石清水八幡宮の文化財② 110号

《講演会》

石清水八幡宮の文化財について(後編)
2022年4月
八幡市文化センター第3会議室にて

西 中道(石清水八幡宮 禰宜)
   
 4月22日(金)に八幡市文化センターにて表題の講演会を開催しました。講演会の会報掲載用記事は、講師の西中道禰宜に詳細な原稿も作成していただきました。原稿は長文ですので、前号会報109号(5月発行)に引き続き、本号に「後編」掲載します。会報掲載用に詳しい原稿を作成いただいた西禰宜には改めて御礼申し上げます。
 なお、講演会で配布された最新の「石清水八幡宮の文化財一覧」を添付しました。(会報編集担当)

文化財の相次ぐ新発見

 少し時計の針を戻す形になりますが、平成の御代替わりに関わる諸儀式が終了し、平成2年12月にお役御免となった私は、慌ただしく東京から京都に舞い戻り、平成3年の正月を石清水八幡宮で迎えることになりました。すると、まるで私の復帰を待っていたかのように、その年の春から私は次々に〝お宝発見″の現場に居合わせるという、類いまれな幸運に恵まれることとなったのです。
 この頃、石清水八幡宮研究所を牽引していた第一人者と言えば、何と言っても田中君於氏でした。田中氏は私より7年先輩で40代半ば、某有名進学塾の日本史担当〝カリスマ講師″として、時おりTV番組にも出演するなど活躍の場を広げておられましたが、我々にとっては気さくで明るい「兄貴分」といったイメージであり、親しみを込めて「キミオさん」と呼ばせていただいておりました。実は当時、石清水八幡宮には田中姓の関係者が宮司家3人の他、この田中氏を含め合わせて6人もおり、苗字だけでは区別がつかないので、自然に下の名前で呼び習わすようになっていたのです。
 そのキミオさんは、多忙な合間を縫って年に何度も東京からお一人で当宮を訪れ、古文書を中心とする文化財の調査・研究に励んでおられましたが、特にこの時期は、過去の史料に記録がありながら今は行方不明となっている複数の文化財について調査を進めておられました。平成3年3月のある日、私が研究所の担当職員として田中研究員と共に境内を見回っていた時のことです。石清水八幡宮の文化財② 110号_f0300125_20374251.jpg本殿裏手にある校倉(あぜくら)という古い高床式倉庫が「怪しい」と睨んだ田中氏が、私を従え校倉の方へ向かって歩いていくと、その建物の前で京都國學院の学生数名と、彼らを指導する神職が何かを取り囲んでたむろしています。
 京都國學院は神職を養成するための全寮制の専門学校で、学校は京都市内に、寮は石清水八幡宮の境内にあり、午前中は石清水で実習、午後は京都市内の学校に通って勉強、夕方帰寮するという形で2年間の課程を修了すると、東京の國學院大學や伊勢の皇學館大学など4年制の大学出身者より1ランク下の神職資格を取得することができます。最近は少子化の影響で学生数も3~4名と、かなり減ってしまいましたが、当時はまだ20名ほど在籍していたと思います。
 その京都國學院の実習生を指導していた神職から「ほかしてまえや、そんなもん」という言葉が発せられ、少し間を置いて「焼却炉行きや」と、同じ人物の声が響いてきました。そこへ割って入った田中研究員、「ちょっと待った!」と一喝するや、彼らが見下ろしていた木箱の中の物を取り出し、地面に並べ始めたのです。それは様々な形をした大小20個ほどの木片で、長年の塵埃にまみれて黒く煤け、素人目には全く意味不明の物体という他はありません。指導役の神職に尋ねると、校倉内の大掃除を実施中、一番奥の隅に古い釣灯籠(つりどうろう)の残骸が積み上げられており、この木箱はその残骸の下から出てきたもので、中の木片については今から調べるつもりだった、とのことでしたが、これぞ探し求めていた「古神像群」に違いないと確信した田中氏が、この木片群を社務所に運び込み丁寧に煤を払い落として組み合わせてみると、見事に8体の人の姿が現われたのです。
 その後、文化庁の専門調査官により、このうち髪を角髪(みずら)に結った4体が平安時代後期~鎌倉時代中期に作製された童形神像(どうぎょうしんぞう)と判明、国の重要文化財に指定され、残る4体の女神像なども室町時代以前の作として京都府の文化財指定を受けています。たまたま、この日この時、田中氏と私が校倉の方に歩いていかなかったとしたら、この貴重な文化財は焼却炉の煙と消え、二度と我々の目に触れることもなかったに違いない。本当に危ういところでした。
 この古神像群は、昭和6年に刊行された書籍に紹介されていながら、その後なぜか消息不明となっていました。どうやら昭和9年に近畿地方を襲った「室戸台風」の被害が相当深刻で、その時に残骸と化した釣灯籠などと共に、取りあえず校倉に放り込まれたまま、行方知れずとなってしまったものと思われます。
 この発見当初より、その後の文化財指定へと、我々が一貫して指導・助言を仰いできたのが、仏像・神像研究の第一人者・伊東史朗先生。京都国立博物館から文化庁を経て、現在は和歌山県立博物館の館長になっておられます。伊東先生は、この古神像群を石清水八幡宮の摂社・若宮社にかつて祀られていた若宮=童形神像、姫若宮=女神像ではないかと推測しておられますが、私は本社の殿内に今も安置されている男神像・女神像との関連性について、かつて提示させていただいたことがありました。この童形の男女神像は、古文書に記された「八子」(やこ)であり、八子とは八体の神像を意味するとも考えられますが、おそらく本来は「ヤツコ」、「屋つ子」、即ち家屋を守る小さき童形の神、精霊の如き存在を具象化したもので、こうした観念が地方に伝播して今も細々と伝承されているのが、例えば座敷童(ざしきわらし)ではないか、などと私は想像を膨らませています。

神庫・本殿・若宮社から

 同じ平成3年には、その他にも本社社殿の神庫(しんこ)という場所から次々に新たな文化財が発見されました。その何れもが田中君於氏の主導下で実施された調査により見出されたものです。神庫は本社社殿の東門北側に位置し、東廻廊の一部に組み込まれた形になっていますが、本来は独立した建物としての構えを有しており、内部には中央に巨大な曼荼羅(まんだら)を掛けるための板壁と須弥壇(しゅみだん)が設けられています。その背後の壁際の棚に置かれていた長持(ながもち)の中から、金銅三鈷杵(こんどうさんこしょ)、クリス剣、八角宝珠筥(はっかくほうじゅばこ)、銀造聖徳太子倚像、八稜鏡(はちりょうきょう)、空海銘の古銅鏡などが新たに発見されました。このうち金銅三鈷杵・クリス剣・八角宝珠筥は、平成16年に京都国立博物館で開催された「神々の美の世界」展に出陳された後、引き続き調査・研究を希望する同館学芸員からの要請を受け、現在も同博物館に寄託されています。
 また、平成17年から本格的に施工された「平成の大修造」本殿修復工事に伴い、本殿の神々が仮本殿に遷座されている機会を捉え、これも田中君於氏の尽力により、文化庁・京都府文化財保護課・京都国立博物館・石清水八幡宮研究所の協同による殿内御神宝・御調度等の悉皆調査が実施され、平安時代に遡る古太刀一振(ふり)、近世前期の豪華な拵(こしらえ)の太刀三振ほか、数々の宝物が見出されました。
 中でも圧巻だったのが、平成19年8月に若宮社殿内にあった木箱の中から発見された「旧大乗院の遺宝群」です。殿内と言っても、内々陣、つまり御神体の鎮まる鍵の掛かった御扉の中ではなく、その外側の空間に置かれていたもので、神職の多くは以前からその箱の存在を知っており、気にもなっていたのですが、先輩神職から「あの箱には触るな」と代々言い伝えられてきましたし、観音開きの扉には封印された鍵が掛かってもいたので、自分に〝祟り″が降りかかるのも恐ろしく、誰もあえて触れようとはしませんでした。
 そこへ登場したのが、またまた我らがキミオさんです。「祟りは全部オレが引き受ける」と言って、渋る禰宜以下の神職を強引に説き伏せ、さらに文化庁や京都府等にも自ら声を掛けて呼び集め、衆人環視の下、この箱を若宮社から社務所に運び込み、封を解き鍵も破壊し、とうとう扉を開いたのです。すると中からもう一つ、黒い箱が出てきました。その蓋にも鍵が掛かっていましたが、これも何とかこじ開けると、風化しボロボロになった布地が見え、その布も取り除くと、中から藤原夫人願経(ふじわらぶにんがんぎょう)、篝火御影(かがりびのみえい)、八幡大菩薩御影(はちまんだいぼさつみえい)、仏眼仏母尊像(ぶつげんぶつもそんぞう)の他、固着経(こちゃくきょう)というフランスパンのようにカチカチに固まって簡単に開くことができなくなった巻物が7点、密教法具5点等々、驚くべき数々の宝物類が姿を現わしたのです。
 これらの宝物類は、かつて石清水八幡宮の神宮寺、即ち神社に付属する寺院として栄えていた大乗院(だいじょういん)という、現在の京阪「石清水八幡宮」駅周辺一帯を占めていた寺院が所蔵していたものです。その大乗院は、慶応4年(1868)1月に勃発した戊辰戦役の兵火により炎上し、そのまま廃寺となってしまいました。したがって、旧大乗院の所蔵に係る宝物類も、全て焼失してしまったものと見られていたのですが、どうやら戦火が及ぶ前に同寺の僧侶が寺宝を木箱に納めて山上の八幡宮に移したものらしく、預かった八幡宮は取りあえずこれを殿内に納めたものの、直後の神仏分離により、当事者であった山上山下の僧侶が悉く当地を追われ、この木箱のみが取り残される形となって、いつしか150年もの歳月が過ぎ去ってしまった、という経緯が跡付けられるのです。
 ところが、話はもう少し込入っていて、この旧大乗院の遺宝群、実は明治34年の「社務日誌」に図入りで紹介されており、そこには同じ寺宝の一部として平成3年に神庫から発見された「八稜鏡」や「空海銘古銅鏡」なども描かれていました。つまり、明治34年時点で当時の人々も一旦は木箱の扉を開き、中を検分したわけですが、何らかの事情で元通り箱に納めて鍵を掛け、しかもなぜか若宮社と神庫と2ヶ所に分けて秘蔵されることとなり、再び忘却の彼方に追いやられてしまったと考えられるのです。平成3年の頃、この日誌の記事は殆ど注目されなかったのですが、平成19年に若宮社から一連の宝物が発見されると、これが改めて田中君於氏の目を引くこととなり、その結果、神庫と若宮社から新たに発見された宝物類の総称として「旧大乗院の遺宝群」の名が提唱されたというわけです。
 この平成19年に発見された宝物類については、本年1月20日に「石清水八幡宮摂社若宮社殿内安置厨子収納品」として京都府暫定登録文化財に指定され、本年度からは京都府の補助金を得て、ようやく固着経の保存修理が施されることとなり、中から何が出てくるか、今から熱い注目と期待が寄せられているところです。
 この間、建造物の分野としては、石清水八幡宮本社社殿十棟の国宝指定に向け、改めて関西大学名誉教授・永井規男先生を始め、各専門家による本社社殿の精細な調査・研究が進められ、その成果が『石清水八幡宮本社調査報告書』という一冊の本として結実し、平成26年12月に刊行されました。この報告書の作成にも私が一部関わらせていただきましたが、その過程で新たな考察の進展や思わぬ発見などもありました。
 その一例として、平成27年10月26日に開催された文化庁の文化審議会において、石清水八幡宮本社十棟の国宝指定が答申される直前のことだったと記憶していますが、文化庁の建造物担当調査官が『石清水八幡宮本社調査報告書』の記載内容と現状の建物について最終チェックを行うため一人で当宮を訪れ、私が社殿各所の案内をしていた時のことです。
 その調査官は、図面を片手に社殿のあちこちを見回っていましたが、ある場所に差し掛かると不意に動きを止め、しばらく建物のある特定の部分を見上げたり、手元の図面を見直したり、また少し移動して角度を変えて見上げたり…、そうした不可解な動きをしばらく続けた後に「あそこは何ですかね…」と、独り言のような言い方で私に問いかけてくるのです。何のことかと戸惑いながら、私も調査官の視線の先に目を向けたところ、「ん?!」と、そこで初めて違和感を覚えました。そこは廻廊の屋根の上に建物が張り出したような構造になっていて、平面図には何も示されていないのですが、私の目は確かにそこにある〝未知の空間″を捉えている。
 「いやー、我々も今まで全く気付きませんでした、広さは3畳か4畳…、いやもっとありますかね」などと言いつつ、「できるだけ早く調べておきます」と、その場を取り繕ったのですが、結局のところ今も調査ができていない。そうした謎の空間、未調査領域が、建物の地下部分なども含め何ヶ所も存在しているのですが、人手不足や財政事情等により先送りのままとなっている、というのが偽らざる現状です。とりわけ、これまで率先して様々な〝謎″の解明に取り組んでこられた田中君於氏が、闘病むなしく平成25年11月、終に帰らぬ人となってしまわれたことが、大きな痛手となったことも否めません。

明治維新と昭和敗戦後の混乱

 ところで、石清水八幡宮に所蔵されている文化財は、これまで何度も歴史の大波に翻弄され、危機的な状況に見舞われつつ、今日に受け継がれています。特に近い過去の事例を振り返れば、第一に挙げるべきが、明治元年の〝神仏分離″でしょう。この混乱によって、どれほどの文化財が失われてしまったか、見当もつきません。但し、この時に貴重な宝物類が総て失われてしまったというわけではなく、その多くが男山の故地を離れて別の場所で今も大切に守られています。当時、神仏分離によって男山を追われ、失業してしまった社僧、即ち男山の山内諸坊に居住していた僧侶たちが、当座の生活費に充てるため各坊に伝わっていた豪華な美術品等を売却した例も多かったようですが、それらが日本全国はもとより、今や遠く海外の美術館などにも渡って、往時の輝きを放っているのです。
 神仏分離と言えば、男山の護国寺本尊と十二神将が淡路島の東山寺に、阿弥陀如来坐像が京都市内の誓願寺に、太子堂の聖徳太子像が滋賀県の国分聖徳太子会に、極楽寺の宝冠阿弥陀如来坐像が善法律寺に、開山堂の行教律師坐像が神応寺に、八角堂の阿弥陀如来坐像が正法寺に、豊蔵坊の東照神君が洛北の等持院に、といった事例が示すように、地上の仏教関係施設や仏像・仏具類などは全て山内から外へ移され、撤却されたことは言うまでもありませんが、地下には未だ神仏習合時代の遺構・遺物が残存していたということが、平成22年に八幡市教育委員会が実施した境内発掘調査によって明らかにされ、その成果が同23年8月に刊行された『石清水八幡宮境内調査報告書』に記載されています。
 実は、この発掘調査が行われる前年だったかと記憶しているのですが、石清水八幡宮に一人の若い外国人女性が訪ねてこられました。その方はR.Mさんというロシア人学生で、東京の某大学に留学中とのことでしたが、お世辞にも流ちょうとは言いがたい日本語で、次のようなことをお話しになるのです。
 「信じてもらえないかもしれませんが、私は過去に日本人でした。幼い頃から同じ夢を何度も見ました。その夢の中で、私は大掛かりな儀式に参加しており、とても重要な役割が与えられています。その時の私は、この国の神官でも僧侶でもありませんが、儀式の中で大事なお務めを果たしています。それは、何か大切なものを地面に掘られた穴の中に埋めるという役目です。私は日本に来て、いつかその場所を訪ねてみたいと念願してきました。そして、日本の大学の先生から、その場所は京都の石清水八幡宮ではないかと教えられ、今日ここに来たのです。」…おおよそ、以上のような内容でした。
 私は「おそらくその場所は神仏分離前の護国寺であり、時代は護国寺が再建された江戸時代後期、8代将軍吉宗公の頃ではないか」とお伝えし、さっそく護国寺跡へご案内しました。現地に到着すると、ここに間違いないと確信を深めたのか、一面に草が生え足もとの悪い護国寺跡を歩き回り、所々で立ち止まっては瞑目し、しばらく佇んだ後、晴れやかな笑顔で何度も感謝の言葉を発しつつ、帰途に就かれたのです。その後、お礼状が届いたのですが、これからロシアに帰国しモスクワ大学に戻って勉学を続けることになったと手書きの和文で記され、帰国後の住所や大学の連絡先なども添えられていました。
 その後、前述したように八幡市教育委員会による発掘調査が行われ、護国寺跡の地下から、あの輪宝(りんぽう)と独鈷杵(とっこしょ)が発見されたのです。当時、同教育委員会で発掘調査を主導しておられた小森俊寛氏が、平成22年の12月でしたか、夕暮れ迫る社務所の玄関にやってきて、興奮を抑えきれないといった口調で「たいへんなものが出てきたので、取りあえず報告に来ました」と発掘したばかりの輪宝と独鈷杵を、私どもに見せにきてくださったのが懐かしく思い出されます。
 後日、この輪宝と独鈷杵を組み合わせた鎮壇具(ちんだんぐ)を埋納する天台宗の法要について、当宮の田中朋清権宮司や八幡市教育委員会におられた大洞真白氏を通じ、延暦寺の儀式を掌る実務担当者に問い合わせていただいたところ、あのR.M女史が語っていた通り、神官でも僧侶でもない仲座(なかざ)と呼ばれる人々が、今日においても儀式の実務を掌り、鎮壇具の埋納などにも関わっているとのことでした。
 平成23年8月、『石清水八幡宮境内調査報告書』が刊行され、あの護国寺跡の発掘調査と輪宝・独鈷杵についても詳しく紹介されていたので、すぐに1冊購入し、モスクワ大学のR.M女史宛に「あなたが語っておられた通りでした」と手紙を添え郵送して差し上げたことは言うまでもありません。無論、その後もお礼状などをいただき、石清水に再び訪ねてこらたこともありましたが、今はウクライナ問題や経済封鎖など日露関係も微妙な情勢下、どうしておられることでしょうか…。
さて、明治維新や昭和の敗戦に伴う社会変動によって、様々な余波が神社にも押し寄せてきたことは、これまでにも見てきた通りですが、例えば終戦直後、確か昭和21年か22年の社務日誌に記載があったと記憶していますが、アメリカの進駐軍が八幡にもやってきて、石清水八幡宮が当時所蔵していた武具類のうち、本殿内の神宝御剣(しんぽうぎょけん)を除く他の全ての刀剣類を接収し、持ち去っていったことがありました。その大部分は後に返還されたのですが、調べてみると3本だけ戻ってこなかった刀がある。その3本の刀にどういう意味があったのか、そして今どこにあるのか、謎は未だ謎のままです。
 さらに現段階では詳述を控えますが、ここでは複数の旧華族に関わる重要な〝マル秘″史料が存在するということ、そして今年か来年か、しかるべき時期が来れば宮司の判断により正式に発表することになるだろうと、お伝えするに留めたいと思います。
 石清水八幡宮の文化財に関して、今後の計画としては、現収蔵庫の隣接地に新たな収蔵庫を建設すること、研修センター本館(清峯殿)の一部を展示施設に改装すること、最新版の「石清水八幡宮文書目録」を作成することなどが優先事項として挙げられています。
 当宮の文化財について、もっと包括的なご説明をさせていただこうと思っていたのですが、どうも個人的なエピソード集のような塩梅になってしまいました。石清水八幡宮が所蔵する文化財の一覧表を作成し、お手元にお配りしておりますので、そちらの方もご参照ご利用くださればと存じます。
 その他、「祭祀を通じて思う事あれこれ」など、皆様にお伝えしたいこと、お聞きいただきたいことが、まだまだ沢山あるのですが、私に与えられたお時間もそろそろ尽きてきたようですので、いつかまたお招きいただけるようでしたら、その機会にお話しできればと思います。長時間にわたるご清聴、ありがとうございました。

添付資料(講演会で配布された「石清水八幡宮の文化財一覧」)
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一 口 感 想

八幡様に奉職される迄の素直なお話、お人柄を感じられました。
男山のヤマアイの地下茎を天日干にて粉にして染めていたことや経年すると赤紫、茶になる。マダケが新嘗祭に柏葉とマダケで、御箸、皿、箱膳を製作する様子が興味深かった。文化財についてもエピソードを交え語られリアルな感じを持って拝聴しました。 (E・T)
西さんのお話、解り易く楽しい時間でした。八幡宮をもっともっと多くの人に関心を広めたいものと思います。 (I・K)
国家鎮護の宗廟としての石清水八幡宮の位置付けが新嘗祭・本殿遷座祭にまつわる数々のお話を通じてよく理解できた。
また、石清水八幡宮の文化財の管理・継承が明治の神仏分離、昭和の敗戦の混乱等、歴史の混乱の中で懸命に対応されたことにより、今、我々は眼にすることができることに感銘するとともに誇りに思います。 (О・T)
祭祀に関するさまざまな裏話(?)ご苦労など興味深く聞くことができました。
全般に面白いお話でよかったです。 (K・K)
未だ、判らぬことも多そうだ。廃仏毀釈時に不明になっている宝物もかなりあるのでは。 (K・Y)
いろいろおもしろいエピソードを聞けて良かったです。 (S・M)
石清水八幡宮にはたくさんの職員の方がおられるのに、未だに未知のことがあるというのに大変驚いた。徒に倉庫等を漁る職員がおられないからだろうが、さすがと思うと同時に、新しい発見があり古くからの遺産が正しく引き継がれていくことを願います。興味深いお話の数々ありがとうございました。 (T・M)
始めての参加で、おもしろかったです。 (N・K)
外から見えない校倉や神庫からの新発見の神像や未調査空門などの話はとても興味ある内容でした。今後共まだまだ新発見の期待大の石清水八幡宮であるので楽しみに待ちたい。長年に亘る西さんの経験の豊富さには驚くばかりでした。 (H・N)
大変貴重なお話しありがとうございます。学生時代の民俗学への興味から神道の本来の姿をお話しいただきなるほどと感じました。 (B・K)
西禰宜のヒューマニテイあふれるお話し大変おもしろく聞かせていただきました。八幡さんにのぼってお会いすると毎回くだらない質問をしています、やさしく親切に答えて下さる西さんですが、今日は深い内容を解り易く聞かせて下さいましたね。文化財の担当者として、様々なエピソードを聞かせてもらったことも楽しかったです。是非また機会を作っていただきたいです。 (F・N)
石清水八幡宮と皇室の関係や貴重な文化財の裏話などが聞けて、よい経験になりました。 (F・T)



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by y-rekitan | 2022-07-27 10:00 | 講演会・発表会
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