松花堂と大谷治麿のこと 114号

《会員研究発表》
松花堂と大谷治麿のこと

2023年2月 松花堂美術館講習室にて

谷村 勉 (会員)
 2月16日午後2時より八幡市立松花堂美術館講習室において表題の会員研究発表がありました。今回の講演にあたっては大谷眞二様(大谷直の曽孫)から全面的なご協力を頂いたことや貴重な資料提供もあったとお聞きしています。研究発表には大谷家ご子孫5名の方も参加されました。
 研究発表会の参加者は満席の43名でした、講演の概要は研究発表者の谷村氏に纏めていただきました。(会報編集担当)
 
                       
慶應四年(明治元年)以後の時代背景

 慶応四年一月三日午後5時頃に開戦となった鳥羽伏見の戦いは六日には八幡・橋本で最後の決戦が行われ、橋本砲台(当時は橋本砲台と呼称)の対岸、山崎に守備する津藩砲台からの砲撃により幕軍は総崩れとなって戦いの決着がついた。戦場となった八幡・橋本地域の民家や神社仏閣はその多くが炎上し、大被害を被った。

神仏分離政策

 王政復古とともに新政府が打ち出した最初の政策が「神仏判然令」であった。これは版籍奉還や廃藩置県よりも早く、維新のかなり以前から準備されていたものであることが判る。神仏判然令とは慶応四年(明治元年)三月十七日「神祇事務局ヨリ諸社へ達(たっし)」を初見とする一連の布達の総称であるが、松花堂と大谷治麿のこと 114号_f0300125_12024501.jpgまず「今般の王政復古は悪い習慣を一掃することにあり、諸国大小の神社において、僧の姿のままで別当あるいは社僧などと称して神社に仕えている僧侶に対しては復飾(還俗)を仰せつける」と通達した。神主を兼帯していた僧をすべて還俗(髪をのばす事)させるとした。つづく三月二十八日の「神祇官事務局達」では仏像の神体を取り払い、本地仏・鰐口・梵鐘・仏具の類も取り除き、神社・神前から仏教的要素の排除を命じた。その後次々と繰り出す太政官布告や太政官達に八幡でも激震が走った。石清水、宇佐、筥崎などが使う八幡大菩薩の称号を禁止して、八幡大神と称するように規定された。このため石清水八幡宮は男山八幡宮に、日吉山王権現社は日吉大社に、金毘羅大権現は金刀比羅宮に、奈良多武峰の妙楽寺は談山神社に改称される。その後、仏教色の濃い神社では軸物・経巻・仏具類など仏教的なものが焼かれるなど、廃仏毀釈の嵐が全国に吹き荒れた。
 八幡でも当時の『森本信徳日記』を見ると現場の空気の一端が伝わってくる。「慶応四年閏四月五日、御社頭勤番所より案内があり、明日六日社務中勤番所へ罷り出る様申して来た。先だって、四月三日御内殿の仏具類や御法服を入れた唐櫃を撤去し護国寺並びに開山堂に奉納した。また社務中御殿司の杉本坊付弟親章が立ち合いに入殿し、本社内陣の仏教関係の図像器具等の撤去が評議されたが、その処置に関して容易に決定されなかった。
 当時神祇局の命令により、三家、すなわち田中、南、菊大路の三氏が1年交代をもって社務を執り、諸職を統率することになっていたが、実は三家に権威がなかったもので、万事一同協議したのであるが、六位(禰宜)森本信徳、神宝所谷村伊織等二三人が大に尽力して、一同の中心となっていた。この際、社僧は皆復飾して俗名に改め、急に妻帯するに至った。しかるに山上の諸坊は撤廃されることになり、住宅も無く、諸大名の祈祷料は廃絶したから、日々の生活も支えられないこととなり、大いに窮迫するに至った」

版籍奉還明治二年一月毛利元徳(長州)、島津忠義(薩摩)、鍋島直大(肥前)、山内豊範(土佐)の各藩主は、「版籍奉還」(天皇へ土地<版>と人民〈籍〉)を返還する事を願い出た。すなわち土地と人民は朝廷へ返還するもので、同年六月に勅許され、混乱もなく行われたのは、各藩主は版籍を奉還しても政府から再交付されると考えていたようで、殆どの旧藩主は知藩事に任命され、非世襲の地方行政官として、政府直轄地と同様の政策を行うことが求められた。 (国立公文書館)
廃藩置県明治四年七月知藩事に「廃藩置県」の詔が下される。
政府は薩摩、長州、土佐の三藩から御親衛を募り、軍事力を背景に廃藩置県を実施した。これにより藩は県と改められ、知藩事の代わりに県令が派遣された。(公文書に見る明治/国立公文書館)
寺社領地寺社もまた藩と同様に農民に年貢を課す領地を持っていたが、廃藩置県に先立つ明治四年一月五日の上知令により境内を除いて国に没収された。政府の上知令では江戸時代に認められていた寺院と神社の領地(寺社領)が1871年(明治四年)と1875年(明治八年)の2回の上知令により没収された。この背景には廃藩置県に伴い、寺社領を与える主体であった領主権力が消滅したために寺社領の法的根拠も失われたこと、また、旧大名の所領(藩有地)を国有地としたこととの均衡上、寺社領も国有地化してしかるべき状態になったこと、さらに地租改正によって全ての土地に地租を賦課する原則を打ち立てるため、寺社領を含めた全ての土地に対する免税特権を破棄することを目的としていた。

近世瀧本坊の主な住職期間

瀧本坊乗祐?~天正19年(1591)2月22日。
天正10年(1582)本能寺の変の時、近衛前久に便宜を図り、瀧本坊繁栄の礎を作る。千利休と交流を持ち、利休自刃6日前に没す。
瀧本坊実乗天正19年~寛永4年(1627) 
小川土佐守伊予国今治七万石次男 小川土佐守祐忠(すけただ)は 関ケ原合戦後に改易となる。茶道具資産を多数残す。
瀧本坊昭乗寛永4年~寛永16年(1639)9月18日(56歳没・松花堂行状)
寛永4年に瀧本坊を継承する。寛永15年・16年、泉坊を建立し松花堂昭乗と名乗る。公家、武家、僧侶他多くの文化人と交流し、後世「寛永の三筆」の一人と称される。
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奥  文鳴(安永2年/1773~文化10年/1813)、八幡宮警固社士出身と伝わる。
 父道栄(医師)と丸山応挙は親しく、文鳴は応挙に師事し、丸山応挙一門の絵師として活躍する。兵庫県大乗寺(応挙寺)の応挙襖絵や一門の作品は秀逸である。
 応挙十哲:駒井源琦(げんき)、長澤芦雪、山跡鶴嶺(やまあとかくれい)、森 徹山、吉村考敬(こうけい)、山口素絢(そけん)、奥 文鳴(仙斎円山先生伝/最も信頼される応挙の伝記を作成)、月僊(げっせん)、西村楠亭(なんてい)、渡辺南岳、 

松花堂の移転

 令和2年3月31日に八幡市教育委員会から発行された「名勝松花堂及び書院庭園保存活用計画書、資料1-3-4 調査報告 綴喜郡 第三 東車塚庭園 六、松花堂及泉坊の移転 」についても基本資料である京都府編『京都府史蹟名勝天然紀念物調査報告』第13冊、臨川書店、1932、pp62から以下の文章が引用されている。

「(前略)然るに明治維新となるや、男山八幡も亦大改変に遭ひ、殊に神仏分離の時変にあたつては男山に多年昌栄を誇りし社坊も一切停止の運に遭ひ、京都府にては明治七年の頃槇村知事が社坊取払を厳命するあり。男山にては当時、瀧本坊の住職は乗道といひ泉坊のそれをも兼ねたり。即ち取払の命急なるや、泉坊の客殿は当時山麓にありし大谷治麿(中山忠光卿の兄)へ六百両にて売られ、其の邸地に移されたり。其地は八幡町字山路(今土地台帳には山柴といふ) といひ放生川の買屋橋のたもとにして、其址今、井村氏の有となれり。其後大谷氏の去るや、 件の客殿は明治十三年また山路より八幡町志水の南端即ち西車塚の前方部の東方に移されたり。然るに此場所は低くして洪水等の憂あれば明治二十四年井上忠継氏(伊三郎)、即ち西村芳次郎氏の父は之を譲受け、更に東車塚の地に移し、なほもとの泉坊の庭園をも此処に移したり。(この移転に与りし大工は八幡志水の人藤下常次郎にして庭師は伏見の人植木屋幸七なり。) かくの如くにして、八幡宮の坊舎にして、昭乗と縁故深き松花堂と泉坊の客殿庭園は、今や、東車塚なる一大古墳の上に築かれて、合せてこゝに保存せらるゝに至りしなり。(後略)」

 令和2年(2020)に発行された上記の「松花堂及び泉坊の移転」の文章は『京都府史蹟名勝天然紀念物調査報告』(昭和7年)からの引用であるので、今回の調査で京都府行政文書等によって検証すると傍線部分は以下のようになると考えられる。
瀧本坊の住職は乗道→瀧本坊住職は瀧本乗親、泉坊住職は泉乗輝とある。
山麓にありし大谷治麿→大谷治麿とは記録には出て来ず、正確には大谷直である。大谷直は中山家四男で、明治4年に分家した際、中山治麿から大谷 直と改名する(謄本等)
中山忠光卿の弟→中山忠光卿の兄が正解、大谷直は四男、忠光は五男である。
其後大谷氏の去るや→八幡から退去したと錯覚するが、実際は八幡志水に
 転居、明治34年頃まで居住す(一位局執事封書等)

 中村武生氏は京都府行政文書から引用した「松花堂及び泉坊移転」に関する文章を平成28年(2016)5月、弊会会報に投稿を頂いているので以下にその一部を紹介します。
  ―歴探会報第73号『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出―より

 「以下、京都府の行政文書などによりその経緯を述べます。
 明治初年、新政府の神仏分離方針及び上知令により、男山石清水八幡宮の坊(寺院)建造物が悉く破棄され、土地が摂取されました。1874年(明治7)8月には、男山山上に社人も居住を認めない沙汰がありました。ほとんどの住人が下山したなか、大谷直(治麿、中山忠能四男)は、2年前に泉乗輝旧宅(旧泉坊)の建物を170円(当時)で購入し、普請を加えて居住していたため当惑し京都府へ善処を求めました。この建物が泉坊客殿や松花堂などであったと思われます。
 同年7月(8月もしくは9月の誤りか)21日、府役人と思われる水上燈成が見分した上で、山下への建物移築の補助金の見込みを伝えたようです。府庁の都合でこの返答は遅れます。大谷自身や当時八幡荘第一区戸長でした井上伊三郎(前述した西村芳次郎の父)らの再三の督促を受けて、1876年(明治9)3月、京都府は大谷の居住地について「乙第四拾九号達ノ内、社人屋敷地所分規則ニ照準シ追テ山下之積り当分拝借地ニ可申付哉」と判断します。1872年(明治5)以前、旧泉坊敷地のうち9畝22歩(291坪5合)が泉乗輝から嶋村政保へ渡り、大谷はそれを借地していました。これが上知され、将来は山下に転居する見込みでしばらくは居住を許す方針をもちました」(明治9、明治5の6文字追加)
 
 上記の記述を見ながらもう一度京都府行政文書を確認すると、大谷直は明治5年(1872)に、当時の泉坊の持ち主であった嶋村政保(八幡宮仕丁座神人一族と思われる)から泉坊を170円で買い取っている。土地は上知されるが建物については普請を加えて居住していたので京都府に善処を求めていたところ、明治7年7月頃、役人水上燈成が見分に来たものの正式な返事は遅れる。その後も大谷直や戸長であった井上伊三郎の督促によって明治9年(1876)、当分の間拝借地として認められることになるが、その後のいきさつは行政文書に現れない、しかし少なくとも明治9年の時点でも建物の移転はなかった事が分かる。
 その後、建物が山下に降ろされて、現在の東車塚古墳跡に移される途中の経緯は省略するが、井上伊三郎の79番地の土地取得については、明治30年(1897)4月13日、登記簿から女郎花79番地(東車塚古墳)の土地を取得したことが判る。 翌明治31年(1898)2月21日、井上伊三郎が泉坊客殿の一部を取り込んで建築した書院が上棟する。〈書院棟札〉

大谷直に繋がる中山家の主な人々

中山忠能(ただやす)文化六年(1809)~明治廿一年(1888) 明治天皇の外祖父。
尊王攘夷派であったが、勅命により安藤信正(老中)の公武合体運動に加わり岩倉具視らと和宮降嫁に尽力し,尊攘派志士に弾劾される。のち討幕派となり,討幕の密勅案を奏上。王政復古とともに議定となった。後に大正天皇の養育にもあたる。
中山忠愛(ただなる) 天保三年(1832)生 中山忠能卿長男。
中山慶子 (よしこ)天保六年(1835)十一月廿八日生 慶子(よしこ)は孝明天皇に典侍として奉仕し、祐宮(さちのみや)の降誕あり、一位の局。明治天皇ご生母。
正親町公董(きんただ)天保十年(1839)一月廿四日生中山忠能卿次男幼くして正親町實徳に養われる。
中山治麿(大谷直)天保十四年(1843)四月八日生 明治三十八年(1905) 没63歳。中山忠能卿四男 明治四年(1871)六月十五日中山家から分家して、大谷姓になる。分家の際、中山治麿から大谷直と改名する。
中山忠光(ただみつ)弘化二年(1845)四月十三日生、元治元年(1864)十二月八日没20歳。中山忠能卿五男。安政五年(1858)十四歳の時、明治天皇侍従に任ぜられ、祐宮の遊び相手として常に皇子と共にあった。忠光の教育には中山家諸大夫田中河内介・瑳麿介親子が当たる。天誅組主将として文久三年(1863)奈良五條に挙兵する。
大谷源蔵     高槻藩(13代藩主永井直諒(なおまさ))御典医鈴木家から大谷家に入る。
 石清水八幡宮神官を経て八坂神社へ主典として勤仕している。なお、高槻藩13代藩主永井直諒とは寛永時代淀藩主永井尚政(なおまさ)の弟で、山城長岡藩主から摂津高槻藩主に就いた永井直清(なおきよ)の末裔である。

天誅組主将中山忠光を尋ねて

 去る2月、大谷直の手掛かりを求めて奈良五條の五條市民俗資料館、天誅組本陣跡(桜井寺)、新町通り景観保存地区を訪ねた。景観地区の「まちなみ伝承館」で街の説明を依頼したところ、いよいよ話が天誅組のくだりになると担当者は俄然熱気を帯びてきて、ついに忠光卿遺児「なか」さん(後、嵯峨侯爵夫人)の孫「浩(ひろ)」さんがラストエンペラー愛新覚羅溥儀の弟溥傑に嫁して満州へ渡る話にまで及んだ。街には今もなお忠光卿に敬慕の念を持つ人々の多い様を実感した。
 この日幸いなことに民俗資料館で地元郷土史家の書いた書籍の中に天誅組の中心人物中山忠光卿の系図の記事を見つけた、四兄大谷直(出家興福寺惣珠院)と記されていた。早速、家に帰って信頼する資料に当たり同じ記事を確認する。
 一般に中山家の系図に中山治麿の記載はないが、その理由が分かった。「出家」であれば家系図から削除される由、三兄公憲(出家東大寺正観院)の記載もない。

中山治麿(大谷直)分家する

 興福寺といえば五摂家をはじめとして公家出身の僧侶が多い寺院、「戊辰(慶応四年・明治元年)四月に太政官にさしだした興福寺の院主の名簿によると、総数二十七人、ことごとく公家の子である」(街道をゆく24司馬遼太郎)松花堂と大谷治麿のこと 114号_f0300125_18281407.jpg
 明治初年に始まる神仏分離政策によって甚大な被害を受けた寺院としても世に知られている。僧侶は全員還俗したと伝わり、この時中山治麿も還俗して八幡へ来ることになったものと思われ、後に泉坊の建家を嶋村政保から買得することになるが、おぼろげながら買得の理由も理解される。もちろん奈良一乗院の歴史や中沼元知や松花堂昭乗のことも充分ご承知であったろうと推察される。
 中山治麿(大谷直)は八幡が大層気に入っていたらしい。関係者のお話しによれば、明治四年に分家して大谷家を創設した際、大谷姓は大谷川から採ったと伝わる、と聞いた。また当時は公家衆の出家や養子・実子縁組、分家はよくみられたもので、中山治麿の明治4年の分家に際しては本家からおよそ900両が分与されたとの事、泉坊建家600両(行政文書では170円)はこの内から支払われたものと合点がいった。
現在、泉坊客殿や松花堂が神仏分離の災難から唯一残された坊舎としての存在は、実に大谷直の意思に拠るところが大きく、その後にも井上伊三郎、西村芳次郎、西村大成(だいじょう)に継承される幸運を得たことを忘れてはならない。

維新後の八幡宮宮司一覧

田中有年(昇清)(1849-1886)<1868-1868,1871-1872在任期間>:最後の検校。修清の子。1861年(文久1年)7月13日、石清水八幡宮検校。1868年(明治1年)4月28日、神仏分離に伴い、還俗して田中有年に改名。同年、神祇官より三家にて社務職を一年交代で務めるように命じられ、5月から12月まで石清水八幡宮社務職。1871年(明治4年)石清水八幡宮社務職に再任。6月18日神社改正で社務職や位階など廃止。1872年(明治5年)1月14日、石清水八幡宮神勤を免職となる。1886年(明治19年)4月10日死去。38歳

梅渓通善 <1871-1872在任期間>:子爵。元治1年 (1864)6月15日、宇佐神宮勅使。1871年(明治4年)12月2日から1872年(明治5年)3月25日まで「男山八幡宮・平野神社・稲荷神社等御改革御用掛」

藤大路納親(1827-1894)<1872-1872在任期間>:奈良華族。堀河康親の子。興福寺延寿院住職。1869年(明治2年)3月、藤大路家を立て堂上に列す。1872年(明治5年)6月12日、男山八幡宮・平野神社・稲荷神社の大宮司。1894年(明治27年)死去。(兄は岩倉具視)

梅渓通治(1831-1916)<1872-1873在任期間>:公卿。子爵。八十八廷臣の一人。梅渓通善の長男。天保2年(1831)生。明治5年(1872)7月12日、男山八幡宮大宮司、兼平野神社大宮司・伏見稲荷大社大宮司。明治10年(1877)12月28日、男山八幡宮宮司再任。大正5年(1916)3月4日死去。

木場清生(1817-1891)<1882-1884在任以下同じ>:鹿児島藩士。

福原公亮(1827-1913)<1884-1886>:山口藩士。

松原貴速(1831-?)<1886-?>:志士・内務官僚。

大貫真浦(1850-1916)<1894-1900>:平田派の国学者。下野国出身。

貴島磯麿(?-1910)<1901-1901>:1896年(明治29年)2月4日安仁神社宮司

〇田中俊清(1868-1947)<1901-1937>:1868年(明治1年)生。田中昇清の養子。大阪天満宮社家の滋岡孝長の三男。1901年(明治34年)12月19日、男山八幡宮宮司。1902年(明治35年)従六位。1907年(明治40年)正六位。1914年(大正3年)従五位。1918年(大正7年)1月18日、男山八幡宮を石清水八幡宮と改称。1937年(昭和12年)8月27日退任。1947年(昭和22年)死去。

副島知一(1874-1959)<1937-1957>初代京都府神社庁庁長。佐賀県出身。

田中文清(1905-1999)<1957-1986>1982年(昭和57年)神社本庁長老。
1999年(平成11年)5月24日死去。

田中弘清(1934-2014)<1986-2001>平成13年まで宮司。1992年(平成4年)京都府神社庁長。2014年(平成26年)7月8日死去。

田中恒清(1944-)<2001->1944年(昭和19年)生。2001年(平成13年)7月1日宮司。2010年(平成22年)、神社本庁総長。田中恆清。

八坂神社杉谷宮司

 〇杉谷正隆(1865-1945)<1925(大正14年)-1929(昭和4年)>:熊本県出身の神職。1894年(明治27年)5月、玉前神社宮司。同年7月27日、安房神社宮司。のち浅間大社宮司、氷川神社宮司、香椎宮宮司、平安神宮宮司、八坂神社宮司、乃木神社社司を歴任。(略歴は平安神宮組織を参照)(大谷源蔵は杉谷宮司の時には主典として八坂神社に勤仕していた)

主な参考資料
 「中山忠能日記」日本史籍協会叢書 (東大出版会)
 「石清水神社神仏分離調査報告」鷲尾順敬
 「炎は消えず―夜明け前の志士達の足跡を訪ねて―」入野 清
 「実録天誅組の変」舟久保藍 (淡交社)
 「天誅組の主将中山忠光」正親町季董 (やまと刊行会)
資料提供
  大谷眞二(大谷直の曽孫)  
  中村武生(歴史地理史学者、京都女子大非常勤講師) 

『一口感想』より

大谷 直の文献一つ一つ検証され、明治維新の動乱期を浮き彫りにしていただき実に興味深かった。
また、明治天皇 中山家と大谷直の関連を通して、八幡のかかわりを知ることが出来た。更なる今後の研究に期待がふくらむ。 (0・T)
詳しいお話に感心しました。
コミバス1時間早く来るべきでした。画面が見えにくいので早く来て、前側に座るべきでした反省しています。ありがとうございました。 (K・F)
初めて知る「大谷治麿」と人物のお話をして下さる谷村さんに勉強させてもらい感謝しております。今日の続きの講演を期待します。 (※・※)



 
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by y-rekitan | 2023-03-30 11:00 | 講演会・発表会
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