野間口 秀國(会員) 昨年末の京都新聞・夕刊(2022.12.27)に「旧深草村 “道路元標” どこへ?」と題する記事が目に留まりました。記事を読んでいると、地元・深草中学校の創立33周年記念誌に残る写真に加えて、「ある夜、突然消えてしまった」との住民の証言が残ることが記されてありました。大正時代に道路元標が建てられた当時、その場所はかつてのメインストリートである本町通〔直違橋(すじかいばし)通〕で、町の中心地であっただろうことが想像できます。 筆者がこの記事に興味を示した理由は、当「八幡の歴史を探究する会」にて発行いたしました『「石清水八まん宮道に誘う道標(みちしるべ)群』P24に掲載されております「橋本中ノ町の道標」でも似たようなことが起きたからです。幸いにも、この道標は設置場所の地権者様のご配慮にて、現在は八幡市預かり(ふるさと学習館にて保管)となっております。前述の旧深草村の道路元標とは事情は異なりますが、「橋本中ノ町の道標」のあった場所が筆者には馴染みのある場所ですので、まさに「突然消えてしまって」見られなくなった時には少なからず驚きを禁じ得ませんでした。 さて、この道路元標とはいったいどのようなものなのでしょうか。その前身は明治時代に設けられた里程元標と呼ばれるもので、「道路元標」は大正9年(1920)の旧道路法によって全国の市町村に設置された道路の起点や地域間の距離を示す石碑です。碑の大きさは規格で定められており、幅と奥行きが共に25cm、地表からの高さが60cmの柱状のものです。現在では、新道路法 第二条第二項第三号の 「道路の付属物」に記載のある、「道路の構造の保全、安全かつ円滑な道路の交通の確保その他道路の管理上必要な施設又は工作物」の1つに分類されているようです。 旧道路法及び同法の施行令により、市町村に1箇所の設置義務があった道路元標は、設置された当時は道路の起点表示の原点及び市町村間の距離表示の原点などの役割を担っておりました。しかし、現行法では、基準点としての役割や道路管理上の必要性や設置義務がなくなりました。よって、現在では多くの市町村では撤去されている道路元標も少なくないようです。そんなこともあった道路元標を基準にした他市町村との距離などを定めてはないのです。かつて、国道などの道路標示板には市・町・村名などの行き先と共に距離の表示もありましたが、現在ではまれに残るものを除いては行先標示板に距離表示はございません。その理由には、新道路法の施行と(以下は私見ですが)大正時代に元標が設置されて以降、複数回の市町村合併が実施されたことによって、道路元標の設置場所が「起点を示す」との当初目的を果たせなくなったこと、また、衛星による空からの測量など新しい技術の導入などによるものとも考えられます。 さて、前述の旧深草村の例にも見られますように、現在では道路元標は全ての市町村で必ずしも残されていないようですが、果たして八幡市には残されているのでしょうか。 答えは、「残されている」です。八幡は、道路元標が制定された当時の町制から昭和52年(1977)11月1日の市制施行を経て、 およそ半世紀近くが経ちました。道路元標の南側面には「八幡町道路元標」と刻されており、当時の町名を留めております。設置場所は、八幡土井にある飛行神社前の道路を南下し、山柴公民館を過ぎて、大谷川に架かる八幡橋からの両道路が交差する場所(八幡山柴交差点)です。なお、道路元標は現在では道路管理者である八幡市役所 建設産業部 道路河川課にて管理されております。先に、旧深草村の道路元標があった場所が「当時の町の中心地であっただろう」と書きましたが、まさに、八幡町の道路元標も「当時の町の中心地?」に設置されたであろうことを想像するに難くありません。『男山で学ぶ人と森の歴史』・八幡市教育委員会刊の「昔のやわたの町並み」P26~33、に見える絵地図には、多くのお店が軒を連ねていた繁華街の様子が描かれていますが、その一角の左部分に見える米屋の横)が「八幡の起点」と定められたのではないでしょうか。 ![]() 筆者は、現在進行しております京阪電車の橋本駅南西部(橋本焼野地区)の開発に伴って、この10年余りの間に行われた発掘調査・踏切閉鎖・建物の解体撤去・碑石の移転(予定を含む)など町の変わりゆく複数の事例を見て参りました。 その都度の歴探会報にてできる限り報告させていただきましたが、今思い返しても、残念ながら消える前がどうであったかを正確に記憶できてはおりません。 八幡(町)道路元標がこのまま、現在ある場所にいつまでも残る保証はございませんし、とは言え、消えることを想定して本稿を書いている訳でもございません。しかしながら、旧深草村の道路元標の事例にもございますように、知らない間に道路元標は消えておりますので、八幡に残された歴史を語る道路元標を皆様の記憶に残していただき、見守っていただければと思います。 八幡に残る道路元標を確認してしばらくの後、気になっていた京都市の道路元標の残る場所にも足を運びました。それは、京都市内の烏丸三条交差点の南東角にあります。この角に京都銀行三条支店がございます。写真でもお分かりいただけると思いますが、「京都市道路元標」の碑の色が一部異なり、設置当時は地下部分が深かったと思われます。 この元標を写真に納めて、冒頭の記事にありました “旧深草村・道路元標跡地” を訪ねました。 京阪電車の藤森駅改札口を出て、疎水に架かる堀田橋を渡り東に進むと本町通(直違橋通)に出ます。右折して南へ進路を取り、深草小学校を左手に見ながら深草商店街を南下すると、ほどなく新聞記事にあった写真の場所に着きます。 その場所は京都銀行藤森支店藤森出張所で、「藤森支店は2021年11月22日(月)に墨染支店内に移転した」旨の案内が残されており、現在はATMのみがあり、道路向かいにはコンビニがあります。 新聞記事に、当寺の道路元標の設置場所が「この支店跡付近・・」 とあったので、可能な範囲でご近所の方に聞いて見ました。なお、ご対応いただきました三名の皆様のご氏名等は控えさせていただきます。A氏:訪問の主旨を説明すると、それならとB氏を紹介いただけました。 B氏:同じく訪問の主旨を説明すると、同世代で少し年長とお見受けするご主人から、お手持ちの関連資料を基に、また持参しました新聞の切り抜きなどを見ながら、道路元標があった時と、無くなった後の様子を、氏のご記憶などを交えていろいろと話していただけました。 しかし、残念ながら道路元標の行方は分かりませんでした。 加えて、B氏にはC氏を紹介いただけましたが、C氏は世代が少し若くて、このことに関しては不明とのことでした。 八幡で道路元標の残る場所も、当時の中心街であっただろうと書きましたが、深草でも同じように、すぐそばにある西元寺(さいがんじ)門前の駒札に「後白河法皇もしばしば御幸された」と書かれてあり、古くからこの地域のメインストリートであっただろうことが商店街の様子からも偲ばれます。また、少し気になったのは、京都市の道路元標の残る中京区の烏丸三条交差点にある銀行(支店)と、この旧深草村道路元標の跡地にある銀行(現・出張所)が同じなのは単なる偶然でしょうか。ちなみに、冒頭に書きました深草中学校の創立33周年記念誌の発行が1981年であり、藤森支店の開業がその2年後の1983年(昭和58)5月16日であることから、同支店開業時には既に道路元標は無かったことになるようです。 最後に、消えた道路元標、残る道路元標などに関する貴重な情報を提供いただきました関係先の皆様、現地でお話を聞かせていただきました深草の皆様には、紙面をお借りして有難く御礼申し上げます。 (2023.04.14) 参考資料、史料、情報提供者、書籍等
by y-rekitan
| 2023-05-28 09:00
| 私の歴史さんぽ
|
メニュー
検索
タグ
石清水八幡宮
神社[石清水以外]
石碑と由来
遺跡・古墳
八幡の寺院
墓地と墓石
松花堂昭乗
わが心の風景
橋本地区
八幡宮道
古道
古典詩歌
木津川
五輪塔
八幡宮の神人
三宅安兵衛
大谷川散策
豪商淀屋
八幡の自然
女郎花
東高野街道
吉井勇
エジソン
柏村直條
淀川
八幡八景
山崎橋
お亀の方
歴史Q&A
地蔵菩薩
伊佐家
御園神社
御幸道
神仏習合
八幡の祭り
松尾芭蕉
二宮忠八
昭和の八幡
物語の生まれ
流れ橋
南山城
四條隆資卿
八幡文学碑
昔話と伝承
高良神社
地誌
一枚の写真
横穴古墳
謡曲のふるさと
川の旅日記
記事ランキング
著作権についてのお願い
|
ファン申請 |
||