もっと知りたい! 吉井勇 116号

《会員研究発表》

もっと知りたい! 吉井勇

2023年6月 八幡市文化センター第3会議室にて

谷村 勉 (会員)
 6月9日午後2時より八幡市立松花堂美術館講習室において表題の会員研究発表がありました。
 吉井勇が疎開先の富山県八尾町から八幡町月夜田の宝青庵に越してきたのは昭和20年10月であった。宝青庵には歌碑があるが、吉井勇を取り巻く人々は「文化サロン」を形成していた。その魅力的な人たちを探究された研究発表で、講演の概要は谷村氏が纏められた。(会報編集担当) 
 
 明治後期より大正、昭和の歌人として吉井勇の名は八幡市民にとっては戦後月夜田宝青庵に3年近く住んだことから身近な存在でありました。しかし、現在はどうであろうか、門外漢の私も一応吉井勇の概略程度は知り、時に短歌や俳句を鑑賞するも、進んで歌を作ろうとする気持ちは全くない。ところが、数年前に松花堂昭乗と江月宗玩が歩いた『吉野紀行』を辿り、今は三条西公条が連歌師里村紹巴とともに奈良・高野山・吉野山・石清水八幡宮など六十数箇所を訪ねた『吉野詣記』の足跡を辿っている。国の始まりの奈良には記紀万葉の世界があり、多くの文人墨客が訪れ、代表的な歌人の歌碑が並び建つ。東大寺に魅せられ何度か訪問するうちに、ある時、東大寺観音院の住職上司海雲と吉井勇が大変親しい間柄であったことを知った。同時代の歌人や文化人、芸術家が観音院を数多訪れているが、中庭には唯一「勇」の歌碑が建つ。今回、八幡の吉井勇を中心に奈良の上司海雲、海雲の師である志賀直哉、生涯の友であった谷崎潤一郎に的を絞ってまず入門資料を当たって現場を歩いた。

吉井勇の略歴 
(明治19年(1886)-昭和35年(1960))74歳没

 明治19年、鹿児島県出身の伯爵吉井家の次男として東京に生まれる。少年時代に家の没落に会い、明治38年(1905)に攻玉舎中学を卒業したが、肋膜を病み鎌倉などで療養を経験する。また新誌社に入社して、この年の『明星』に初めて短歌が掲載された。翌39年には作歌熱が旺盛になり、新誌社の歌会にも積極的に参加するようになる。もっと知りたい! 吉井勇 116号_f0300125_09345432.jpg 8月、与謝野寛、北原白秋、茅野蕭々(ちのしょうしょう)【独文学者・歌人】とともに伊勢・紀伊・奈良・京都に旅行。明治40年7月下旬から8月末にかけて与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、平野万里(満鉄技師・歌人)、吉井勇の5人で九州各地を旅行した。その紀行文『五足の靴』の発表された明治40年9月には早稲田大学文学部高等予科から政治経済科に転じたが、長く続かず翌年退学する。昭和5年8月、宇和島運輸(株)の招きで伊予路を歩く。昭和9年(1934)4月高知県香美郡猪野々の鉱泉宿に淹留(えんりゅう)、昭和10年(1935)7月高知の友人伊野部恒吉より隠居所を譲り受け、自らの草庵を猪野々に作り渓鬼荘と命名した。昭和11年(1936)4月歌行脚を志し、四国路、中国路、九州路、瀬戸内海などを遍歴し、8月渓鬼荘に帰る。昭和12年(1937)10月高知市築屋敷に転居し、東京から国松孝子を迎え結婚生活に入る。昭和13年(1938)、53歳の時に、京都の自然に抱かれた静かな後半生を送ろうとして、左京区北白川東蔦町に居を構えた。その後、昭和19年(1944)10月には、左京区岡崎円勝寺町に転居、昭和20年(1945)2月富山県八尾町に疎開し、昭和20年(1945)10月には、京都府綴喜郡八幡町月夜田に移った。昭和23年(1948)8月、上京区油小路元誓願寺頭町に転居。さらに昭和26年(1951)8月、左京区浄土寺石橋町19番地(紅声窩)に転居する。

吉井勇の八幡滞在(2年10カ月)

 吉井勇は終戦後、昭和20年10月から昭和23年8月まで凡そ3年間八幡の宝青庵で過ごすが、その時の出来事や心境を『私の履歴書』などから時系列に書き出すと。

昭和20年(1945)60歳
   2月富山県婦負郡八尾町(ねいぐんやつおまち)に疎開、

 宮田旅館(4か月間)、常末寺、小谷氏宅などを転々とし、終戦。「家の人たちがみんな親切にしてくれたので、別に疎開の不自由も感ぜず、炬燵に入って本を読むことを日課のようにして、その日その日過ごすことができた。宮田旅館から常末寺に移ってからは、生活はかなり惨憺たるものであった。」(宮田旅館は女優柴田理恵さんの実家)
10月八幡町月夜田(つきよだ)宝青庵に移る。
11月、歌集『短歌風土記』大和の巻刊行

 「終戦になると一日も早く京都に帰りたくなったが、市内にはなかなか転入が許されなかったので、やむなくその年の十月に八尾を去って、京都府下綴喜郡八幡町字月夜田というところにある宝青庵という浄土宗の小さな寺の座敷を借りてそこに移った。そこは京阪電車の石清水八幡駅から一里ばかり徒歩で行かなくてはならない、きわめて不便なところだったけれども、すぐ近くに女郎花塚や松花堂の茶室などがあって、きわめて静かな環境だった。」
昭和21年(1946)61歳
 1月、歌集『故園』10月、歌集『寒行』12月、歌集『流離抄』刊行

 「・・・字月夜田というところは、限界がきわめて広く、ずっと山城の平野が遠く宇治の向こうの鷲峯山のあたりまで見渡されるところで、月夜田という地名が語っている通り、月光の美しい晩などは、まるでそこら一面大海になったような感じがした。・・・。」、「環境が静かで落ちついているせいか、おのずから歌を作るような心持になって、『天彦』以来ひたむきに思いつめた歌境を、さらに深く掘り下げていくことができた。それに終戦後出版界は、異常に景気づいていたので、雑誌などに原稿を書くほか、数多くの歌集や小説を上梓する機会にめぐまれるようになった。」
昭和22年(1947)62歳
 6月、歌集『短歌風土記』山城の巻刊行

 同月、谷崎潤一郎、新村出、川田順らと京都大宮御所で昭和天皇と会談「八幡にいる間に、昭和22年6月には谷崎潤一郎、新村出、川田順らとともに、ちょうど巡幸の途次、大宮御所にお泊りになった天皇陛下に召されて、一時間あまりにわたり会談をしたが、その二、三日後文楽座に行幸になったときも陪覧して、その日の感激を歌に作った。」
昭和23年(1948)63歳
 1月、歌会始の儀に選者として列席(没年迄選者を務める)、孝子を入籍
 8月、京都市上京区油小路通元誓願寺町に移る。日本芸術院会員となる。
 12月、歌集『残夢』刊行
 「昭和23年には新年の歌会始の選者になったり、同年8月には日本芸術院会員になったりして私の起状の多かった人生行路にも、ようやく明るい光明が射しはじめてきた。」

歌会始

 藤原定家の日記である『明月記』に「和歌所歌御会(うたごかい)」とあるように、古くは天皇のお催しの歌会を歌御会といった。大正十五年に「歌会始」と改められ、昭和になってから使われだした。明治二十一年から昭和二十一年までの半世紀の間、「御歌所(おうたどころ)」があり、そこには所長、寄人(よりうど)七人など二十人ほどの職員がいた。その歌風は京都以来の堂上風、主として冷泉家の歌風、或いは香川景樹の桂園風というべき二つの系列に属するかもしれないが、明治、大正を経過するうち、御歌所風というべきものにまとまっていった。戦後、「御歌所」もなくなり、昭和二十一年からは民間歌人の手にゆだねられることになった。明治以降、「歌会始」の預選歌に恋の歌はなかったのであるが、そういう歌を好んで詠んだ吉井勇が昭和二十三年に選者になり、宮中の「歌会始」に、「こういう歌が一つぐらいあってもいいじゃあないか」と、選者会議の席で、ときに発言された。そして、そのような味の歌もこれ以降預選歌になった。(宮中歳時記・入江相政編より抜粋)
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埋火の歌 高崎正風(個人蔵)

 なお、「御歌所(おうたどころ)」初代所長には枢密顧問官の高崎正風(薩摩藩士)が就任しているが、正風は、明治元年(1868)の戊辰戦争では征討軍参謀となる。明治5年には岩倉使節団に加わり西欧を視察。明治8年に宮内省侍従番長に就任、19年に御歌掛長、21年「御歌所」の設置によって初代御歌所長となり、その職は明治45年(2月)に没するまで及んでいる。この間、明治天皇の作の歌は殆ど正風が点じた。(革島家文書・京都府立総合資料館)また幕末、高崎正風と品川弥二郎(長州藩士)は革島家(西京区川島)を本拠地として活動している。革島家の主人有尚は丹波亀岡藩家老職山崎兵左衛門景績の次男で革島家を継ぎ、維新の際には王事に奔走し、諸藩の志士と交わった。
 なお、高崎正風は八田知紀(はったとものり)の門下生である。八田知紀は幕末に活躍した国学者、歌人、薩摩藩士であり、香川景樹(かげき)の指導を受け、桂園派の高弟と称された。


谷崎潤一郎略歴 
(明治19年(1886)-昭和40年(1965))79歳没

 明治19年(1886)、吉井と同年に東京に生まれる。明治41年9月東京帝国大学文学科に入学。明治43年東京帝大在学中に『刺青』等を発表する。明治44年7月東京帝大を退学する。『三田文學』誌上で永井荷風が「谷崎潤一郎氏の作品」を書いて激賞し、文壇的地位が固まる。明治45年(1912)4月新聞連載の約束で京都に遊ぶ。大正12年(1923)9月、関東大震災での被災の後、一時京都に在住。同年、六甲苦楽園に移り、昭和に戦前の時代を阪神間で送る。昭和21年京都市左京区南禅寺下河原町に転居(前の潺湲(せんかん)亭)、昭和24年左京区下鴨泉川町に転居(後の潺湲亭)。
 *現在、潺湲亭は日新電機(株)迎賓館「石村亭」として保存されている。

志賀直哉略歴 
(明治16年(1883)-昭和46年(1971))88歳没

 明治16年、宮城県陸前石巻に生まれる。明治28年学習院中等科へ進学、武者小路実篤を知る。明治39年9月東京帝国大学英文科に入学、里見弴(薩摩藩士有島武の四男・小説家・文化勲章受章者)と親しくなる。明治43年4月武者小路らと同人雑誌『白樺』創刊、6月大学を退学する。明治45年(1912) 10月父と争い、家を出て尾道に住み、放浪の時代が始まる。大正3年(1914)から翌年にかけて、京都市上京区南禅寺、また一条御前通りに居住するが、短期間に終わり、赤城山大洞を経て、大正4年(1915)柳宗悦(民藝運動の主唱者)の進めで千葉県我孫子に移住。大正12年(1923)3月、改めて京都市上京区粟田口三条坊に転居。同年、山科村大字竹鼻小字立原に移り、大正14年(1925)には奈良に移る。奈良で13年間暮らした後、昭和13年4月東京に帰り、東京市淀橋区諏訪町に転居、5月世田谷区新町に転居する。昭和21年6月6日から7月20日まで奈良に赴き、東大寺観音院の上司海雲宅に滞在する。昭和46年88歳で死去。昭和48年、青山墓地に葬る。「志賀直哉の墓」の文字は上司海雲。

上司海雲かみつかさかいうん略歴 
明治39年(1906)2月15日生 69歳没

大正12年(1923)奈良県立郡山中学校卒業 同年私立龍谷大学予科入学
昭和5年(1930)同文学部英文学科卒業 昭和6年現役志願兵(深草野砲22連隊)
昭和7年(1932)2月15日修二会新入 昭和14年12月13日観音院住職
昭和20年(1945)招集、朝鮮龍山(野砲・陸軍中尉) 
昭和21年(1946)4月東大寺図書館主事 
昭和47年(1972)5月1日華厳宗管長、206世東大寺別当就任
昭和50年(1975)1月25日大阪大学第2内科にて遷化

観音院(上司海雲) 
町田甲一(美術史家)/大和古寺巡歴より

 この上司海雲師と、その自坊観音院は、二十世紀の東大寺を語る場合に、忘れることができない人であり、所である。大仏殿の西回廊の西、戒壇院の東にあたって、俗に「赤門」とよばれる勧進所の一郭がある。海雲氏が初めて独立して、その中の奥の一坊惣寺院の住職になったのが、昭和七年のことで,これからが師の破戒時代、乱行時代と自称された「赤門時代」で、師のシュトゥルム・ウント・ドラング(嵐と衝動)の時代であった。この時代に師は志賀直哉を知り、直哉また師を愛して、谷崎潤一郎、武者小路実篤、滝井孝作(小説家・俳人)らを、ここに連れてきている。そして多くの文学青年、美術青年達が、ここに出入りして、後年の海雲像の人間的形成が素地から形成されていった時期である。
 戦中から戦後の昭和二十年代に観音院を訪ねて、海雲師と交遊のあった人は少なくない。前記の方々のほかに、長谷川如是閑(評論家・文化勲章受章者)、長与善郎(白樺派作家)、辰野隆(仏文学者)、梅原龍三郎、里見弴、安倍能成、吉井勇、広津和郎、高田保(劇作家)、市原豊太(仏文学者)、会津八一(歌人・早大文学部教授)、北川桃雄(美術史家)、北川冬彦(詩人・映画評論家)、佐佐木茂索(文芸春秋社長)、亀井勝一郎といった方々など、枚挙に遑(いとま)がないといったところだが、最近は作家では井上靖、司馬遼太郎両氏に、志賀直哉のお弟子の阿川弘之、細野菊氏などが親しかったようである。特に海雲師は同年輩の人たちの間では、共によく飲み、よく遊びながらその作品や学問に対しては常によき理解者であり、よき助言者であり、よき後援者であった。杉本健吉、須田剋太、入江泰吉の諸氏の芸術については、海雲師を忘れて語ることはできない。

司馬遼太郎が『街道をゆく24』に記す上司海雲

 『街道をゆく』シリーズは司馬遼太郎の代表作の一つだが、『街道をゆく24』「奈良散歩」』に上司海雲が登場し、多くのページ数が費やされているのには目を見張った。「そのころ、私は、観音院を訪ねた。それが正確には昭和何年だったか、この稿をはじめるときは、思いだせなかった。たまたま『東大寺史』(昭和十五年・平岡明海編・華厳宗東大寺巻)を読んでいて、本の裏を見たとき、『昭和二十五年十月・東大寺上司海雲師より被贈』と書かれていた。二十代の自分の筆跡だった。私は昭和二十五年十月に観音院をたずねたことになる。上司さんは、初対面の若僧に、当時としては(いまでもそうだが)入手しがたい本をくれたのである。」と初めての出会いを回想している。

追憶集『壺法師海雲』 
(昭和55年10月15日500部限定発行)

上司海雲没後の追憶集である『壺法師海雲』には約百名の草稿が寄せられて刊行されたが、その最後に五名の消息文が原文で掲載されている。志賀直哉、河合卯之助、会津八一、勅使河原蒼風、杉本健吉である。(司馬遼太郎の草稿も納まる)/td>
海雲は、吉井先生から壺法師と命名される程に種々な沢山の壺を身近にはべらし、庭には四季折々に咲く木々を植え、春夏秋冬、花を友とし、壺を愛し、美しきものへの憧憬の一生だったように思われます。(上司寿美子)
上司海雲は宝青庵に歌聖吉井勇を訪ねた帰り、二度、八幡橋本の渡し船に乗船 した思い出を随筆に残している。(奈良わがふるさとの‥)


観音院(観音院を訪れて吉井勇) 
『短歌風土記』 大和の巻

 観音院に上司海雲を訪ひて、秋ふかき奈良のゆふべを、杯を中にしてしめやかに語る。
   古壺のかずかず据ゑてたのしげに海雲法師壺がたりする
   玄関に大油壺どかと据ゑまらうど迎へのそとしたまへ
みほとけの次には壺をよろこべるわが海雲は壺法師かも(観音院庭の勇歌碑)
 昭和21年、歌集『流離抄』刊行 (疎開中の思い出を宝青庵で歌ったもの) 
秋篠(あきしの)の寺のいみじき伎芸天(ぎげいてん)寂しきときは夢にこそ見め
奈良恋し諸天恋しと思(も)ふものを海雲法師(かいうんほうし)たよりしたまえ


「志賀直哉の奈良居住」 
大正14年(1925)~昭和13年(1938)

 志賀直哉が自ら設計して建てた高畑町の旧居には昭和4年(1929)から昭和13年(1938)まで居住する。この志賀邸は所謂「高畑サロン」の核であり、多くの画家や文士たちが集まった。「奈良は知的サロンが消長してきたまちでもあった。首都が平安京に引っ越して以来の南都の寂しさといものが、沈殿して伝承しているとしか思えない。その面で、志賀直哉の奈良移住は大きかった。直哉を慕って来遊する人の数はかぞえきれない。志賀直哉が去ったあと、サロンを上司さんが引き継いだともいえる」「後に残された私達、月々集まって志賀さんを偲び、時には奈良にお迎えして会食を楽しんだ」(『壺法師海雲』)。今の奈良はその点において明治初年の寂しさに戻っている。(『街道をゆく24』)

吉井勇より志賀直哉宛手紙 
(昭和22年12月6日付消印 志賀直哉全集 書簡)

八幡町志水宝青庵より奈良市東大寺内観音院へ{封筒は上司海雲宛}
冠省。過日図らずも茅屋をおたづね下され候節は、ご承知の通り、名さへ月夜田の里と申すような、京の田舎の侘住宅のこととて、何のおもてなしも出来ず、甚失礼を致し申し候。しかしかかる貧盧に大兄はじめ、谷崎潤一郎、梅原龍三郎君等、雅懐を同じくする友を迎へ得たることは、日頃山妻と唯二人、寂しく暮らし居る小生としては、何よりも喜ばしことに有之、秋深く人のおとづれも稀になり候ままに、落莫たる草庵の朝夕、兎角にこの日のことが思い出され申し候。‥‥それにつけても心に懸かり居り候は、その節お手渡し致したる、大兄が奈良時代の日記について、如何にしてその冊子が小生の手に入りしか、その経緯申し上げむとお約束致しながら、今日まで遷延致し候ことに有之、‥‥以下略
    昭和廿二年十一月下浣(げかん)
              城南形影居にて  吉井勇
「昭和22年10月、志賀直哉と谷崎潤一郎は梅原龍三郎とともに吉井宅を訪問し、その日の午後に、松花堂で四人による座談会「あきのきゝがき」(夕刊新大阪)を行っている。」上記の吉井勇の志賀直哉宛の手紙はその時の座談会の内容を受けて手紙を送ったもの。
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 この集合写真は、昭和23年3月頃に撮られたものと認識される人も多いようです。平成26年1月、松花堂美術館講習室で講演された古川章氏も「写真は八幡月夜田の西村静子さん方に秘蔵され…、昭和23年3月頃に雑誌の座談会に出席するため西村邸(現在の松花堂)を訪れたときに撮影されたものである。」と報告している。古川章氏は西村大成氏と親しく、吉井勇の自宅訪問や葬儀にも西村大成氏と同席しているので、貴重な証言者ではあるが、当時、集合写真の撮影日時は勘違いされていたと思われる。まず、次の「資料・谷崎潤一郎」並びに「座右宝」を確認すれば「座談会」は昭和22年10月に行われたものであることが分る。また、前段階の資料に興味ある内容が報告されていた。「鼎談 京の春を語る」高森松子・清水康次編(京都光華女子大学大学院)の中で、「吉井:先日あなた方が来てくだすった時には、‥」の記述の脚注欄に「1947年10月、志賀と谷崎は梅原龍三郎とともに吉井宅を訪問し、その日の午後に松花堂で、四人による座談会『あきのきゝがき』(「夕刊新大阪」)を行っている。」と書かれ、谷崎の出席した対談、座談会一覧を記した『資料・谷崎潤一郎』にもその「座談会」が紹介され、その文中には「『座右宝』に「ききがきあれこれ」と改題して再録」と記述されている。
 この『座右宝』を確認した結果、発行は昭和23年1月1日とあり、座談会「ききがきあれこれ」の記事の最後に、「この座談会は昨年秋、志賀直哉氏上洛の節、当会主宰後藤眞太郎の斡旋で催され新大阪紙上に掲載されたものであるが、その後出席者諸氏のおすすめもあり、新大阪紙の了解を得て本誌に再録した。」と記述されていた。
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[参考資料] 志賀直哉・谷崎潤一郎・吉井勇
「鼎談 京の春を語る」
 
京都光華女子大学大学院文学研究科日本語日本文学専攻
:高森松子・清水康次編

 昭和23年(1948)5月1日発行の雑誌『苦楽』第3巻第5号に、「鼎談 京の春を語る」という座談会が掲載されている。於熱海(1/22)。以下鼎談の詳しい内容は省略するが、ソメイヨシノの桜や都をどり・鴨川踊りの話が続く、食事処では瓢亭の味を絶賛し、辻留や柿傳が美味いといい、志賀は鰻はやっぱり上方式かな、近頃は東京式の神田川や竹葉亭もやっている。長唄、清元、地唄、義太夫、井上流の舞、島原の太夫の道中、輪違屋、角屋の庭の臥龍の松っていうのが、あれは前のが枯れてしまって、宝青庵の門の傍にあった松がいったが線路が傍にあるので枯れてしまった話、壬生狂言など、文化、芸能、歌舞音曲の話題がどんどんと出てくる。谷崎潤一郎や永井荷風など多くの文化人が愛好した「にごり酒 月の桂」にまつわる話も興味が尽きない。           

歌集『残夢』

 歌集『残夢』はすべて月夜田宝青庵に閑居した時代の歌であるが、歌集には八幡狐や梟(ふくろう)も詠まれ、最後に「鼬(いたち)の道きり」と題して五首の歌を載せている。「イタチの道切り」とは鼬の迷信から生まれた言葉で、イタチが目の前を横切ると、大切な人との縁が切れるとか、不吉なことが起こる前兆とする迷信があった。『残夢』最後の一首は、月夜田から京都市へ転居する折、「八幡宮道」を北へ一里「石清水八幡宮前」駅に向かって歩いたときに詠まれた。
    古妹は鼬に道を切られたる今日の京ゆき憂ふるごとし
                                以上

【主な参考資料】
『吉井勇全集』番町書房 
『吉井勇全歌集』中公文庫   
『志賀直哉全集-書簡』 岩波書店
『資料 谷崎潤一郎』千葉俊二他編 桜楓社
『座右宝』座右宝刊行会
『鼎談 京の春を語る』高森松子・清水康次編 京都光華女子大学大学院
『志賀直哉旧居の復元』学校法人奈良学園
『宮中歳時記』入江相政編 TBSブリタニカ
『大正昭和の歌集』短歌現代7月号別冊(平成17年) 短歌新聞社
『大和古寺巡歴』町田甲一 有信堂
『壺法師海雲』上司海雲追悼記刊行会
『東の大寺』文 上司海雲・絵 杉本健吉・カメラ 佐保山堯海 淡交新社
『街道をゆく24』司馬遼太郎 朝日文庫
『歌人吉井勇の歌行脚』古川章 会報第46号 八幡の歴史を探究する会

『一口感想』より

誠に流暢な語り口で、知る楽しみを味あわせていただきました。ただお話が広範に及び‥‥。個人的には「八幡における吉井勇」(2年10ヶ月の具体的な話題)が知りたかったので、やや肩透かしだったかな、と。でも、愉しいひとときでした。ありがとうございます。 (A・T)
大変興味深く受講いたしました。会津八一さんは大学の先生、吉井勇さんは大学の先輩。学生時代都の西北でその創作や偉業について学んだ記憶があります。授業の内容は忘れてしまいました。引き続き・・・宜しくお願い致します。ありがとうございました。 (K・M)


 
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by y-rekitan | 2023-07-28 11:00 | 講演会・発表会
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