七ツ松部屋の力士墓道標 108号


シリーズ「墓石をたどる」・・・⑫
七ツ松部屋の力士墓道標について

谷村 勉  (会員)


 「八幡宮道」の道標調査では実に100基以上の八幡道標を確認したが、その過程で「力士墓道標」とでも云うべき道標が相次いで見つかった。「力士墓道標」といっても墓石があり供養塔あり顕彰碑ありと、形態は様々である。力士墓の存在は既に中ノ山墓地などで数件を確認していたが、道標として意識することは全くなかった。
 「七ツ松部屋」とは江戸時代、八幡金振郷と楠葉面取の境界辺にあった「七ツ松山」の名を取って、面取地域に本拠を置いた「相撲部屋」であったと思われる。「七ツ松山」は現時点で特定し難いが、江戸時代の「東海道分間延絵図」に「極楽寺」と「七ツ松山」の文字が見える。明治45年の陸軍測量部発行の地図には面取は極楽寺付近とされている。七ツ松部屋の力士墓道標 108号_f0300125_12015634.jpg また昭和29年頃の枚方市の面取付近を含む部分図に、面取の四つ辻南側に極楽寺が記載されており、「東海道分間延絵図」の「極楽寺」の位置については明確になった。楠葉朝日一丁目の「楠葉朝日・美咲自治会集会所」横の旧極楽寺跡に「七ツ松の墓石」がある。墓石の側面には森本利八とあり、それが七ツ松の本名と見ている。「極楽寺跡」には現在も石仏の集団が集会所周辺一帯に残っている。

八幡街道の楠葉面取・極楽寺跡

 八幡街道のほぼ中央に位置する「面取」と、その周辺地域の位置関係を明治45年の大日本帝国陸地測量部発行の地図を参照すると、八幡街道は左下の牧野・養父・船橋から右上の八幡(男山泉)までの道で表すことになるが、もう一つの楠葉・橋本から右下の円福寺までの道も道標をたどると重要な道であったことが分かってくる。
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浅尾山茂兵衛力士墓道標(歴探発行冊子№56)の側面に刻された銘文には、右 たるまとう(だるまどう)/左 八はた/道 とある。現在この墓石の立つ場所(船橋・養父共同墓地)は面取の八幡街道からは少し離れているが、案内の方向から考えると、この墓石が八幡街道の交差点である面取の四ツ辻に立ち、通行人に道案内していたことが判る。そして同じ墓地内には道標機能を持たないが、「七ツ松」部屋の相撲力士(勇崎文蔵)の墓石が存在する。
 改めて「面取」の四ツ辻付近(現在では楠葉朝日一丁目17-1 朝日美咲自治会集会所付近)の標石をみると、角柱型の道標が2基(歴探発行冊子№54・56)、
舟形光背地蔵道標1基、のほかに大きな相撲力士の墓石「七ツ松[利八]」の1基が立っている。面取の四ツ辻では「七ツ松部屋」の関係する墓石が2基あったことになり、すぐ近くの船橋・養父共同墓地のもう1基(力士名 勇崎文蔵)を加えると3基もあったことになる。

1.七ツ松利八の力士墓

七ツ松部屋の力士墓道標 108号_f0300125_13152576.jpg 楠葉朝日1丁目の「楠葉朝日美咲自治会集会所横の旧極楽寺境内に「七ツ松利八の墓石」(写真)が立っている。明治廿三年建立とあり、比較的新しい。台石には世話人・消防方・門弟中とある。手前の「だるま堂」とある道標は八幡の円福寺を指す。現枚方市牧野黄金野の旧京街道から分岐し、牧野片埜神社・養父・船橋を経由して石清水八幡宮や円福寺に向かう「八幡街道」に繋がっている。枚方市との合併前の旧牧野村の道に「大正3年改修」と彫られた「八幡街道」の道標も眠っている。

「八幡街道」の道標
 大阪と京都を結ぶ枚方市黄金野の旧京街道沿いの工事現場で「八幡街道」と刻まれた道標が見つかった。大正時代、八幡方面への近道が整備された際に立てられ、枚方市教委文化財課は旅人の石清水八幡宮への道案内も務めていた、としている。昭和35年頃から始まった宅地開発でアスファルトの下に捨てられた。
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 当時、同志社大嘱託講師だった中村武生氏は「高度成長期は、日本史の中でも特に遺跡や文化財を粗末に扱った時代。開発の波の中で、歴史的価値のある建物が随分破壊された」と語っている。(2009年1月マイライフ新聞から要約)

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2.浅尾山茂兵衛の力士墓道標

枚方市楠葉面取町の船橋・養父共同墓地の中に在る。
 棹石:(正面)超誉厳運禅定門、  
    (裏面)安政五年戌午年二月
            (1858)
    (左面)浅尾山茂兵衛、
    (右面)右 だるまとう
        左 八はた道
 台石:七ツ松門弟中 世話人 若中



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3.七人力士供養塔

枚方市上島町の船橋川堤
棹石:(正面)若線清兵衛 線松惣七 浪介小八    
       吉野川藤蔵 靏川新兵衛 駒若乙松   
       生駒山惣吉 十方施主二世安楽
   (右面)右 山城志水 すぐ下京道 
   (左面)すく大坂道 七ツ松門弟中
 左面に七ツ松門弟中とある事から河内相撲の力士達の供養塔であることが分かる。
 「山城志水」とは八幡宮参詣道の志水道をさす。
 「十方施主安楽」とはこの世とあの世を含め、十方とはあらゆる方向の意味で、何処にいても安楽に、往生できますようにと祈る、ことでしょう。
 「鳥羽伏見の戦い」で敗れた兵士の墓ではなく、幕府軍に協力して働いた力士達が官軍の猛攻に巻き込まれたものと思われます。

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4.七松半右衛門の力士墓道標

枚方市楠葉中ノ芝の久親恩寺境内に在る
棹石:(正面)徹誉勇道禅定門 
   (右面)天保四年巳年四月十八日(1833) 
   (裏面)七松半右衛門  
   (左面)右やわたみち すく京みち
 久親恩寺境内には道標群を一角に集積して石碑を文化財として保全している姿が嬉しい。

 七つ松半右衛門の墓碑道標も以前は京街道沿いにあって、旅人に道案内をしていたが、現在は墓地内にて保全されている。



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5.鬼勝定吉力士墓道標

島本町常春寺境内
所在地:三島郡島本町高浜字垣内
棹石:(正面)鬼勝定吉
   (右面)右 やはた うし/左 京 山さ記
   (左面)安政四年(1857)二月建立
台石:七ツ枩/門弟中
淀川を挟んで川向の島本町にも七ツ門弟の力士が存在し、誠に興味深い。






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6.更科寅吉の墓石

久御山町観音寺境内墓地
所在地:久御山町坊之池坊村中
棹石:(正面)寂住静生信士
   (右面)文化十二(1815)亥九月十日
   (左面)更科寅吉塚
   (裏面)当村若中
台石:(正面)七ツ松門弟中 (左面)当村若中
 道標ではないが、久御山での唯一の七ツ松門弟中の力士墓である。先般、観音寺に更科寅吉の墓石を久し振りに確認に行ったが、墓石が見当たらず、住職に確認したところ、新しい墓石に代わっていた。
新しい墓石にも確かに更科寅吉と没年月日の文字が刻されていて安心した。

by y-rekitan | 2022-03-28 09:00 | 墓石をたどる
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