させて頂いて、平安から江戸にかけての長い歴史の中の荘園や、別遇の意味がほんの少しわかった気がいたします。記紀鳴れない言葉が沢山でしたが、歴史の中の経済・年貢のしくみが巧みに作られていたということですね。楽しく聞かせて頂き、ありがとうございました。(F・M)
石清水八幡宮の荘園が今回具体的に東北の果てにまで確認できたことを教えて頂きました。証拠(古文書)が存在していたにも関わらず、誤解されていたことを見事に解き明かして頂いたことに驚きを禁じ得ません。さらに、社務検校とその権力の大きさ、更には公家・武家とのつながり等々、興味の尽きないお話でした。ありがとうございました。(A・T)
講演の案内チラシは難しい内容で心配しましたが、講演をお聞きしてよく解りました。鎌倉~室町時代の石清水八幡宮の遠く陸奥の荘園までにも至る経済活動には驚きました。ありがとうございました。(T・M)
毎年この季節に石清水八幡宮に係わる新しい知見馬増えることは楽しみです。来年も期待いたしております。(N・H)
陸奥国好嶋庄の荘園の成立と消滅の間に石清水八幡宮が深く関わって、我々がよく知る鎌倉幕府や、室町幕府の将軍や武将の固有名詞が頻繁に出てきた。朝廷より発給された官符から検校補任状による石清水八幡宮検校への荘園年貢収取権の仕組みが明らかになるなど、中世独特のダイナミックな歴史の変遷には改めて興味を持ってしまった。失礼ながら「忘れられた荘園・・・」のタイトルから地味な講演かと思って足を運んだら、とんでもない。八幡の歴史の奥深さを再発見する次第となり、文句なしに刮目すべき素晴らしい講演内容であった。次回も今から大いに楽しみ。(T・T)
石清水八幡宮の荘園が陸奥国にあるということ自体驚きでしたが、飯野八幡宮に残っている文書が石清水八幡宮検校の出した文書であること、なぜそういう文書を出したのかもわかりやすく話してくださり、楽しかったです。当時の荘園の仕組みもわかり、知識が増えた感じです。ありがとうございました。(H・H)




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by y-rekitan | 2019-09-22 11:00
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