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◆会報第109号より-03 吉野詣記①

『吉野詣記』を歩く

(奈良再発見!①)

 谷村 勉 (会員) 


 戦国時代、八幡橋本に連歌師の橋本等安が住んだが、会員読者には橋本等安の存在は既によくご存知のように、当時の連歌界の第一人者「里村紹巴」の門人であった。里村紹巴、細川藤孝(幽斎)と連歌を詠み、両者に添削を依頼した自作の連歌巻や連歌帳を残している。八幡に住む橋本等安という連歌師(八幡宮社士)の存在を知って、数年前から連歌にまつわる探究をするようになり、『吉野詣記』を読むに至った。これより以前、松花堂昭乗と江月宗玩和尚が歩いた『松花堂昭乗奈良吉野紀行』(柿衛文庫蔵)を読んでいたので、その比較も面白かった。 
 橋本等安の師である里村紹巴が歌人三条西公条(きんえだ)《公卿》と歩いた『吉野詣記』(三条西公条著)を辿(たど)ると、前年秋に妻を亡くした公条に対し、紹巴が「名勝探訪」に誘ったようだ。天文廿二年(1553)二月廿三日に都を出発、八幡美豆・御牧、石田(いわた)小野を通り、天神の森、柞(ははそ)の杜(もり)《祝園(ほうその)神社》を過ぎ、「奈良坂越」で奈良に入る。
 『吉野詣記』は奈良・高野・吉野・住吉社・四天王寺を尋ね、水無瀬・石清水八幡宮を経て帰京するまでの二十二日間の旅行記である。
奈良盆地を縦断し、高野山、吉野山、信貴山に登り、御所市の高天(たかま)寺からは金剛山頂を極めて役行者が創建した転法輪寺に参るなど健脚ぶりを見せている。この旅行の目的には吉野の花見と亡き妻へ冥福を祈るとともに、己の往生安楽の祈願がこめられ、太子信仰の巡礼や父の三条西実隆が歩いた吉野と高野山を辿ってその足跡を偲ぶものでもあった。◆会報第109号より-03 吉野詣記①_f0300125_15234890.png 奈良の寺社については高名な文人の古寺巡礼、風物詩、随筆等数多あるが、実際の現場に行けば次々と関連する興味深い再発見があった。今回、初めて訪問する寺社も多く、奈良の東西南北を中心に60ヶ所以上に及んだ。残念ながらその本来の魅力を充分には伝え難く、読者が自ら歩いて探索し、改めて再発見されて、楽しまれんことを願いたい。
 尚、旅行記の底本として「相愛女子短期大学研究論集、33,27—69,(1986‐03)三条西公条『吉野詣記』:(翻刻・校注)北谷幸冊、鈴木徳男、鶴崎裕雄」を使用した。『吉野詣記』の紀行文は原文を太文字で表し、その下に訳文を併記した。

吉野詣記         西三条称名院
 いにし年の秋はからず。とし比ふしなれたる床はなれ。かきつくへき心地もなくて。あはれ修行にも出立なばやと思ひつゝとかくまきれしに。紹巴とてつくばの道に志ふかくて。此ころ都の住居し侍りて夜ひるきとふらひける。しかもしき島の大和ノ国人にて道たとたとしからす。吉野ゝ花見るべきよしいざなひけり。さらはとて人々にいひふるゝ事もなくて。む下にかほしらぬ人宗見と云ひと一人をめしつれ。
 ことし天文廿二年二月廿三日のあした。ひそかに都を出侍るとておもひつゞけける。名残おもふいもせにあへるみちやありとよしのゝ奥を尋てそとふ鳥羽よりみつの御牧にまかりけるに。近き年々水のうれへに絶かね堤塘(ていとう)をきつくとてはるはるとしわたしたるけふにいとなみけり。此所は領しける所たるに。あはれことしは秋もゆたかにて思ふまゝに水の害もさりぬべしと。夏禹の神助をこゝろにあふきて。
 ✱はびこりし 水の堤に しゐてかの うかりし年の 秋もわすれん いはたのおのなど云所を過て天神の森にいたりたきゝなといふ所見やり。森のかげなる里にて駒に水かひをのゝゝうちやすみ。泉川のあたりうち過柞(ははそ)の社にいたりて。 
 ✱春にたに はゝその森は よそよりも わきてかすみも うすき色かな 奈良坂越て般若寺の文殊堂に立よりしに。程なく日くれ旅のやとりに夜をあかしけり。

『訳文』
 去年の秋、馴れ親しんだ妻を亡くした。よりどころとする心地もなく、仏道修行にでも出ようかどうか思いをめぐらす時に、紹巴という連歌の道に志深い者が都に住んでおり夜昼となく訪ねて来る。しかも紹巴は大和の国の出身であるから道中の確かな吉野の花見に誘ってくれた。それではと誰かに言葉をかけ相談することもなく、よく顔も知らなかった宗見と云う人一人を召し連れ。
 今年天文22年(1553)2月23日の朝早く都を出発すると決めた。愛しい妹の名を負う妹背に出会える道もあろうかと吉野の奥を尋ねる旅だ。鳥羽から八幡美豆・御牧に来て、近年は洪水から守るのに堤防を築き、安心して暮らせるようになってきた。この一帯は三条西家の荘園であった。堤防が出来上がれば今年は水害もなく、実りの秋には豊作であり、夏王朝の禹王の神のような助けに感謝するばかりだ。
 ✱氾濫する河水も堤を築いたお陰で水害の酷かった年の秋も忘れてしまった。石田小野(八幡)と云う所を過ぎて、天神の森に到り薪(たきぎ)(八幡宮領)に着く。陰ある里にて馬に水を飲ませて休憩した。木津川を過ぎ祝園神社の森に到着。
 ✱ははその森の紅葉は色が淡いと云うが、春でさえ他所より霞も淡い色だな。奈良坂を越え般若寺文殊堂に立ち寄り、日も暮れて宿に入り夜を明かした。
        (ハハソとはコナラ・クヌギ、カシワなどの総称・落葉樹)

◇ 夏禹(かう)の神助(しんじょ)
 古代中国、夏王朝の禹王の神のような助け。禹王は黄河の洪水を治めたといわれる。◆会報第109号より-03 吉野詣記①_f0300125_15544125.png日本にも、禹にかかわる碑《大禹謨(だいうぼ)》や地名がたくさん残っている。我々八幡の祖先たちにとっても水害多発地域として治水事業は重大な関心事であった。
 [河川の合流部や堤防に近接した場所に禹王を祀ることで水害減少を願った。江戸時代になって禹王崇拝が高まった背景には徳川幕府が儒学を文治政策の基本理念としたことが挙げられる。古代中国の名君主を聖人として崇めた儒学思想の浸透が、外国起源の治水神・禹王を日本固有の神と並ぶ信仰の対象にならしめたのです](海津市歴史民俗資料館 水谷容子)

◇石田(いわた)の小野
 文中の「いはたのおの」の語訳については、伏見区石田から日野にかけての
地と紹介しているが、八幡の岩田と思われる。現在、八幡に岩田はあるが、「岩田小野」の地名は存在しない。しかし、江戸時代の絵図(皇州緒餘撰部山城國𦾔地圖)には岩田帯の発祥地と云われる岩田に「石田(いわた)小野」が存在していた。八幡美豆から伏見区の日野に飛ぶのは不自然で、美豆からそのまま奈良街道を南下して八幡の「石田小野」を目指した、とする方が自然と思われる。

◇奈良坂
 山背の国から旧街道の奈良坂を越えて大和の国に入ると、坂の中間辺りに般若寺があり、かつては般若坂と呼ばれた。国宝の般若寺楼門を左に見て徐々に坂を東大寺大仏殿方面に下って行くと、金網に囲まれた「史蹟北山十八間戸」の石碑が建つ白壁十八間の細長い建物(西大寺叡尊の弟子忍性が癩患者らのために建てた病舎)が見えてくる。その手前左のオレンジ系色の民家北隣に「夕日地蔵」と呼ばれる大きな地蔵石仏がある。会津八一(歌人・美術史家、明治十四年(1881)~昭和三十一年(1956))が詠んだ石仏だが、歌碑は般若寺の庫裏に立つ。
*ならざかの いしのほとけの おとがひに こさめながるる はるはきにけり  
   《「おとがい」とは下顎(あご)のこと》
◆会報第109号より-03 吉野詣記①_f0300125_08251553.png 石仏の下顎(あご)を流れる雫(しずく)に奈良の春の風情を詠んでいるが、会津八一は、[「夕日地蔵」は滝坂(旧柳生街道)に「朝日観音」というものあるに遥かに相対するが如し]と「自註鹿鳴集」に述べているので、奈良坂では「夕日の地蔵」を見たいと思っていたが、生憎雨になってしまい、八一は臨機応変に歌を詠んだようだ。「その表情笑うが如く、また泣くが如し」と、その印象も鹿鳴集に記している! 
 なお、会津八一の奈良にある自筆歌碑は20基に及ぶ。

◇滝坂の道(旧柳生街道)
 旧柳生街道は、春日山と高円(たかまど)山の谷あいの道を通り、奈良市街地から柳生へ通じる古道。滝坂の道とは道沿いに小さな滝が無数にある事に由来している。
 水の流れとそのせせらぎを聞いて歩くのは、まことに心地よく山歩きの醍醐味である。奈良市高畑町から歩き始め、石を敷き詰めた石畳を暫く登るとやがて摩崖仏の寝仏、夕日観音、朝日観音が順番に見えてくる。◆会報第109号より-03 吉野詣記①_f0300125_08311208.png朝日観音の解説板を見ると、対岸に彫られている朝日観音が「早朝高円山の頂からさしのぼる朝日にまっさきに照らされることから名付けられたもので、実際には観音ではなく中央は弥勒仏、左右は地蔵仏です。文永二年(1265)の銘がある」とあり、鎌倉時代の磨崖仏を実感する。
 奈良坂「夕日地蔵」、滝坂「朝日観音」どちらも実物に出会えばこの写真では表現できない大きさと迫力でせまってくる、「ああっ、これだ」と出会った瞬間はまことに快(こころよ)い。

般若寺(奈良市般若寺町221 ☏0742—22—6287)
 京街道奈良坂にある。般若寺創建には諸説あるが、奈良時代の建立は確かであるとされる。治承四年(1180)平重衡(たいらのしげひら)はこの坂から南都攻めを行い、般若寺も全焼した。
 また、延徳二年(1490)の失火で文殊堂などが焼失、その後、文殊堂は再建されたが、永禄十年(1567)、松永、三好の戦禍によって再度文殊堂などの伽藍を失っている。(『多聞院日記』)。なお、それ以後は無事であった経蔵を文殊堂として用いた。現本堂は寛文七年(1667)の再建である。
 般若寺は元々興福寺の末寺であったが、鎌倉時代に入り十三重大石塔をはじめ七堂伽藍の再建が行われ、金堂本尊には西大寺叡尊上人によって丈六の文殊菩薩がまつられ信仰の中心となった。◆会報第109号より-03 吉野詣記①_f0300125_08433476.png文永四年(1267)七月二十五日文殊像開眼法要が始まり、二十八日に結願した。開眼導師は叡尊、僧衆は百八十人余に及んだと『感身学正記』(叡尊自伝)は記し、さらに西大寺の末寺に加わることを明記している。 
 鎌倉時代の楼門(国宝)の前からは正面に十三重大石塔が見られる。この大石塔は笠塔婆に刻まれた銘文により、宋から来朝した伊行末(いゆきすえ)が造立したと判る。石塔納入物に建長五年(1253)の墨書もあり石塔の建立年代が確定された。現在、春は山吹、初夏は紫陽花、秋にはコスモスが咲き乱れ、古寺の風情が残る般若寺を訪れた多くの文人の歌碑(向井去来・正岡子規・森鴎外・水原秋櫻子・会津八一等)がある。 

◇森鴎外歌碑(奈良五十首より)
 *般若寺は 端(はし)ぢかき寺 仇(あだ)の手を のがれわびけむ 皇子(みこ)しおもほゆ

 『太平記巻第五;大塔宮熊野落の事』の故事を題材に詠う。
 -南北朝時代、後醍醐天皇が、笠置山の戦いに敗れ、皇子の護良親王は辛くも般若寺に潜んだ。すぐに般若寺にも追手が来たが、唐櫃に入って難を逃れる-
 戦前には、尋常小学唱歌第五学年用・『大塔の宮』と題して歌われていた。
[「奈良五十首」は森鴎外が大正七年から大正十年にかけて、毎年晩秋に帝室博物館長として正倉院開封のため奈良に出張した。その時の経験を詠みためておいたものであり、鴎外文業全体の中で、この連作は彼の文芸面でまとまった創作として最後の作品となった](鴎外選集第十巻 解説 小堀桂一郎による)
 なお、鷗外は大正十一年(1922)七月九日没60歳。
―つづく―空白
                            
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by y-rekitan | 2022-05-23 10:00
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