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◆会報第109号より-02 八幡宮文化財①

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《講演会》

石清水八幡宮の文化財について
2022年4月
八幡市文化センター第3会議室にて

西 中道(石清水八幡宮 禰宜)
   
 4月22日(金)に八幡市文化センターにて年次総会に引き続き、表題の講演会を開催しました。講演会参加は44名でした。多くの参加者からは大変好評な感想を寄せられています。講演会の会報掲載用記事は、ご多忙な講師の西中道禰宜に詳細な詳細な原稿も作成していただきました。
 原稿は長文ですので、本号と次号会報110号(7月発行予定)と2回に分けて掲載します。(会報編集担当)

はじめに

 私は東京杉並の出身で、神社とは関係のない家庭に生まれ育ったのですが、父がよく神社やお寺に私の手を引いて一緒にお参りに行ってくれたお蔭でしょうか、そうした神社に象徴されるような「古き良き日本」に幼い頃から親しみを覚えていたように思います。
 中学生になると、『古事記』や『日本書紀』などを一冊にまとめた『神典』という書物を古本屋で父に買ってもらい、これは「総ルビ」でしたので、中学生の私でも『古事記』を言葉に出してスラスラ読めるようになりました。◆会報第109号より-02 八幡宮文化財①_f0300125_11164692.jpg 高校卒業後は、父や兄の勧めもあり、國學院大學の文学部神道学科に入学し、そこで4年間、神職になるための教育を受けることになりました。『古事記』『日本書記』などの「神道古典」、正座や拝礼作法等から始まる「祭式同行事作法」、「祝詞作文」、神道以外の諸宗教を学ぶ「世界宗教史」や「宗教学」、本居宣長・平田篤胤ら国学の基礎などを学ぶ「神道思想史」、その他さまざまな科目がありましたが、私はさほど真面目な学生ではなく、仲の良い友人らとよく授業をサボって色々なところへ「探検」に行ったりしていました。そうした探検の中には、当時渋谷の街頭で盛んに勧誘活動をしていた新興宗教のセミナーなどに冷やかし半分で参加するような、かなり危なっかしい行動もあったのですが…。
 また、大学時代には「民俗社会研究会」というサークルに入会し、柳田國男や折口信夫によって確立された日本民俗学を学び、春休みや夏休みには泊まりがけで東北地方や信越方面の山村に分け入り、古老と呼ばれる人々を訪ねて昔話や信仰習俗などの聞き取り調査を行うといった活動にも度々参加しました。そうした経験を通じて、大学の神道学科で学ぶ国家的な神道や、神道学者が説くような難解で専門的な知識を要するような特殊な神道とは別の、ごく普通の人々が習俗として受け入れてきた神道、民間信仰とか民俗神道というものの重要性を肌で実感するようになりました。この経験は、私にとって大きな財産になったと思いますが、その一方、この常の民、「常民」という概念を拠り所とする民俗学の「限界」もどこかで感じていました。神職になろうとしている私は、果たして「常民」なのか、むしろ「非常の民」であることを自覚する必要があるのではないか、といった思いから、少し大袈裟な話ですが、大学の卒業論文―「案山子の研究」というテーマでした―の中で、私は密かに「民俗学との決別」を宣言したのです。
文化財との出会い

 学生時代の個人的な話はさておき、あれこれ紆余曲折を経て八幡様との御縁をいただいた私は、昭和52年4月から石清水八幡宮に奉職することが決まりました。そこからまた色々な出会いがあり、新たな展望が開けていきました。
 私のような関東出身の人間にとって、近畿圏というのは正に歴史の宝庫です。広い関東平野全体を見渡してみても、名所旧跡の類いは疎らにポツンポツンと点在するだけで、しかもその多くが近世以降の浅い歴史に限られますが、こちらに移り住んでみると、もっと古い時代の歴史上のエピソードに由来する石碑などがあちこちに立っていて、何気ない日常風景の中に積み重なった歴史の厚みというものに改めて驚かされました。
 石清水八幡宮に就職して二年目に車の免許を取得し、中古車を購入してからは、休みのたびにマイカーを運転し、あちこち名所旧跡巡りに出掛けました。古墳、特に天皇陵なども随分お参りしました。むろんカーナビもパソコンもスマホもない時代、御祭神の神功皇后陵や応神天皇陵はもとより、石清水八幡宮の創建に深く関わる文徳天皇や清和天皇の御陵なども、地図を頼りにやっとの思いで辿り着いたものです。
 関東にいた頃は、平安時代などというのは途方もなく古い時代だと感じていましたが、こちらに来てみると、それほど遠い昔ではないなぁ、と思うようになりました。もっと遡れば、古墳時代も当時の古墳が今も変わらぬ位置にあって、ほぼ原型を保っているということからすると、つまりは今と同じステージ上にあって、古墳時代と現代人との間に決定的な断絶はない、と確信が持てるようになりました。50万年前とか百万年前といった地質学的な年代スケールになると話は別ですが、数千年程度の時間差はたいしたギャップではない、ということです。
 そんな中、奉職して5年ほど経つと、私は「石清水八幡宮研究所」という小規模な組織の担当を命ぜられました。同研究所は、石清水八幡宮の所蔵する膨大な「文化財」、特に古文書類の管理・研究等を神社から委嘱された國學院大學史学科の教授や講師らを中心とする組織で、当時は同大学教授・村田正志主任研究員の下に、石川晶康、田中君於両研究員がおられ、さらにその助手として、当時はまだ大学院生だったと思いますが、鍛代敏雄氏も加わって、年に3~4回ほどのペースで東京から石清水八幡宮に来られ、3~4日滞在する間に、膨大な古文書類の整理や調査に当たっておられました。私は神社の担当職員として、先生方の宿泊の手配や車での送迎、収蔵庫から社務所への古文書の運搬、採寸や写真撮影の補助等といったお手伝いをさせていただきました。古文書学や歴史学の専門家ではない私も「門前の小僧」となって、それなりに古文書の取り扱い方や読み方のコツなどを習得していったように思います。と言っても、基本的には今も素人であることに変わりはなく、偉そうなことを言える立場ではありませんが…。そうこうするうち、世は昭和から平成へと御代替わりの時を迎え、私の運命も大きく変転することになります。

平成の御大礼に奉仕して

 平成元年9月、当時は権宮司であった現在の田中恆清宮司から呼び出され、宮内庁への出向を命ぜられました。宮内庁掌典職という宮中祭祀を掌る部署からの要請を受け、神社界が宮中で行われる御代替わりに関わる諸儀式のお手伝いをすることとなり、特に皇室との御縁が深い勅祭社の中から職員を派遣することになったというのです。私は当時まだ独身で、さほど重要ポストにも就いておらず、しかも実家が東京でしたから宿泊費も不要…ということで、神社にとって「人身御供」を差し出すには最も都合の良い人材だったのだと思います。同年10月、東京渋谷の神社本庁に事務研修員という立場で出向し、そこからさらに宮内庁へ出向しました。神社界からは伊勢の神宮、熱田神宮、明治神宮、鶴岡八幡宮、そして石清水八幡宮と、5社から選抜された20~30代の若手神職が集まり、さらに宮内庁でモラロジー研究所という団体から派遣されてきた2人が加わって、合わせて7名が掌典職の人々と力を合わせ、約1年3ヶ月という短い期間でしたが、昭和天皇の御大葬の諸儀式から、年が明けて新帝陛下、即ち現在の上皇陛下の御即位に関わる諸儀式に「臨時掌典補」という立場で関わらせていただきました。
 この間の詳しい経緯等は省きますが、戦後初めて行われる大嘗祭ということで、色々と試行錯誤を繰り返すうち、模型を用いて机上演習を行う必要があるということになり、私ともう一人、手先の器用なモラロジー出身の人と協力して大嘗宮の1/50スケールの正確な模型と人形を製作し、これが当時の東園掌典長の御手引きにより天覧に供され、我々製作者2名もお側近く陪席を許されるという、信じられないような光栄に浴させていただいたこともありました。模型を製作してみて思ったことは、大嘗宮というのは弥生時代以前の技術・素材で作りうる極めて簡素な臨時の建物であった、ということです。そもそも大層な経費を掛けて大手ゼネコンなどが製作するような建物ではない、ということです。
 大嘗祭へのご奉仕を通じて、石清水八幡宮と皇室との深い結びつきを改めて実感させていただくことが多々ありました。例えば、男山に自生するヤマアイという植物と、大嘗祭の奉仕員が束帯の上に羽織る「小忌衣(おみごろも)」という装束です。この衣には梅の枝や蝶などの模様が「青摺(あおずり)」で施されますが、この青摺の染料として用いられるのが男山のヤマアイなのです。大正・昭和度の大嘗祭でも、平成の御代の大嘗祭でも、この慣例は踏襲され、大嘗祭の数ヶ月前に男山の山内で採取されたヤマアイを宮中に献上しています。この度の令和の大嘗祭においても、旧宮本坊跡のヤマアイを採取して石清水井の清水で洗い清め、宮内庁御用達業者を通じ宮中に献上しました。
 なお、このヤマアイを染料として用いる場合、葉の部分をすりつぶして出来る緑色の液体を摺り付けるという旧来の説と、青く変色した地下茎の部分を用いるという説があります。後者の説は、比較的最近になって提唱されたもので、私も実際にヤマアイの地下茎を掘り出し、これを天日に3日ほど晒して観察してみたところ、初めは白かった茎の部分がやがて鮮やかなブルーに変色しました。この青く変色した地下茎を粉末にして水で溶き、衣服に擦り付けたのが本来の「青摺」だったのではないか、というわけですが、これは確かに信憑性が高いように見受けられました。
 それから、男山のマダケと大嘗祭に用いられる祭器具との関係です。男山産のマダケは毎年11月に宮中で斎行される新嘗祭に際しても献上されますが、大嘗祭においてはさらに多くの厳選されたマダケが献上されます。この竹を何に用いるのかというと、大嘗祭や新嘗祭で天皇陛下が御自ら御手に執られる御箸は、男山のマダケを掌典職の人々が加工して謹製するピンセット状のお箸で、水鳥の細長いクチバシを想起させます。
 また、同じく掌典職の人々が調製する祭器具類に「窪手(くぼて)」という四角形の箱状の器と、「枚手(ひらで)」という円形の皿状の器があり、これらは男山のマダケを細く削った棒状の竹を骨組みにして、そこに他の地域から献上された大きな柏の葉を巻き付け、さらに紐条に薄く削った竹で編み付けて作製します。いずれにせよ、男山のヤマアイとマダケは、天皇の即位儀礼を始め、宮中祭祀に欠かすことのできない重要な植物だということがお分かりいただけたかと思います。
 なお、大嘗祭の本義について、かつて折口信夫博士は、新天皇が大嘗宮に敷設された寝具=真床覆衾(まとこおふすま)にくるまって「天皇霊」を身に付ける「秘儀」に臨まれたのではないか、と推測されたわけですが、これを近年、同じ國學院の岡田荘司博士が否定し、大嘗祭において過去も現在もそうした秘儀的要素は一切なく、伊勢の神宮に鎮まる皇祖神への「遥拝」の形が大嘗祭の根幹をなしている、といった主旨の説明をされました。
 私は、大嘗宮の主賓として天皇がお迎えし、おもてなしをする相手は、そもそも皇祖神=天照大御神ではなく、「穀霊」あるいは「国魂」とよばれるような存在であったろうと見ています。大八嶋国全体の統治者として即位する儀式において、祖神と子孫の関係は言わば「内」の論理に基づく私的な祭祀であり、より重要なのは外に開かれた公的祭祀であったはずです。東の代表の悠紀国と西の代表である主基国の両者は、即ち大八嶋国全体を表象し、その悠紀国・主基国それぞれの「国魂」が宿った米や粟など穀物そのものが饗応すべき遠来の賓客であり、皇祖神は子孫である天皇と共に、これを迎え入れる主人側の立場に立って、その様子を遥かにご覧になるという構造ではなかったかと思うのです。即位した天皇は、これら大八嶋の国魂を我が身に取り込むことによって、王の中の王、真の大王としての資格を得られるものと観念されたのではないでしょうか。
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行幸啓を仰いで

 石清水八幡宮と皇室との御縁の深さについて先ほども見てきましたが、要するに皇室にとって石清水八幡宮は、伊勢の皇大神宮と同じく「先祖の御霊をお祀りする大切なお宮」という位置付けなのです。それで「二所宗廟」と称された。距離的にも時間的にも遠い方の御先祖がお伊勢さん、近い方の御先祖が八幡さん、というわけで、歴代の天皇や上皇をはじめ皇族の方々は、どなた様も「近い方の宗廟」に足しげくお参りに来られました。
 私が奉職してから45年の間にも、皇族方の公的参拝を3度経験しています。昭和53年9月の皇太子・同妃両殿下、平成9年8月の天皇・皇后両陛下、以上の2回は、どちらも現在の上皇・上皇后両陛下でいらっしゃいます。また平成27年11月には、皇太子殿下、現在の天皇陛下が御参拝になっておられます。この他にも、皇族方の私的参拝を度々お迎えすることがありました。
 中でも平成9年8月、猛暑の最中における天皇・皇后両陛下の御親拝行幸啓は、警備も厳重を極め、なかなか大変でしたが、特に「天皇陛下におかせられては、このたび『金銀御幣』をもって御参拝との思し召し」云々という宮内庁からの伝達があり、当時の田中弘清宮司、同恆清権宮司の命を受け、稲垣・西両禰宜以下、主だった職員が手分けをして過去の事例を調べ、他の勅祭社にも伺いを立て、或いは宮内庁京都事務所へ何度も足を運んで、どのような形状の「金銀御幣」を用意し、どのような作法で、どこで誰が御幣をお渡しし、誰がそれを受け取り、その御幣を最終的にどのように神前に奉るか、といった細々とした形を整えていきました。何しろ、明治10年の明治天皇以降、天皇の御親拝行幸をお迎えした事例は1度もなく、しかも明治天皇は「立て玉串」という現在も踏襲されている近代以降の作法で御拝礼になりましたので、金銀御幣を用いての拝礼という形は、孝明天皇の文久3年、1863年の事例に範を求める以外にありませんでした。
 そして調べてみると、幕末の孝明天皇は、弘安4年、1281年の元寇の国難に際し、亀山上皇が石清水八幡宮に参拝された時の作法に倣われて金銀御幣に攘夷の御祈願を込められ、平成の御代の天皇陛下は孝明天皇の文久行幸の先例に倣われて金銀御幣ということを仰せ出されたらしい、ということが判ってきたのです。よくよく歴史をお調べになっていらっしゃるのだ、ということに改めて感銘を覚えました。
 そうこうするうちに、校倉という倉庫の中から、今まで見落としていた黒漆塗りの御幣串が1本見つかり、そこに取り付けられた金具に菊の御紋が浮き出ていたことから、これこそ文久行幸の折に奉献された金銀御幣の一部に間違いない、ということで、それと同じ形状・寸法の串3本を業者に発注し、御親拝当日までにピカピカの金銀御幣を用意することができたのです。これらのことを通じて、現代を元寇や幕末の「国難」と重ね写しに御覧になっておられるという、陛下の大御心を我々も国民の一人として厳粛に受け止めねばならないと、宮司以下職員一同、深く心に刻んだものでした。
 平成27年秋に今上陛下、当時の皇太子殿下が御参拝になった時も、事前に宮内庁筋から「殿下には貴宮所蔵の古文書についてご関心をお示し」云々との打診があり、これを受けて当宮研究所の鍛代敏雄主任研究員とも相談し、当日ご覧いただく文書のリストを作成し、殿下へのご説明役は鍛代先生ご本人にお願いします、ということで当日は社務所で待機してもらいました。御本殿での御参拝が終了して、ご休憩場所の社務所書院で鍛代先生が学界で以前から面識のある殿下をお迎え申し上げ、臨時に設営された古文書の展示コーナーにご案内し、いざご説明をしようとすると、殿下はご自分で古文書の文字をスラスラと読み解かれ、ほとんどご説明するまでもなかった、とのことでありました。それほどに今の天皇陛下は、大学教授さえ顔色を失うほどの学者であられ、英邁な君主であられるということです。

本殿遷座祭

 毎年9月15日に執り行われる勅祭・石清水祭には、天皇陛下の御使いとして、宮内庁掌典職から掌典と掌典補の方が差し遣わされ、御祭文を奏上し御幣物を奉献されます。
 50年間に1度あるかないか、という極めて稀な儀式として、御本殿の修復工事に伴う本殿遷座祭がありますが、勅祭社である当宮では、この時も勅使をお迎えして勅祭と同様の祭典が斎行されます。私も平成21年4月25日、昭和42以来42年振りとなる本殿遷座祭に奉仕することができました。修復工事中、若宮社を仮の御本殿としてお鎮まりいただいていた八幡三所大神に、竣功したばかりの御本殿へお還りいただく儀式です。
 夕刻、暗くなってから3基の御鳳輦に3座の御神霊をお乗せして、勅祭と同じく数百人もの神人たちを従え、提灯と松明の明かりを頼りに、若宮社から東総門を下り、護国寺跡から石清水社前を通過し、大扉稲荷社前で表参道に入り、三ノ鳥居へと石段を上がり、南総門から御本殿楼門下へと進み、御本殿に入御するという道筋が正規のルートなのですが、この日は直前まで雨が降り、石段が濡れて足もとが滑りやすく、極めて危険だということで、宮司に事情を説明し、禰宜1名が「神幸御幣」を捧持して正規のルートを先行し、山内道筋の神々に事の由を奉告することとし、本体の神幸列は東ケーブル参道の平坦な最短コースを進んで本殿に入るということで、何とか事なきを得たのです。
 ところが、急きょ神幸御幣の御役を仰せ付かった私は、たった一人で御幣を担ぎ、真っ暗な石段を降りていかなければならず、足は浅沓という木の履物、雨に濡れた落ち葉の積み重なった石畳の道は非常に滑りやすく、必死の思いでしたが、なぜか不思議なことに足もとがボーっと仄かに白く光って見え、苦もなく正規のコースを進み、御役を全うすることができたのです。まさに神の御加護という他はありません。
 その翌日、「奉幣の儀」が賑々しく斎行され、そこに参列された各界の重鎮の中に比叡山の天台座主と高野山の座主がおられ、最澄と空海の離反以来、千数百年振りに天台・真言両宗が石清水八幡宮の本殿で同席し和解を果たした、との報道もなされ、ちょっとした話題にもなりました。

(次号「文化財の相次ぐ新発見」に続く)空白

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by y-rekitan | 2022-05-23 11:00
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