淀屋の歴史を原点から学ぶ ―淀屋と八幡との関わり― 八幡市文化センターにて
10月8日午後2時より八幡市文化センター第3会議室において表題の会員研究発表がありました。「豪商淀屋」はどのような家であったか、豪商ぶりやその末路など淀屋研究会により解明された成果を中心に講演があり、八幡との関わりについても詳細に話されました。研究発表会の参加者は40名でした。 倉吉の大蓮寺境内に淀屋清兵衛と彫った供養塔があり、地元では長年清兵衛と名のる牧田家と大坂淀屋清兵衛との関係が取り沙汰されていて、地元の招きで倉吉を訪れていた大阪市立大の横山三郎先生が大蓮寺の牧田家の墓や位牌、戒名などを調査され同一人物と鑑定され、昭和54年(1979)6月5日の地方紙と全国紙の地方版に載る。それにより大阪大の宮本又次先生と作道洋太郎先生たちが調べられていた淀屋橋家(前期淀屋)との関連が分かった。新山通江さんが淀屋に関する本を昭和56年(1981)から平成15※淀屋の出自 岡本撫山(淀屋分家大豆葉町家7代当主)が明治時代に書いた『波華人物誌』によると「初代常安は今の宇治市岡本の庄司の子として生まれ、槙島の戦いで織田信長に追われ鳥羽に逃げ、鳥羽の小林忠房の娘と結婚、大和へ逃れる。豊臣になり大坂に出て材木商を営む」とある。 ※淀屋の系図 初代を常安として常安の長男言当の系統が淀屋橋家。5代広当の時、闕所で130年の歴史を閉じた・・墓は谷町筋大仙寺と5代広当は八幡の神應寺。 ※闕所…全財産没収。 常安の長女きいの系統が「常安町家」そこから各々分家して「大川町家」「斎藤町家」「大豆葉町家」と別れていく。 現在残っているのが大豆葉家のみ。他の分家は、常安町家は元禄になる7~8年前に絶家。大川町家19世紀初頭に、斎藤町家18世紀中ごろに絶家となる。墓は谷町線夕陽ヶ丘「珊瑚寺」。 ✤淀屋の系図とは 淀屋は、初代を常安として、その長女きいの系統に分家の常安町家、大川町家、斉藤町家、大豆葉町家があり。 淀屋橋家は、常安の長男の个庵言当の系統でいわゆる淀屋と言えば、この淀屋橋家を指している。 ![]() 淀 屋 橋 家 ◎土木工事で秀吉の恩顧を得る ![]() ※秀吉は指月城を造るとき巨椋池と宇治川を分離させ伏見に宇治川が流れるようにした。現在、中書島、向島、上島など島のついている所は巨椋池の上に浮かんでいた島といわれる。 ![]() ※『元正間記』作者不明 元禄、宝永、正徳の約30年弱のことが記された本※2代から5代までを淀屋三郎衛門、淀屋辰五郎を名乗る ○三大市場を設立(天下の台所) ✤松花堂昭乗のサロン仲間とは殆ど交友関係を持つ。 ✤細川忠利との交流 東京大学史料編纂所『細川家文書』の中の『細川忠利文書』には忠利が淀屋言当に送った書状が10通収められている。 糸杉谷不動尊の下の〈ひきめの滝〉から居宅の庭に水を伏樋して水を引き入れ、 手水鉢で噴水を楽しんだり、石を置き、その石が水の勢いでドンドンと鳴る音を楽しんだりした。砧(きぬた)をたたく音に似ていたことから「砧の手水鉢」と呼ばれた。現在は松花堂庭園へ移設。居宅前の横町は〈ドンド横町〉辻は〈ドンドの辻子〉と呼ばれている。手水鉢が設置されたころ、淀屋屋敷で里村昌琢、松花堂昭乗、小堀遠州たちが集まり連歌の会が開かれた。その一部が『男山考古録』の「ドンドの辻子」の項目に一部載っている。 『山かせをかけ樋になかす木葉かな』…松花堂昭乗(発句)『水鳥馴む池このむ庭』…言当(脇句)残念ながらこの二句のみ。連歌は100句とかもっと沢山続けて詠まれるが最後は七七で終わり、最後の七七を揚句という。揚句の語源は連歌、連句から来ている。 『男山考古録』を八幡宮に寄贈。昭和22年(1947)2月八幡宮社務所火災の為灰燼に。しかし辻村豊夫、山本久兵衛の写本のおかげで現在に続く。 米市に来る人の便宜のため土佐堀川に自費で架橋…淀屋が架けた橋、淀屋の橋、淀屋橋と現在もその名が残る。 円福寺は天明3年(1773)建立。(大阪染料商の山田市治郎の寄付で昭和7年(1932)4月10日落成。一位堂の天井を円福寺茶室の天井とした。一位堂の天井は淀屋の船の天井だったと伝えた。) ポルトガル人が中国産生糸を独占購入、独占販売、高い生糸を購入していた為、幕府は慶長9年(1604)京都、堺、長崎の糸割賦商人に生糸の一括購入と価格決定をさせる。 大坂は遅れること28年、寛永9年’1632)以後。大坂の糸割賦商人淀屋言当他4人。 寛永11年(1634)京都の帰りに大坂城へ。三郷の惣年寄り21人が来坂をもてなしたためか家光より大坂の地子銀(じしぎん)が永久に免除。当時の三郷の地子銀(固定資産税)179貫目(銀1貫目=100万円として)今のお金で1億7千9百万円。そのお金で時を知らせる鐘を造った。 松平伊豆守より名字の申し出があったが淀屋言当は固辞。家光より公儀橋12橋を申し渡される。天神橋、天満橋、京橋、難波橋、高麗橋、日本橋、鴫野橋、本町橋、備前島橋、農人橋、長堀橋、野田橋 寛永11年(1634)淀屋言当は永井尚政から木津川付け替え工事を命じられる…寛永14年(1637)~寛永15年(1638)。その一角に土地拝領。55年後、元禄6年(1693)領主になっていた石川憲之に召し上げられ、竹生島から勧請した弁財天が祀られた。 2代言当の弟「道雲(五郎右衛門)」の長男で、言当の娘・富士「妙恵」の婿養子。慶安元年(1648年)7月死去。享年43歳。 21歳の時〈町の政治に参加〉、大川町年寄との記録がある。 米津出羽守田盛の姫(日円)と結婚。重当27歳、日円14歳。(桑山左近養女) 佐田天神宮拝殿(守口市)および井筒。妙心寺の玉鳳院の唐門。妙心寺の一切経を収める輪蔵及び経蔵、東大寺二月堂梵鐘、福島天満宮改修、八幡神應寺の扁額及び莫大な金子の寄進。 西国大名に銀1億貫目、将軍家へ80万両、公卿へ13万両の記録あり。 【銀1貫目‥100万円、1両‥6万~10万円、(年代によって金の含有量が違う為値段が変わる)】 ・元禄3年(1690)八幡の下村甚兵衛の土地を購入した関係でそのまま下村を名のった。(石清水では朱印状などが譲渡されたとき取得した家では宛所の名を変えて可)夏座敷はビードロの天井、障子を造り金魚を泳がした。 ★淀屋の闕所について ○闕所の理由 ※謀書、謀判とはどのようなことか?『元正間記』 小津清左衛門以外にも色々の人が書いている。闕所品目を書いた文書は44種類あるが正式文書は見つかっていない。 闕所品目44種類以外に今までの通説と違って、近年見つかった須田家文書がある。 その中に横浜の原三渓が持っている三渓園の臨春閣がある。須田家文書では「元は春日出新田にあった淀屋の下屋敷であった。屋敷の構造や襖絵欄間の内容(絵画やその作者)が三渓園にある臨春閣と一致している。」何故須田家にこのような文書が有るかは不明であるがこの場所は江戸時代水運の要所で東北や西日本からの荷が着き、江戸への中継場所であった。 ○闕所にまつわる処分 『元正間記』によると下村个庵として隠棲後、奈良の知り合いに吾妻としばらくいて八幡から、江戸へ赴く。宝永6年(1709)から正徳6年(1716)まで7年間米津出羽守政容の長屋に隠棲。隆光の主宰する蹴鞠興業にも何度も招かれたと護寺院日記に記されている。東照宮100年忌の恩赦で追放の罪が許され、八幡の山林300石が返還。1年後八幡に帰る。 享保2年(1717)12月21日 墓を造って死亡?吾妻は享保5年(1720)死亡? 辰五郎が描いたと思われる自画自賛画が見つかる。(三朝温泉・南苑寺に於いて) 五百の父は辰五郎、母は遊離から身請けした吾妻で両親が亡くなった後、婿養子を貰う。名前を下村佐中と改名。佐中は無類の放蕩者で財産を枯渇するので、意見をすると離縁状の無いまま出奔し別れた。その後剣術指南の大野左門が来て五百の家を稽古場として借り、何時しか夫婦同然となった。噂を知った佐中は手下を連れて夜中に忍び込み2人を殺してしまう。役所に訴えたが離縁状の無いことから妻の不義の敵討ちで済まされた。 下村佐中妻、法名「一法如電信女」元文2年(1737)丁巳十月九日(没)。 因みに『翁草』では元文2年正月。岡本撫山の『難波人物誌』元文元年(1736)4月とある。 幕府の命で銀100貫目(今の1億円)を用いて津村御堂で宝暦4年(1755)8月に法要の記録あり。 ★石清水八幡宮と神応寺及び淀屋の関係 ※乗円の墓は泰勝寺に、師の松花堂昭乗と昭乗の師匠の実乗とともに3人で祀られている。 ※泰勝寺の寺名は熊本細川候の菩提寺の名前を貰う。(細川候は明治に神道に宗旨替えをして廃寺になっていた) ![]() ※「正法眼蔵」・・「嗣書」(16切)と「諸法実相」(12切)の巻で構成され合わせれば26切れが存在。 (参考)『元正間記』4代重当はそろばんを持たずお金のことは無頓着、雨天でも長い衣装を着流して泥の中を引きずって歩き、汚い着物で座敷に上がる始末であった。 (このことは子どもを次々と失い妻は2人とも亡くし自暴自棄になっていた。神應寺の色々な寄進も全て母の妙恵の采配と思われる。) (太西坊の覚運では?と新山先生の本にはあるが覚運は大石内蔵助の弟の專貞の後を受けて僧侶になり未だ20才前後であった。覚運は内蔵助の従兄弟で内蔵助の猶子…墓は善法律寺) ①淀屋が神應寺の大旦那であること ②19世廓翁鉤然が常法幢地という最も高い寺格を得るため努力している折に淀屋は表には出ていないが伽藍整備や資金援助をしていると思われる。 ※常法幢地(じょうほうどうち)・・・一定期間幡を立て雲水を集めて修行参禅する道場 (廓翁鉤然は宝永5年(1708)59歳で示寂。高槻霊松寺で荼毘。(霊松寺は神應寺13世の九天翔鶴和尚が開山) ![]() 2代言当翁が買った土地壌渡證文を仙甫がその土地の證文売却。佐田天神宮での連歌の会に出席。 右膳の死亡年は享保4年。5代辰五郎は享保2年。お寺を寄付する息子が親子にしてはおかしい。 右膳は4代重当の子供で祖母の妙恵が神應寺の廓翁鉤然に預け僧侶になっていたのでは? 尚、華厳寺(八幡大谷廃寺)は珪州伊璠和尚のために右膳が寄進したものであり、珪州伊璠和尚は神應寺21世の住持でいつ華厳寺に移ったのかは不明。
一 口 感 想
by y-rekitan
| 2021-11-23 11:00
| 講演会・発表会
|
メニュー
検索
タグ
石清水八幡宮
神社[石清水以外]
石碑と由来
遺跡・古墳
八幡の寺院
墓地と墓石
松花堂昭乗
わが心の風景
橋本地区
八幡宮道
古道
古典詩歌
木津川
五輪塔
八幡宮の神人
三宅安兵衛
大谷川散策
豪商淀屋
八幡の自然
女郎花
東高野街道
エジソン
吉井勇
八幡八景
山崎橋
柏村直條
お亀の方
淀川
歴史Q&A
御幸道
地蔵菩薩
伊佐家
御園神社
神仏習合
八幡の祭り
松尾芭蕉
昭和の八幡
物語の生まれ
南山城
流れ橋
昔話と伝承
高良神社
八幡文学碑
四條隆資卿
二宮忠八
鳥羽伏見の戦い
地誌
横穴古墳
川の旅日記
一枚の写真
記事ランキング
著作権についてのお願い
|
ファン申請 |
||