(奈良再発見!⑥) 谷村 勉 (会員) (*いよいよ古代大和の中心部へ入ります) 廿八日楊本(やなぎもと)天神にまいり。あなし川をわたり桧原、大御輪寺にまいりたりしに。寺のさまうるはしくよのつねの作りさまあらす。くさびなといふ物をもちゐずつくれるさま物語せり。かたはらに三輪明神の王子入定の所あり。王子宝殿に飛いらせ給ひしときの両足の跡顕然としてあり。錦にておほへり。ひらきみるに其跡いさゝかふみちかへり。現当を表し給ふ由神秘なと語りけり。殊勝の事ともなり。是より三輪にもうてけるに神前のさまことさら神さひたるに苔むしろ草筵しきて。彼範尭盃さしいて此所のはしつかとて名有物なるよし申て。寒食の糕(こう)端午の粽(ちまき)とりぐしたる物さし出て。酒しゐそして思ひつゝけるよし申けり。 『訳文』 二十八日楊本天神に参り、穴師川を渡り、檜原神社を経て大御輪寺にお参りしてみると、寺の様子は荘厳で世間一般の作り方ではない。楔(くさび)や釘を使わず造営したことを説明してくれた。その傍に、三輪明神の王子が身を隠したところがある。王子が宝殿内に飛び込まれた時の両足の跡がくっきり残っている。それは錦の布で覆ってある。広げてみると、両足の跡が少し踏み違っている。そのことは現在と未来とを表すという不思議な由緒を語っている。まことに尊い事である。 これより大神神社に参詣すると、神前の趣のとりわけ神々しく思われる所に苔筵、草筵敷きて、楊本範尭が酒杯の準備をして、箸塚(箸中村)というこの土地の名産品である旨を言って、寒食の飴(羊羹のような唐菓子)と端午の粽を取り合わせた物をさしだし、酒を強(し)い進めて、思案したという次の歌を詠じた。 年ふとも 又や待見ん 三輪の山 はなの都の 袖のにほひを とりあへす 『訳』早速に返事を、(花の都人の袖の匂いを、年を経ても、又待ち見ることです。この 三輪山で) (楊本範尭(のりたか)) うちとくる 心もあやし 三わのやま たつぬる我を しる人にして ふかくたれとなくて過ぬるを見顕しけるにやとて、(うちとけていく心も妙なもの、三輪山を初めて尋ねた私を前から よく知っている人のようにされるので) (公条) 『訳文』私がだれかは深く隠してきたのに、都人と知ってしまったのかと いって、 花の香は とかむはかりも 三輪の山 しかもかくるゝ 人のかたちを 是より範尭(のりたか)は帰にけり。さののわたり過るほど風いたく吹てあま風にやなと申ければ。空は一点の雲もなし(梅の香で人を咎(とが)めあやしむものだが、この三輪山では 身分を隠し、忍ぶ衣の袂の香でその人と見あらわれたことだ)(紹巴) 『訳文』ここから範尭は帰って行った。佐野の渡りを過ぎるころ強く風が 吹いて、人は雨風ではと言ったが、空には一点の雲もない。 俄にもふりこむ雨の雲もなしこまうちわたす佐野ゝ夕風 (急に雨の降る気配の雲も見えず、馬を歩ませ渡る。夕風の吹く佐野の 渡りでは) (公条) ◎楊本(やなぎもと)天神・(天理市柳本町1898) 『詣記』に橋本大神とあるが、楊本天神の誤りで楊本天神は伊射奈岐神社の別称。 崇神(すじん)天皇陵古墳(行燈山古墳)とされる周りにはいくつかの陪塚(ばいづか)(遺物のみ埋納)がある。 その一つに古墳の前の国道(169号)西側に天神山古墳がある。国道の開通によって古墳は半壊しているが、方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)六面、内行花文鏡(ないこうかもんきょう)四面、画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)四面、三角縁変形神獣鏡(さんかくぶちへんけいしんじゅうきょう)二面など何と二十三面の鏡を出土した竪穴式石室を持つ、全長113mの前方後円墳であった。この天神山古墳の北側に伊射奈岐神社(楊本天神)の東参道がある。伊射奈岐神社の祭神はイザナギ・イザナミの両神と菅原道真を配祀し、『延喜式』(延喜五年・905に編纂開始された律令施行細則)にも記載される式内の古社である。古代大和国の基盤を整え、初国(はつくに)しろしめす天皇と称賛される崇神天皇の山の辺の道にある陵の、その前になぜ伊射奈岐神社が祀られるに至ったか、詳しいことは分からないが誠に興味深い。岡田精司氏(元三重大学教授・古代史)は淡路(イザナギの本拠地淡路島)の海人による御贄(みにえ)の献上と関係があろうとしている。貞観元年(859)に従五位の神階授与があり、織田大和守尚長(織田有楽五男)の代より藩社として重きをなした。石上神宮、内山永久寺、長岳寺、楊本天神と歩んできたがこの辺りから、いよいよ古代大和の中心部に入った感がある。 ◎檜原神社・(桜井市三輪1422) 三輪山麓の山の辺の道沿いに大神神社の摂社、檜原神社がある。原始の神社の姿を彷彿とさせる檜原神社には拝殿、本殿もない。 鳥居は二本の柱に注連縄が張られているだけで、それが簡素かつ神聖な空気を漂わせて、実にすがすがしい。北は巻向(まきむく)川、南は玄賓(げんぴん)谷に区切られる台地で、三輪山の西北にあたる。『日本書紀』崇神六年の条によれば、第十代崇神天皇の御代まで天照大御神、倭大国魂の二柱は宮中に祀られていたが、神の勢を畏れ皇女豊鍬入(とよすきいり)姫命に託(つ)げて、初めて宮中を離れ、この「笠縫邑(かさぬいむら)」に移し祀られた。そこが檜原神社で、「元伊勢」と呼ばれるゆえんである。 鳥居を越えて、振り返れば注連縄(しめなわ)の向こうに二上山(ふたかみやま)を望む、万葉集には「三輪の檜原」と詠われて山の辺の道の歌枕となっている。 中大兄皇子は天智七年正月新天地の大津宮で即位した。 この遷都は大和の民衆の抵抗に抗して強行であった。白村江の戦いに惨敗して帰国し追い詰められた形の中大兄皇子にとっては、遷都はやむにやまれぬ選択であった。立ち去ろうとしている大和と別れがたいのは、中大兄皇子も額田王も同じであった。神の山であり大和の象徴である三輪山の麗姿に別れを惜しむ気持ちを額田王が次のように詠みあげたことはよく知られている。三輪山は檜原神社の西の井手池の辺りからが最も美しく、車谷の集落を離れた北西方向からの眺めも良い。 ◇三輪山との別れ(『万葉集』巻一、17) うまさけ 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠(かく)るまで 道の隈(くま) い積(つも)るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(さ)けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや 額田王 反歌に「三輪山を然(しか)も隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや」がある。 【口語訳】三輪の山が (あをによし) 奈良の山の 山の端に 隠れるまで 道の曲がり目が幾重にも重なるまで 十分に 見続けて行きたいのに 幾たびも 眺めたい山だのに つれなくも 雲が 隠してよいものか (『萬葉集一』日本古典文学全集2 小学館) 「うまさけ」は「三輪」の歌枕。 公条一行は穴師(あなし)川を渡って三輪山麓の山の辺の道をまわって檜原神社に至るが、穴師山の麓の谷間は車谷と呼ばれる。穴師川の豊かな水量を利用して製粉などの水車をめぐらせていたため、車谷と呼ばれるようになった。三輪素麺の故郷である。三輪山と穴師山の谷水、さらにその奥の巻向山と三輪山の谷水を集めて下流の箸(はし)墓(はか)の南西の大泉で大和川の上流初瀬川にそそぐ。『万葉集』巻第七には柿本人麻呂歌集出典の歌が多く収められるが、この歌には巻向や穴師川、三輪の檜原の景観を詠った歌が多く含まれることから、山に近く川が急流をなす車谷辺りに、若き柿本人麻呂の住居があったといわれている。 ◇「川を詠む」柿本人麻呂 『万葉集』巻七、1100 巻向(まきむく)の 痛足(あなし)の川ゆ 行く水の 絶ゆることなく またかへり見む (巻向の穴師の川を行く水のように、絶えることなくまた来て眺めよう) ◇番外 巻向の穴師 巻向川の一部である穴師川は穴師山の名に由来する。景行(けいこう)天皇陵から山の辺の道に沿って南に向かって、穴師山西端の道に入り、そのまま穴師山の坂を登ると景行天皇纏向日代宮(まきむくひしろのみや)跡碑に出会う。 坂を登りきったところに穴師大兵主(あなしずおおひょう)神社がある。農事や武勇の神であるが、後に御食津神(みけつのかみ)(食物と繁栄の神)を勧請、さらに巻向山桧原にあった巻向坐若御霊神社(まきむくにいますわかみたま)じんじゃ)もここに移した。社殿は左に大兵主、右に若御霊、中心に兵主紳御食津を祀るようになり、総称して穴師社(穴師坐兵主神社)と呼ばれている。 大兵主は武勇の神であったから相撲の祖神と伝えられる。穴師社入口の鳥居右の広場には、日本最古の土俵があり、野見宿祢を祭神とする相撲神社がある。垂仁天皇の時代、當麻蹶速(たいまのけはや)と野見宿祢(のみのすくね)による天覧相撲が行われた場所(カタヤケシ)とされている。昭和37年、桜井市出身で京都在住の文芸評論家保田與重郎(やすだよじゅうろう)氏の働きかけで、当時の日本相撲協会時津風理事長や幕内全力士が訪れ、大鵬、柏戸の両横綱による土俵入りが奉納された。 ◎大御輪寺(だいごりんじ)(大直祢子神社・桜井市三輪) 一行は山の辺の道をさらに南下し『万葉集』に「うまさけ三輪の山」と歌われる三輪山の山容に迫り、大美和社展望台から大和三山を俯瞰しながら狭井神社へと入って行く。古代人はこの山を「三諸の甘奈備」「神岳」「神山」「真穂御諸山」などと呼んで朝な夕なに仰ぎ見た。いまも山そのものが神体山(お山)としてまつられている。 大御輪寺とは大神神社の神宮寺であった。二の鳥居に向かう道沿いの北側(右)の鳥居を入った、現在の大直袮子(おおただねこ)神社(若宮)がその跡。この若宮は、オオタタネコを主神とする社ともいう。大直祢子(おおたたねこ)とは『古事記』では父が大物主神であり、母が活玉拠毘売(いくたまよりびめ)とし、『日本書紀』では、大物主と活玉拠毘売の間に生まれた櫛(くし)御方(みかた)命の子孫として大直祢子を位置付けている。いずれにせよ大物主の神裔が大直祢子であるとしている。社殿は弘安八年(1285)の建立と伝え、大和の神社建築のなかに注目すべき重要文化財の社となっている。桜井市聖林寺の国宝十一面観音は、神仏分離以前は、この大御輪寺にあった。江戸期では本堂、三重塔、護摩堂、経蔵、鐘楼、回廊などがあったが、明治二年に廃寺となった。 ◎大神神社(桜井市三輪1422) 三輪明神、大物主(おおものぬし)神社ともいう。三輪山を神体と拝する、我が国最古の神社と云われ、大和国一宮。『延喜式』神名帳に「大神大物主神社」とある。御神体は三輪山そのもので、大きな本殿と見えるのは実は重要文化財の拝殿で、西向きに建つ。この拝殿は寛文四年(1664)四代将軍徳川家綱の命で造営したものという。拝殿左右に渡り廊下があり、廊下に沿って拝殿の奥正面に進むと、有名な三鳥居が建つ。三鳥居の独特の形は、大物主(おおものぬし)大神・大己貴(おおなむち)神・少彦名(すくなひこな)神の三祭神に対応するとみなされている。三鳥居と左右にある瑞垣の欄間彫刻はいずれも重要文化財、その鳥居を通して神体山三輪山を直接拝むことになる。 以前、神社祭事「鎮花祭(はなしずめのまつり)」の折に拝殿に入って三鳥居の形式を目の前で見たが、古代より幾星霜を経た独特の建築構造は初めて見る重厚なものであった。 神奈備とか御室とはこのような山や森を、神が住むところとして云うが、『古事記』では活玉依毘売(いくたまよりびめ)が夜ごとに来る夫の衣の裾に巻糸を付け、鉤穴からたどってゆくと美和(三輪)山についたので、三輪の大物主神と知ったという話がある。『日本書紀』では倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命が、朝の櫛笥(くしげ)の中に小蛇のいるのを夫(おっと)大物主神と知り、驚き叫んだので、夫大物主神は「吾に恥をかかせた」と御諸山(みもろやま)に登り帰った。『記』『紀』いづれも山そのものが神の住むところであったといい、ともにかぎ穴を通る神、蛇神として物語っているのは、この山の神が水の神、田の神として信仰されることを反映している。水の神を蛇神とし、蛇神が田の神と信じられる神事や民俗は各地にある。 三輪の「み」は、蛇を意味する「巳」であり、蛇を神とするのは倭迹迹(やまととと)日(ひ)の話とも関連している。参拝者はいつも巳さんにゆで卵や酒を供える。供え物は夜のうちにすっかりなくなるという。斎庭の大杉の根本の裂け目の中には白蛇が住むといわれる。 「三輪」は「神酒」に通じ「味酒」は「三輪」の枕詞。摂社狭井(さい)神社に薬井がある。神山の狭井神社に湧く聖水は薬効で有名だが、神酒をも思わせる。 崇神天皇八年、三輪山の麓の、高橋邑(むら)の活日(いくひ)を大神の掌酒(さかひと)とし、天皇が大田田根子(おおたたねこ)に命じて大神を祀らせた。この日、活日(いくひ)みずから御酒をささげて崇神天皇に差上げ、次のような歌を詠んだ。 『原文』許能瀰枳破 和餓瀰枳那羅孺 椰磨等那殊 於朋望能農之能 介瀰之瀰枳 伊句臂佐 伊久臂佐 『訳文』この御酒(みき)は我が御酒(みき)ならず大倭成(やまとな)す大物主の醸(か)みし御酒(みき) 幾久(いくひさ) 幾久(いくひさ) このように歌って宴会を開いた。大物主大神は酒の神様ともなる。神杉への信仰がこれに結びつき、「しるしの杉玉」が造られ、全国の酒造家に配られる。『日本書紀』活日(いくひ) (このお酒は、私が醸(かも)して奉るお酒ではございません。日本(やまと)の国を作りなした、大物主大神が、御自身醸(かも)したお酒です。いく久しく栄えませ、栄えませ) 三輪山の弥勒の谷の石ぼとけおもへば寒し夜の爐の邊も 吉井 勇〈爐邊小吟三〉 ◎佐野のわたり さののわたり過るほど風いたく吹てあま風にやなと申ければ。 空は一点の雲もなし 『訳文』佐野の渡りを過ぎるころ強く風が吹いて、人は雨風ではと言ったが、 空には一点の雲もない。 俄にもふりこむ雨の雲もなしこまうちわたす佐野ゝ夕風 (急に雨の降る気配の雲も見えず、馬を歩ませ渡る。 夕風の吹く佐野の渡りでは) (公条) ◇『大和名所図会』と佐野のわたり 『大和名所図会』に馬に乗る貴人と三人の従者が雪の川を渡る姿が描かれている。貴人とは藤原定家といわれ、定家の和歌が添えられている。 新古今「駒とめて袖打はらふ陰もなし佐野ゝわたりの雪の夕くれ」定家 ![]() 「佐野のわたり」は『万葉集』や『新古今和歌集』にも詠まれる和歌の名所で、歌枕として藤原定家など多くの歌人に詠まれてきた。「佐野のわたり」は和歌山とする説もあるが、『大和名所図会』では「佐野のわたりハ大和国なり」とし、桜井市三輪崎付近を「佐野のわたり」としている。戦国時代、連歌師の宗長(そうちょう)、宗碩(そうせき)が大和国を旅した時、大和の「佐野のわたり」を通過した紀行文を宗碩が書いている。三条西公条もここ大和の「佐野のわたり」を通る紀行文を『吉野詣記』に掲載した。なお、藤原定家の供養塔(五輪塔)が源氏物語『玉鬘』に登場する長谷寺の二本ノ杉近くに建つ。 また、余談になるが連歌師宗長は和歌、連歌を宗祇に学び、一休宗純について禅の修行をした。「大永四年(1524)には新年を酬恩庵(一休寺)で迎えたが、二月に京に入る前に八幡梅坊で行われた連歌一折(ひとおり)(連歌懐紙の最初の1枚、表八句、裏四句)の興行にて歌を残している。 梅の花うつりし袖か朝かすみ(宗長) 夜に入りて、連歌興行の余興の酒宴となり、歌を請われて おもひやれ柳のいとのみだれごゑむかしはよそに聞(きき)し 春かは(宗長) (宗長日記・岩波文庫より) ―つづく―空白 主な参考文献 『吉野詣記』鶴崎裕雄他 翻刻・校注 (相愛女子短大研究論集三三) 『大和路の旅』上田正昭 角川選書 『神社の古代史』岡田精司 大阪書籍 『現代語訳・日本書紀』福永武彦 河出文庫 『大和百話』由良琢郎 武蔵野書院 『「大和名所図会」のおもしろさ』 森田恭二 和泉書院
by y-rekitan
| 2023-05-28 10:00
| 吉野詣記
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