人気ブログランキング | 話題のタグを見る

◆会報第108号より-02 やわた道 その1

◆会報第108号より-02 やわた道 その1_f0300125_23262477.jpg
《会員研究発表》
郷土史家、「やわた道」歩けば棒にあたるらし?

2022年2月 松花堂美術館講習室にて

谷村 勉 (会員)
 2月11日午後2時より八幡市立松花堂美術館講習室において表題の会員研究発表がありました。古来の「石清水八幡宮参詣道」を何度も歩かれ探究され、歩くたび、幾世代にも重なる悠久の歴史が宝物の様に輝いて見えるときがある状況を「いろはかるた」にたとえたユニークな演題での研究発表でした。
 研究発表会の参加者は23名で、講演の概要は発表者の谷村氏が纏められた。
                        (会報編集担当) 

 郷土史を研究する者は、八幡の道を橋本から男山東麓の道など古来石清水八幡宮参詣道として発展してきた「八幡宮道」の四方を何度も歩きます。
 また、人生の節目や季節の歳事には幾度となく男山の御本宮を往復する日常生活を繰り返して来ました。歩くたびに幾世代にも重なる悠久の歴史が宝物のように輝いて見える時があります。はたして「いろはかるた」のように歩けば災難の棒が飛んでくるのか、あるいは幸運の棒が見えてくるのか、皆さんと一緒にその周辺を尋ねて行きたいと思います。

八幡五水

 ◆会報第108号より-02 やわた道 その1_f0300125_09424269.jpg 正確な八幡五水の存在は判らない。享保十年 (1725)発行の『石清水尋源鈔』によると、「石清水、山の半腹に在り」、「藤井、高良の社の下に在」、「筒井、下院の北に在」、「赤井、西山赤井原に在」、「白井、今其所詳らかならず」と記載されている。面白いのは五水の一つに白井とあるが、当時から白井が何処にあるのか分らなかったようだ。赤井の傍には「閼伽井」と書かれた石碑が建っていた。石碑の存在は以前から知っていたので周辺を何度も探索したが、ついに発見できず、狩尾社周辺の無謀とも思える宅地開発によって「赤井」の本体と共になくなってしまった。

石清水について

 八幡宮が遷座する以前から石清水の存在は知られており、行教自身が貞観五年に書いた護国寺略記に、「可移座之處、石清水男山之峯也」云々とあり、石清水の名を男山に冠している。水源は御本宮東御門の邊より護国寺の南を流れ、今の石清水社のある所を過ぎて瀧本坊の南に落ち、駒返し橋より猪鼻坂を平谷町の方へ流れ出て、放生川に注ぎ入る。なお、泉殿は元和四年(1618)に修造。
 泉殿の装飾の鳳凰(祠)は聖天子が治める平和な世にのみ姿を現わすとされ、麒麟は聖人が出現する前兆として現れるれる瑞獣が表現されている。鳥居は寛永十三年丙子八月将軍家(家光)御祈祷の為に板倉重宗が寄進、昭乗が揮毫する。

往生礼讃道標

 数ある「八幡道標」の中で最高傑作といわれる「往生礼讃道標」は、圧倒的な存在感を放っています。場所は下奈良隅田の「井関墓地」の入口で、川口の南方面から1号線に抜ける途中にあります。
◆会報第108号より-02 やわた道 その1_f0300125_10251522.jpg
 嘉永四年(1851)建立の道標正面には卓越した技量を持つ石工による「阿弥陀三尊来迎図」の陽刻が鮮やかに残り、その下部に法然上人と、師である善導大師が描かれています。右面には「願共諸衆生 往生安楽国」(願わくば、衆生と共に、安楽国(極楽浄土)に往生せん)とあります。善導大師の『往生礼讃』の中に繰り返し出てくる言葉です。三尊像は寺院や美術館で拝観、鑑賞することはありますが、道標に彫られた阿弥陀三尊像を見るのは初めてで、郷土史を研究する人々には文化財の豊富な八幡の底力を感じる瞬間です。        
 左面上部は「南無阿弥陀仏」、その下部に「右 うじ・左 よど 道」とあります。八幡は浄土宗が盛んな地で、江戸時代には浄土宗の寺院は九十六カ寺を数え、その内の三十六カ寺が御朱印寺で徳川家康から領知朱印状を給っています。墓地の西側男山方向には「獅子塚跡」の三宅安兵衛遺志碑が田畑の畦道に立っています。    
 なお「往生礼讃道標」は岡山大学名誉教授馬場俊介氏の学術情報データベース「近世以前の土木・産業遺産」の中で京都府下の道標では唯一Aランクに登録されました(歴探会報92号2019.07.24)。

相撲力士道標

 八幡市内里北ノ口に「俗名 若狭野政吉」(文化三丙寅(1806)九月晦日/世話人中)と名前の入った道標がある。名前の左右に「右 なら道」「左 よど京道」の道案内がある。一見すればこれが墓石(供養塔)であることはすぐ理解できるが、しかし後方には墓地があって、なぜかこの墓石のみ道路に面して建てられているのか? 考えてみれば、道標であれば奥の墓地内に在っては、道標の役目が果たせないことに気付く。道標の調査を始めた頃には判らなかったが、後日、「力士墓道標」と云われる「供養塔あるいは顕彰碑」の道標が多いことを知った。若狭野政吉とは四股名で恐らく上鳥羽方面に本拠を置く相撲取りであろう。
 『京都・滋賀の相撲/竹森 章』によると、「上鳥羽搭ノ森上河原の墓地」に「若狭野政吉」(文久二戌年三月建之・1862)の同名の四股名を刻む立派な力士墓があり、それとは別に「頭取若狹野碑」(明治廿八年七月五日建之)の存在も示されている。いずれも時代的に同一人物ではない。綴喜郡井手町「玉津岡神社」上の鳥居右横の絵馬殿に「相撲奉納額」や多くの「奉納板番付」が残っているが、その中に勧進元「若狭野三四郎」(文化十四年・1817)の四股名の板版付が懸かっている。又、井手町多賀「高神社」にも板番付や軍配が残る。村相撲が盛んな鳥羽、井手の往還中「若狭野政吉」は内里にて客死したものかも知れない。

枚方市上島町の「八幡大菩薩」道標

 牧野の船橋川堤にある八幡宮道標は「八幡宮」と大文字で書かれ、その下には「参詣道・橋本へ一里」とある。◆会報第108号より-02 やわた道 その1_f0300125_10454197.jpg上部にはご本尊「八幡大菩薩像」が彫られた唯一の道標で、江戸時代まで石清水八幡宮が「神仏習合」の神社であったことを伝え、また、楠葉、牧野地域は古来八幡宮の文化圏で、八幡宮を支えてきた地域であったことも伺える。
 この「八幡大菩薩道標」の隣に七名の名前が刻まれた道標が見える。「右 山城 志水」とあり八幡宮参詣道である「八幡志水大道(しみずおおみち)」を案内している。八幡住民が現在も「志水」と呼ぶ所です。船橋川周辺一帯がまだ葦の林に覆われていた昔、多くの人が「志水」へ買い物に通った。この道標、実は村相撲の力士達の供養塔です。七名の名前はすべて四股名であり、楠葉の「七ツ松山」に本拠を置く「七ツ松部屋」の力士達で、「鳥羽伏見の戦い」で幕府軍に力仕事で奉仕・世話をした力士達の供養塔と考えられ、この近辺で官軍の猛攻に巻き込まれたものと思われる。建立は「七ツ松門弟中」とあり、幕府軍の兵士ではないことが分かる。七ツ松の「力士墓道標」は他にも数点が今も残っている。

七ツ松の力士道標

 「七ツ松部屋」とは江戸時代、八幡金振郷と楠葉面取の境界辺にあった「七ツ松山」の名を取って、面取地域に本拠を置いた「相撲部屋」であった。
 「七ツ松山」は現時点で特定し難いが、江戸時代の「東海道分間延絵図」に「極楽寺」と「七ツ松山」の文字が見える。明治45年の大日本帝国陸地測量部発行の地図には面取は極楽寺付近とされている。(詳細は別項にて説明します)

東西南北の道標

 八幡の東西南北には江戸時代からの八幡道標があった。
東:淀際目町の「八まん宮ミち」道標 旦所青林院の「八幡宮道」道標
西:橋本中ノ町の「八まん宮道」道標 橋本北ノ町の「八まん宮山道」道標
南:八角堂の「すく八幡宮道」道標 大石塔横の「左八幡宮道」道標
北:旧常盤道の「是より八幡宮碑」は保護課により廃棄されてしまった。 
「石清水八幡宮鳥居通御幸道(みゆきみち)」道標

狩尾社とがのおしゃ

 祭神:天照大御神(国常立命・異本末社記)、大己貴命、天児屋根命
◆会報第108号より-02 やわた道 その1_f0300125_11045512.jpg
 創立年代不詳、八幡宮遷座以前の社で、当山の地主神社という。明治10年に八幡宮摂社となる。男山西尾崎狩尾山に坐り、閼伽井(五水)在所より凡一町餘り西なり。今在は慶長年間の御造営の儘にて、猶寛永十九年に修理を加へ給へりし也。…常は橋本郷氏の氏神の如くに成て、落合橋本両氏の社士の預り祭る所近例也、…又毎年正月初旬に当社の西に的を掛て、落合橋本の士弓箭始の式を行ひ、古く正五九月連歌奉納奉楽等の事あり、…(男山考古録)
『日本書紀』…国常立尊(クニノトコタチノミコト)国土の守護神ですが『日本書紀』と『古事記』では登場の仕方が少し違います。『日本書紀』では一番最初に現れた神様として登場します。そのため一部の神道では、国之常立神は根源神として崇められているのです。
 名前の表記も『日本書紀』と『古事記』とでは少し違います。『古事記』…国之常立神(クニノトコタチノカミ)『古事記』では、神世七代(かみのよななよ)において最初に生まれた神様として登場します。神世七代は別天津神(ことあまつかみ)の次に登場する七代の神様たちの総称です。『古事記』では別天津神の次に登場したのが国之常立神です。  
  『日本書紀』…国常立尊  『古事記』…国之常立神
 呼び方は少し違いますが、名前に込められた意味は共通しています。国之常立神の名前の中の「国=国土」、「常=永久」を表しており、永久に国土が立ち続け、不変的であるように、という意味がある。   
大国主命〔大己貴命(おおなむちのみこと)〕
 名義は大いなる国主の意で,天津神(あまつかみ)(高天原の神々)の主神たる天照大神(あまてらすおおみかみ)に対して国津神(くにつかみ)(土着の神々)の頭領たる位置をあらわす。大国主には、なお大己貴命(おおなむちのみこと)、葦原醜男(あしはらのしこお),八千矛神(やちほこのかみ),顕国玉神(うつしくにたまのかみ)などの別名がある。これはこの神が多くの神格の集成・統合として成った事情にもとづいており,そこからオオクニヌシ神話はかなり多様な要素を含むものとなっている。
天児屋根命
 日本神話で、天照大神が天の岩屋に隠れたとき、祝詞(のりと)を奏した神。
天孫降臨に従った五伴緒神(いつとものおのかみ)の一。中臣氏・藤原氏の祖神。
〇比売御神(ひめみかみ)=天児屋命(あめのこやねのみこと)の妻の天美津玉照比売命
福岡の狩尾神社(かりおじんじゃ)(福岡県遠賀郡芦屋町大字山鹿865)
 祭神:大己貴命・国常立命・天児屋根命・天手力雄命。『五十一代平城天皇の大同元年(806)藤原不比等の子孫筑紫下向の際、都で霊験あらたかと評判の狩(とがの)尾(お)神社の御分霊を拝受、響灘に突出た景勝の岬を狩尾岬と命名し神社を建立。山鹿地域一帯の総社産土神として領主の崇敬も篤かった。「昨秋、狩尾岬の名に引かれて若しやと芦屋の港町を訪ねた。狩尾神社の存在を知り、波多野正敏宮司邸を訪問。藤原不比等を祖とし、下向以来二十七代も続いて宮司をされている。更に貝原楽軒自筆の「狩尾大明神縁起」を拝見。「そのかみ未だ石清水八幡宮の勧請なかりし時にかの石清水の地主神、狩尾神社を此所に勧請して斎祭り奉る」と明記されてるのを謹読した時の感動、言葉に表せない…‥。』
(「ふるさと」1997年(平成9年)11月発行/島田 稔氏)
天手力男命(アマノタヂカラオノミコト) 『日本大百科全書』守屋俊彦
 天岩戸(あめのいわと)神話のなかに出てくる神。須佐之男命(すさのおのみこと)の乱暴を恐れた天照大神(あまてらすおおみかみ)は、天岩戸にこもってしまった。困った神々は、天岩戸から出てもらうために神事を行い、また天鈿女(あめのうずめの)命(みこと)が特異な踊りをしたところ、神々が爆笑した。天照大神が不思議に思い、天岩戸を細めに開いたとき、この神が手をとって引き出した(『古事記』)。文字どおり手の力の強い神の意であろうが、この話のなかでつくられた神のようにも思われる。しかし、天孫降臨神話のところに、佐那那県(さなながた)に鎮座されるとあり、伊勢(いせ)国(三重県)多気(たけ)郡に佐那神社があるところからすると、伊勢地方の地方神かもしれない。

橋本の八幡宮道に象を見に行く『柏亭日記』(柏村直條)より

 江戸時代、8代将軍徳川吉宗の時にベトナムから日本に象がやってきました。大変珍しい象の一行は江戸に到着するまで、どこでも大人気で沢山の見物人であったと記録に残っています。長崎に着いた象の一行はその後大坂に到着し、京都に向けて京街道(東海道)を進みました。享保十四年(1729)4月25日枚方宿を出て、伏見宿に向かいますが、休憩地の淀宿に至る途中、八幡を通過します。
八幡宮の神人柏村直條(なおえだ)(八幡八景選定者)が残した『柏亭日記』の中に橋本の象見物の記事があります。
◆会報第108号より-02 やわた道 その1_f0300125_11244181.jpg
「四月廿五日晴」 〇妻女孫共橋本へ象ヲ見物ニ罷ル 妻女孫達は森町の家から科手道を経て橋本に入ったと思われますが、象が通過した八幡の京街道は現在、橋本東部から美豆の間が木津川と宇治川の川底になって分断されています。
 5月に入ると中御門天皇が詠んだ歌も八幡に伝わってきたようです。
  「五月五日曇、晴」   象   御製
  時しあれハ 人の国なる けたものを けふ九重に みるかうれしき
 錦市場の青物商の長男に生まれた伊藤若冲も13歳の頃、都でこの象に出会ったと伝わっており、長じて象を巧みに描いた作品を残しました。

里村昌純しょうじゅん(柏村さなの夫)

 連歌師。里村南家。慶安二年(1649)~享保七年(1722)七十四歳。昌勃・安々庵・嘏(か)斎。昌程の子。昌築の父。寛文五年(1665)から享保四年(1719)まで、五十年以上にわたり柳営連歌に出仕、延宝八年(1680)から第三として勤務し続けた。『老の周諄(くりごと)』(1704年成)は「思い出づるは昔なりけり」の前句に百句の付句を試みて注を施したもので、付句の規範を示した書である。連歌再興に尽力し、享保四年退隠した。式目注釈『拾蛍抄』、編著『里村家連集』などがある。
 なお、柏村直條(連歌師・八幡八景選者)の妹真(さな)が昌純に嫁ぎ、昌築を生む(柏村家系譜)。 (里村南家)里村昌休→昌𠮟→昌琢→昌程→昌純→昌築
柏村直條関係者:霊元院(牡丹の献上)、有栖川宮幸仁(ゆきひと)親王(和歌集成の依頼)、里村南家(八幡八景連歌発句を依頼(昌陸))

山崎橋の造立

 橋本から楠葉を抜ける高野道が存在します。神亀二年(725)行基によって山崎橋が造立されるが、7 世紀後半に奈良元興寺の道昭が架橋した位置に掛けたものであったと云います。江戸時代の絵図から山崎橋が現橋本奥ノ町にあった橋本寺辺りに架橋されていたと推定されますが、何度も淀川に流され凡そ200年間程で無くなったようです。天正二十年(文禄元年・1592)秀吉によって山崎橋は再び掛けられるもその存続期間は短かったようです。石清水八幡宮全図の橋本の部分に橋本寺旧跡と書かれたところがあります。
 これは豊臣秀吉の御連衆の一人であった「橋本等安」によって建立された寺で、秀吉の「湯だくさん茶くれん寺」の故事で有名な「常徳寺」も江戸時代前期にはこの辺りにあったことが判ります。記録には文化十年(1813)西遊寺の隣の「常徳寺」が焼失とあり、寺が移動したことが判りますが、その場所には今も「常徳寺」の石碑が残っています。
 古くから大坂との行き来には淀川の水運が利用され、人や物資が大量に運ばれましたが、港としての機能を持った「橋本の津」は大いに賑わったようです。橋本で舟を降りた八幡宮詣りの人々は「八幡宮道」(京街道)を通り狩尾社を経由して石清水八幡宮を目指しました。

高野道

◆会報第108号より-02 やわた道 その1_f0300125_11574570.jpg 石清水八幡宮のご遷座(貞観元年・859)以前から淀川にかかる山崎橋(神亀二年(725))を渡り、橋本から南方向にポッコリ膨らんだ交野山を目印に進む高野道があった。橋本から楠葉中ノ芝、野田大師堂付近から細い畦道が続き、かすかに古道の雰囲気を残す道を、楠葉朝日町の「やわた・はし本道標」、「七ツ松石碑」、「だるま堂道標」を見て、少し南に行くと八幡金振方面に向かう「八幡道」に合流する。この八幡道をやや西方向から招提元町に入れば、整然とした招堤の屋敷街を通り抜け、招堤南町の「日置天神社」に到る。日置天神社由緒に「中世におけるこの付近は、高野街道筋に発達した集落として賑わい、社寺が甍を競ったという。しかし、南北朝の動乱に際し、たびたび戦禍に見舞われ、民家・堂塔ともに灰燼に帰したと伝えられる」とあって、古くは高野街道筋として繁栄した集落だった。出屋敷や津田の集落も日置天神社から穂谷川を越えると眼と鼻の先となる。
 弘法大師空海が高野山への道をとったという古い街道のことを高野街道と云うなら、八幡宮遷座以前から高野山を目指すこのルートこそ弘法大師空海が歩いた道だろう。

御幸道みゆきみち常磐道ときわみち

 ◆会報第108号より-02 やわた道 その1_f0300125_12043397.jpg木津川の付け替え工事(明治元年12月)以前、主に京の都から京街道を通って八幡に入る南北の道には常磐道と御幸道(みゆきみち)がありました。現在、御幸橋の南詰から一の鳥居までの御幸道は大部分が残り、御幸橋南詰の一角に「石清水八幡宮鳥居通御幸道(みゆきみち)」の道標も残っていますが、御幸橋付け替え工事により現在八幡宮頓宮内に保管されています。
 この道標は300年前の江戸時代、正徳三年(1713)に八幡宮検校新善法寺行清によって建立されたものです。しかし幹線道路であった常磐道は木津川付替え工事によって大部分がなくなりました。
 八幡宮一の鳥居手前を右へやや細い道を行くと神應寺の山門に至ります。八幡宮を勧請した行教が創建した由緒ある寺院です。山門を通り過ぎたところに巨大五輪塔が見え、五輪塔の真向い八幡宮頓宮の西出入口手前に「左 八幡宮道」と彫られた全長 280cm、正面幅 24 ㎝、横幅 24 ㎝の立派な道標が横たわっています。裏面には「是より北荷馬口付のもの乗へからず」と彫られています。京都市内に今も残る「是より洛中碑」と云われる石碑と同じ意味のもので、いわば「是より八幡宮碑」とでもいえましょう。「是より洛中碑」とは洛中へ入る際には、馬の背に乗らず馬の手綱を引いて 歩いて入る事、という意味です。京都町奉行より享保二年(1717)洛中の入口 30 カ所に石碑が建てられたもので、現在も12本残っているとの報告があります。「左 八幡宮道」の道標も恐らく同時代のものと思われます。

神応寺

 貞観元年(859)、奈良大安寺の僧行教が宇佐より八幡神を山城の男山に勧請し、その翌年の貞観二年に八幡宮社殿造営に伴い、神応寺も創建されたと伝える。
 ◆会報第108号より-02 やわた道 その1_f0300125_13104776.jpg応神天皇の位牌所として、始め応神寺と称したが、天皇のいみなを憚って神応寺に改めたと伝える。神応寺二十一世珪州伊璠が著した「神応寺記」によると、あるとき神光が杉の梢上に現れ、天皇が神に応じて、行教もまたそれに応じた。故に神応寺と名付けたという。神応寺十二世弓箴善僵(きゅうしんぜんきょう)は秀吉の正室北政所が深く帰依した禅僧で秀吉も同郷朋友の誼であった。秀吉の朝鮮出兵に際し八幡宮に参詣し神官に従軍を求めたが応ずるものがなく、秀吉の怒りをかったが、弓箴善僵は神功皇后の三韓征伐にあやかるのであれば、応神天皇を祀る神応寺への参詣を進言した。住職の饗応に満足した秀吉は寺領二百石を寄進したという(神応寺文化財調査報告書要約)。
 「和漢三才図会」(正徳二年・1712脱稿)には「豊臣秀吉公、朝鮮征伐の時、首途(かどで)の為に八幡宮に詣でて、当寺(神応寺)に入衛あり、寺領を賜う」とある。入衛とあるので秀吉は饗応の後、宿泊したと思われる。

泰勝寺

 松花堂昭乗の墓は男山の山麓の当所にひっそりと風雨にさらされていた。大正七年(1918)、禅の江湖道場・円福寺の住職で妙心寺の管長もされた神月徹宗老師が発願され、松花堂保存会を結成、当寺を建立された。九州熊本にあった細川公の菩提寺、泰勝寺の寺号を移転して、瀧本坊を改め泰勝寺とした。現在、本堂正面の方丈の額は九州より寺額と共に移されたもので、南宋随一の能筆とされている無準師範(佛鑑禅師)の真筆である。
 現在、臨済宗妙心寺派に属している(泰勝寺案内書)松花堂昭乗の墓所として知られる泰勝寺には、昭乗とその師実乗、弟子の萩坊乗圓が並んでそれぞれ一石五輪塔に祀られている。実乗の先師で瀧本坊繁栄の基礎を築いた乗祐の一石五輪塔は祠の横にある一群のお墓と共に祀られている。『権律師乗祐 天正十九年二月廿二日』とある。千利休とも親交のあった乗祐は利休自刃の六日前に没している。
 松花堂保存会の結成にあたっては益田鈍翁など多くの経済人や茶人が参加して泰勝寺において盛んに茶会が催された。

「泰勝寺茶室・閑雲軒について」◆会報第108号より-02 やわた道 その1_f0300125_13180176.jpg 大正11年(1922)木津聿斎(いっさい)により瀧本坊の古図を元に泰勝寺茶室・閑雲軒(四畳台目)が竣工した。その披露茶会を益田鈍翁が催している。当時、木津聿斎は茶室の設計者として広くその名が知れ渡っていたが、武者小路千家の家元預かりを引き継ぎ、十二代家元愈好斎の後見人になるなど、愈好斎を色んな側面から支えた人物でもあった。

善法律寺

 鎌倉時代の正嘉年間(1257~1259)に、石清水八幡宮の法務寺院として、八幡宮第27代検校善法寺宮清が自分の邸宅を僧房として喜捨、奈良東大寺より実相上人を招いて開山した。善法寺宮清の孫である通清の娘・良子が二代室町将軍足利義詮に嫁ぎ、三代将軍義満を生んだ。その為、義満をはじめ歴代将軍が何度も参詣している。善法律寺は奈良唐招提寺末の律宗である(善法律寺パンフレット)。◆会報第108号より-02 やわた道 その1_f0300125_13215491.jpg 現在のご本尊は「八幡大菩薩像」で神仏分離令により八幡宮から善法律寺に安置されたもの。昨今、もみじ寺として紅葉を愛でる人の訪問が多い。本堂では八幡大菩薩像をはじめ、愛染明王像、不動明王像、十一面観音像、宝冠阿弥陀如来像など優れた仏像群が迎えてくれる。中でも阿弥陀堂脇仏の地蔵菩薩像に大変興味を持った。左手に錫杖を持ち、右手は垂れ下して袈裟をたぐり持つめずらしい像容である。左手に錫杖は珍しく、他に1体(石仏)見たのみである。それぞれの造形や像容は八幡の仏像史上、極めて貴重な仏像群と云われる。

正法寺とお亀の方

 志水家の「お亀」は文禄三年(1594)、徳川家康の側室となり、近世の八幡を切り開く大きな足跡を残しました。関ケ原合戦の直前、慶長五年(1600)五月、徳川家康は石清水八幡宮を中心とする八幡郷に361通の「領知朱印状」を発給し、徳川政権構想に取込みました。◆会報第108号より-02 やわた道 その1_f0300125_13293095.jpg関ケ原の合戦(9月)で徳川方が勝利した直後の十二月には、豊臣政権になって10年間中断していた「安居神事のまつり」が復活し、「安居の頭役」を志水忠宗(後に尾張藩国家老)が担って、武運長久と天下泰平を祈願しています。
 後に徳川御三家筆頭になる尾張藩祖義直の母となった「お亀の方」は、家康から朱印地500石を給わる寺格に相応しい正法寺の伽藍整備に取り掛かった。現在の本堂、唐門、大方丈や書院、鐘楼などを寄進し、お亀の方(相応院)自身の菩提寺とした。これらの伽藍は寛永六年(1629)頃完成している。     
 正法寺の門前を走る男山東麓の「八幡宮道」はまさに寺社の参詣道として発展してきた歴史的経緯がある。この道は古くから現在まで八幡住民には「志水道」と呼称されて、「正法寺」、「志水道」の地理関係など、すぐ頭に思い浮かぶ。

この記事はさらに続きます⇒⇒



by y-rekitan | 2022-03-28 11:00
<< ◆会報第108号より-01 石仏龕 ◆会報第108号より-02 や... >>