上司海雲と橋本の渡し 神亀二年(725)、行基によって橋本、山崎の間に山崎橋が架橋されるが、橋は 繰り返し洪水によって流失するので、中世以降には渡し船がもっぱら活躍した。 渡し船を偲ばせる遺跡として、明治二年(1869)建立の中ノ町の道標(写真)と三宅安兵衛遺志碑2基が西遊寺門前に建つ。名残を伝える小説『蘆刈』はよく知られるが、谷崎潤一郎、吉井勇と共通の友人であった東大寺の上司海雲の随筆を抜粋して紹介します。「私が渡しを渡ったのは一昨年のことです。彼岸も既に過ぎた晩春のこと、八幡志水の宝青庵に歌聖吉井勇さんを訪ねての帰途、向日町の陶工河合卯之助さんの案内で橋本に出て遊廓を通りぬけ川を渡って大山崎に出たのでした…。」その年の師走に再び吉井さんを訪ねての帰りの渡し場で、お祭りとかでへべれけに酔った船頭さんが水に落っこちて、ぶるぶる震えていた。代理の船頭さんが「おかげで今日一日休みなしや!」とこぼすと、乗客がどっと笑う。暫くこののんびりした空気に酔っていましたが、迷える宗教家の、現に溺れている自分の姿を見る思いがして、急に笑えなくなって、迷いの彼岸に沈んでいったのでした。 (文と写真 谷村 勉)空白
by y-rekitan
| 2023-01-28 12:00
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