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◆会報第107号より-02 中世の石清水文書

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《講演会》
鎌倉時代の未刊史料「當宮縁事抄とうぐうえんじしょう
― 中世文書のアーカイブズ学 ―

2021年11月
八幡市文化センター第3会議室にて

鍛代 敏雄 (東北福祉大学教育学部教授)
    (石清水八幡宮研究所主任研究員)
 恒例の鍛代先生による講演会はコロナ禍で今年も昨年同様に日程を延期して、11月21日に八幡市文化センターで開催しました。今年は中世文書のアーカイブとして石清水八幡宮文書に収蔵されている「鎌倉時代の未刊史料」を易しく解りやすく講演をしていただきました。また、石清水八幡宮祠官家と東北の伊達家のご縁についての説明がありました。
 なお、会報掲載用の本講演要旨は鍛代先生に作成していただきました。

 はじめに、最近考えている歴史学の陥穽(かんせい・落とし穴)についてお話します。東北大学出身、伊達氏研究者の著名な先生方は、9世政宗(独眼竜政宗は17世)の妻・蘭庭明玉(らんていめいぎょく)(1356~1442)は、善法寺(入江)通清(1341年没)と智泉聖通のあいだに生まれた、と主張されます。◆会報第107号より-02 中世の石清水文書_f0300125_14115474.jpgしかし、『石清水八幡宮史』首巻「祠官家系図」(善法寺)で確かめれば一目瞭然、生没年から親子関係の矛盾は明白です。伊達藩の正史『伊達正統世次考』を無批判に信用したことによります。
 今回、紹介する「當宮縁事抄出」(国指定重要文化財「田中家文書」の内)の未刊史料も、その陥穽の一つだと思われます。石清水文書に関する史料集は、『大日本古文書』をはじめ少なくありませんから、ほぼ活字化されたものと信じられています。けれども、研究所の調査にかかわっていますと、しばしば未刊の新発見文書に遭遇します。本史料も、謄写本ですが、他に正文(原本)・写本のない文書があり、根本史料の一つといえるでしょう。
 ついで、話題の導入、通清とのつながりから、父・尚清(後嵯峨天皇後胤ヵ)宛て後宇多上皇の院宣写(レジュメ【古文書一覧表】55号)を紹介した。これも未刊史料です。関連の活字史料としては、①永仁5年(1297)の通清宛ての尚通処分状(『菊大路家文書』45号)と、②応長元年(1311)の康清(通清弟、新善法寺家の祖)宛ての尚通処分状(同102号)があります。上の55号は、①と②の間にはいります。内容に「坊領」「返付」「領承」とあり、尚通が通清に相続した善法寺坊領の返還を後宇多院から保証されたことが知られます。②には通清を「不孝之仁」と見えますから、これは父尚清の悔返(くいかえし)〔還〕に違いありません。相続権を没収し返却させた。それを院に認めてもらっていたわけです。①と②は知られていましたが、55号で史実が補強され、院政と石清水八幡宮別当家との密着した関係性がわかります。また、①②に見えない所領「因幡国野坂東西郷」は新発見になります(『新鳥取県史』古代・中世1は東大史料編纂所影写本から採録ヵ)。
 さて、次に本史料「當宮縁事抄」の書誌学上の意義についてお話しました。
 本史料は文書筥に入っています。筥蓋(縦45.8㎝、横17.5㎝)、身(左右の縁の高2.0㎝)、内側(深さ1.5㎝)。天地は破損しています。表書「応永謄寫八幡宮古文書 /係応永三季/暦紙背/ 玩古堂珎襲」と墨書されています。「玩古堂」は「玩古洞」ともいわれ、浮世絵商の元禄堂・吉田金兵衛(通称吉金)の甥・竹田泰次郎(1886~1937)が東京下谷の黒門町で営んだ、同じく浮世絵版画骨董商。竹田玩古洞(堂)のことです。
 本史料の形態は、横帳形式の冊子本。法量は縦15.0㎝、横43.2㎝、墨付40枚(表紙別、文化庁文化財保護部美術工芸課『石清水八幡宮文書追加目録』1999年3月)です。「當宮縁事抄」の題箋があり、史料名となっています。奥書には「此本者対馬(秀)守(行)殿借給了 応永九年十一月書写畢 重寶也」とあります。
 本史料の料紙は、楮紙で、具注暦の紙背を利用されています。「明徳」および「口口(徳)二二年十一月一日」の暦跋(前年の年号と撰進日付)、「応永三年暦」「正月小一日」と見えますから、明徳5年(1394)から応永3年(1396)の具注暦の料紙(楮紙、虫損有)を反古とし横切紙に加工して古文書を謄写したことがわかります。なお、料紙の中央部に折り目の山が縦に入っており、紙背側に折られた痕跡があるので、元の形態は、中央部で折って袋綴じされた小型の冊子本だったといえます。
 相伝について調べますと、本史料のもととなった原本については、先の奥書のとおり、原本を所有していた「対馬守殿」=「秀行」が問題となります。受領名の「殿」書からみて、俗人の惣奉行をはじめ宮寺奉行(諸担当奉行)・御馬所・巡検勾当などに任じられた宮侍の俗官(神人や所司などを出自とする)と推定されます。彼らの多くは、境内の検断権を行使する、社務検校職や別当職の祠官家(田中家や善法寺家など)の被官でした。その他、俗官の候補は、俗別当・神主などを勤めた禰宜神主職などが想定できますが、ただし、四位・五位相当の位階はもちますが、受領名の例は管見したことがありません。
 次に、応永9年(1402)に本史料・謄写本を作成した人物は誰か。具注暦に朱筆が散見されている点に注目してみましょう。そこには「さいけしき(歳下食)」「けしきむま(下食午)の時」(陰陽道の歳下食や下食時の禁忌)と書かれており、仏神事を奉仕する役職、すなわち所司(社僧や神人を統括する公文所の寄人、宮寺の事務・祭祀を掌る執行や年行事などを輪番で勤仕した御殿司・入寺など)の坊人(護国寺や極楽寺の供僧衆、坊舎・坊名・法名は不明)の具注暦であったかも知れません。さらに、上記にあげた神主禰宜職の任にあった人物の可能性もあります。それを反古とし、対馬守秀行から原本を借りて謄写本を制作し、「重寶」として所持し相伝されたものです。
 近世の保存・管理については、元裏表紙見返に「召清」との朱印が捺されていますので、東竹召清の所蔵本であったことは間違いありません。召清は、寛永12年(1635)12月28日、11歳で得度。善法寺幸清(寛永2年<1625>10月27日任検校)の息子ですが、田中敬清(寛永9年<1632>8月12日任検校社務)の養子となって田中家を相続しました。その後、寛文元年(1661)家督を要清(敬清と善法寺舜清女子の子、召清の養子、延宝3年<1675>10月5日任検校、同11月3日任社務職、延宝7年8月15日、霊元天皇の代に放生会を再興)に譲与して、田中一門の東竹を再興し、東竹召清と称しました。現在、石清水八幡宮には「東竹家文書」の一群が所蔵されています。寛文年中を中心に、東竹は多くの「田中家文書」の写本(冊子・巻子)を作成しています。石清水八幡宮所蔵「東竹殿記録」(『続石清水八幡宮史料叢書一 田中家文書目録(一)219頁所収「杉」5-22未刊)には「當宮縁事抄惣目録 召清新撰」と書かれており、鎌倉時代の「宮寺縁事抄」に範を模したところの古文書の編集作業を実施した点は明らかです。諸本と同時期には、本史料が召清の手元にあったことに疑いありませんが、「田中家文書」などには謄写本を確認できませんので、別のルートで入手したものでしょうか。東竹家は近世に絶家しましたから、その後、史料は流出してしまったようです。他の写本類を見ると、別当・田中家の役人奉行を任務としていた森本家が所有していた東竹関係史料があり、その多くは森本家に預けられたようです。
 近代の流転は、ズバリ、檜垣貞吉の手元に本史料がありました。彼は、嘉永元年(1848)生まれ、大正9年(1920)没。三重県士族、神宮禰宜を勤仕、従四位に叙。退官後、大神宮史編纂の嘱託、神宮司庁が編纂した最初の神宮概説書『神宮大綱』(1912年発行)の編集監督などをおこなっています。貞吉は古文書の蒐集家、稀覯本を臨模していました。
 ◆会報第107号より-02 中世の石清水文書_f0300125_20232958.jpg現在、神宮文庫には貞吉が作成した写本と、東京大学史料編纂所の影写本がのこっています。その後、本史料はすでに触れたとおり、竹田泰次郎(昭和12年<1937>没)の骨董商店「玩古堂」にありました。貞吉没後でしょうか。ではいつ、石清水に帰還したのか。社務所発行『石清水八幡宮史』(昭和10年7月25日印刷)第5輯(87頁)の亀山上皇院宣案(本史料33号)や同書(110頁)の後宇多上皇院宣案(同18号)の史料出典は「檜垣貞吉氏蔵 史料編纂所写本」となっています。とすれば、刊行時期の後に本史料「當宮縁事抄」が社内にもどったことになりますが、詳しい点はわかりません。
 本史料に収載された古文書の写しは、83通です。上限は、保元2年(1157)10月6日付け大宰府宛て太政官符写(『大日本古文書』田中2-612号・案文)、下限は応永19年(1412)5月10日付け足利義持御判御教書写(本史料83号、田中1-148号・案文)です。ただし、重複文書と、奥書以降に作成が挿入した文書を除くと、78通が原本の写本となります。上限は同じですが、下限は暦応2年(1339)3月10日付け光厳上皇院宣写(71号)ですから、謄写元の原本の成立は南北朝期となります。そのうち、37通が未刊となります。
 文書の様式は、太政官符・官宣旨・綸旨・院宣(41通)・宣旨・御教書などで、宛所は善法寺尚通が約25%と多く、田中宛ても少なくありませんが、下限文書の宛名を善法寺(家田)朝清とみれば、善法寺家につらなる人物が原本の写本を作成して所持していたのかもしれません。
 文書の内容は、社務検校宛ての場合(本社祭祀関連)と、別当・権別当・修理別当など宛ての場合(仏事読経・座次臈次関係)とが注視されますが、文書の宛所や年次の順序も区々ですから、原本以前の謄写段階における文書群は統一的に整理されたものであったとはいえません。なお、祠官を検校職や別当職に任命した太政官符や口宣案は謄写されておらず、祠官の職能上の権限行使に関する院宣案や綸旨案が主です。
 本史料「當宮縁事抄」および原本(本史料制作の段階において、本史料を謄写した元となる史料のこと)の状態、筆写の目的、文書選択の理由、本史料の相伝の経緯、保存や管理状態、現在の「石清水八幡宮文書」の正本や写本・案文との関連性など、これらの諸点から総合的に調査し解析することによって、新たな研究の地平を展望できるものと考えます。「アーカイブ」(Archive)は、主に行政上の公文書であるとともに、その記録情報資源を保存公開するための公文書館システムのことでもあります。また「アーカイブズ学」は、「記録史料学」(archive science)であると定義されます。歴史的に官・公・私が混在する前近代文書については、<広義のアーカイブ>と見なすことができます。ここでいう中世文書のアーカイブズ学は、古文書学・文化財学・博物館学などの学際的な協働研究に基づき、史料と文献を融合したところの調査・保存・修理・管理・公開・教育・学習のための総合の学、すなわち、「古文書保存管理学」と考えています。研究史料の上でも、文化財としても、その史・資料的な価値を見直し、その特質を再発見することができると確信しています。

 *文書の詳細については、拙稿「石清水八幡宮所蔵「當宮縁事抄」の解説と影印」(『東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館年報』12号、2021年、リポジトリ有)を参照されたい。なお報告当日、通番70号の年号「寛元4ヵ」、71号の文書名「光厳上皇院宣写」、宛所「家田明清ヵ」と訂正した。

一 口 感 想

アーカイブ古文書から検証された史実はロマンが広がり説得力があり有意義であった。
・その中で善法寺尚清と通清の相続に関する話は生々しい一面を物語っていることや善法寺家と将軍、田中家と朝廷も聞いて実に興味深かった。 (O・T)
古文書というのは古くてあまり意味がないもの、とっつき難いものと決めていまいしたが、今回ご講演にあった史料のように、その時代の様子を活き活きと察することができる貴重な史料であることが分かった。尚清と通清・康清の相続などは、現代にも通じて非常に興味深かった。また、14番の文書で参加者の念仏が禁止されていたことなど、全く知らない事ばかりで大変勉強になった。素晴らしいお話しを聞かせて下さり、ありがとうございました。 (T・M)
今後37通の未刊史料が解読され研究が進むことによって、新たな史実の発見につながる可能性が大いにあると期待しています。大変勉強になりました。 (N・T)
歴史を正しく理解するには、国指定重要文化財以外にも多くの史・資料の記述をくまなく調べることが重要であることが良く理解できました。 (H・N)
善法寺と室町将軍家との関係が解り、良かった。(F・T)
「當宮縁事抄」は東竹家より森本家に保存され石清水八幡宮に受け継がれた貴重なアーカイブであること認識致しました。内容については歴史の表、裏を示すものである書誌ですが莫大なものですね。鍛代先生の益々のご活躍を祈念致します。 (Y・H)



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by y-rekitan | 2022-01-24 11:00
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