隣の芝生 ① 京田辺市 116号


「隣の芝生 ① 京田辺市編」

野間口 秀國(会員)


 
<隣の芝生は青い、とは>

 「隣の芝生は青い」とは「人のものは自分のものよりもよく見える」という心理を表したことわざです。 この場合の「隣」は実際の隣に限らず「自分以外の所有者全般」を指し、「青い」は「芝生が青々と茂って美しい様子を」を指しています。隣の芝は青い、隣の花は赤い、他人の飯は白い、隣の牡丹(ぼた餅とも)は大きく見える、などなど「人のものは自分のものよりもよく見える」と言った、心理を表した諺は複数ありますが、それと同様に他国と、他府県と、他市町村と比べると決して劣っている訳ではなくても、他がよく見えることは私たちの日頃の活動でもそう思えることがあります。そこで、隣り合わせの市町村での取り組みの良い面を学ぶことは大事なことであり、機会があれば足を運び、取り組みに参加して何かを得ることは意味あることと思います。

<初回は京田辺市のハイキング>

 隣町のそんなこんなを、何かまとまったら書いてみたいと常々思いながら、初回は京田辺市の行事に参加した時の様子や、学んだこと、感じたことを書いてみたいと思います。 参加した行事は、京田辺市観光ボランティアガイド協会による “~「本能寺の変」で家康はどう逃げたか!~ 家康公 伊賀越えの道を辿る” と題するハイキングです。5月25日(木)午前9時にJR松井山手駅に集合。10名1組のグループに分かれて、準備運動、行程の説明や注意事項などを聞いた後、私たち第1組はガイドのF氏に続いて出発しました。「将来この地下に新幹線の駅が・・」、との説明の一角を過ぎ、松井山手で最初に建てられたというマンションの横を通り、第二京阪道路に沿った緑道を南下して杉山手の分岐で住宅地に入り、穂谷川に沿うように川の上流方向へと進みます。杉責台、氷室台と歩を進め国道307号線を横切って尊延寺にたどり着きます。尊延寺は真言宗高野山派に属し、天平3年(731)に建立された1200年の歴史を有する寺で、歴史的建造物や仏像が多数ある寺です。

<いよいよ山越えの道へ>

 ハイキングの題名に「家康はどう逃げたか」とありますように、尊延寺を過ぎますといよいよ甘南備山への上り道に指しかかります。
 国道307号線を跨ぐ高架橋を過ぎ、田畑の脇道を登ってゆくと、ほどなく国境の池に着きます。頂いた資料には池の名前は「扇池」とありますが、まさにこの池一帯がかつての河内国(現在の大阪府枚方市)と山城国(同じく京都府京田辺市)の国境です。豊富な水で満たされた水面はかなりの広さがあり、ここまで登ってくる途中にあった田畑へ水を供給する灌漑目的の池のようです。ちなみに池の呼称は、京田辺市では「扇池」と、枚方市では「大尽(だいじん)池」と、異なった呼び方のようです。
隣の芝生 ① 京田辺市 116号_f0300125_20164021.jpg 池を過ぎると、いかにも家康一行もこんな道を進んだであろうと思わせるような、細い道を進み、いよいよ甘南備(かんなび)山に向かいます。「かんなび」とは神のいらっしゃる所、よって、「かんなび山」は神のいらっしゃる山と理解できると『文化燦燦 第一号』にも書かれてあり、標記も「甘南備」「神南備」「神名火」などがあります。山は二つの頂上を持ち、平安時代に編纂された延喜式にも書かれてある「神南備神社」のある標高221mの雄山と、少し離れた二等三角点のある標高201.6mの雌山があります。
 雌山に近い尾根道を辿り、急な下り坂(旧登山道)を麓へと降ります。山岡荘八の著書『徳川家康・心火の巻』にも、“・・・もうそろそろ夜明けに近く、北河内山を山外れて、甘南備山の悪路を一列に並んで・・・(以下省略)” と書かれてあり、甘南備山の上り下りでは当時の様子を少しだけ体感できたようです。
隣の芝生 ① 京田辺市 116号_f0300125_20225249.jpg 陽の光を遮るような針葉樹林の中を降ると、登山口に到着し、その後は甘南備山から流れ下る数本の小川を集めた手原川に沿って、ほぼ平坦な道がしばらく続きます。薪(たきぎ)神社を過ぎ、「とんちの一休さん」で知られる鎌倉時代に建てられた臨済宗の「酬恩庵一休寺」を経由して京田辺市の中央体育館近くの緑地公園へ。そこでの昼食は木漏れ日の木陰で、歩いておなかのすいたこともあり、いつにもまして美味しかったです。

<伊賀越えについて手短に>

 家康公の伊賀越えについては改めて書く必要もないかもしれませんが、前述の著書などを参考にして手短に。天正10年(1582)4月21日、甲州征伐で甲斐武田軍を破った織田信長は安土に凱旋。徳川家康は武田との一連の戦いによる功により信長に駿河一国を与えられる。 信長は家康を招き、その饗応役を明智光秀に命ずる。同年5月12日、家康一行28名、西に向かい発つ。家康、信長に加増の謝意を述べ、おびただしい進物や黄金を献上する。
光秀は二日目以降の饗応役を外される。
 家康、接待を受けた後、京、大坂を見物、そして堺へと移動。5月29日、今井宗休らの出迎えを受ける。光秀は信長に豊臣秀吉を支援すべく中国遠征を命じられその準備を進める。光秀は愛宕山で祈願の後、亀山(現在の亀岡)へ(と思われたが)。天正10年(1582)6月2日、明け方、信長が光秀に本能寺にて討たれるといった歴史に残る本能寺の変勃発。 
 即刻、情報を伝えたかつての家康の家臣・上林政重(剃髪して竹庵と名乗る)の進言を受け、家康は34名の随行メンバーと共に茶屋四郎次郎清延、服部半蔵正成、上林久重(竹庵の長兄)らの助けを借りて、一旦「知恩院にて切腹、信長に殉じる」と見せかけて北上の後、東へ進路を変えて河内国・枚方から山城国に入り木津川を渡河し伊賀を経由し三河の岡崎城へと向かう。

<草内の渡し場跡へ>

 木漏れ日の中での昼食を終えていよいよ後半戦へ。市中央体育館、消防署、市役所の建物群の裏手をガイドのF氏のスムースな誘導で順調に東へ歩を進め、暫くするとかつては京田辺市7本あったと言われる「天井川」(川底が周囲の平地より高い川)近くの踏切道を渡ります。八幡市から続く「防賀川」もかつては天井川だったとのことですが、交通の妨げとなるとの理由で、現在では平地を流れる普通の川に変わっています。更に東に歩を進めると木津川に架かる山城大橋が目に入り、ここまで来るとハイキング最大の目的地の「草内の渡し場跡」にほどなく到着します。隣の芝生 ① 京田辺市 116号_f0300125_20345286.jpg 毎年のように、大河ドラマ放映開始に先立ってゆかりの地に新しい立て看板や石碑などが出来ますが、この「草内の渡し場跡」でも例に漏れず「家康公 伊賀越えの道」 と書かれた真新しい説明板と石碑が「渡し場跡石碑」の近くに立てられていました。草内の渡しでは、街道と街道を結んで旅人などを運ぶ「往来渡し舟」が行き来していました。この渡しから上流側に20分ほど歩くと「飯岡の渡し場跡」がありますが、飯岡の渡しは耕作地での農作業の為の往復に利用する「耕作渡し舟」が行き来していたところです。



<二基の三宅碑>

 ハイキングの最後に訪れた二基の三宅碑の一つが「穴山梅雪の墓の碑」です。元は武田家の重臣の一人であった梅雪は離反して家康を介して信長に仕えます。家康とともに堺を訪れた後、本能寺の変を知ります。が、伊賀越えの途中から家康とは別行動をとった梅雪は落ち武者狩りに遭って命を失います。家康と別行動をとった理由は不明のようですが、飯岡区の共同墓地には梅雪の墓があり、三宅碑が建てられてありました。 
 梅雪の墓を後にして最後に訪れた三宅碑が「山本駅旧跡の碑」です。その昔、平城京から諸国に通じる主要官道の駅として「山本駅」が造られたことが伺われます。そしてほどなく終点の近鉄とJRの三山木駅に到着しました。

<行事に参加して>

 JR松井山手駅からの歩程が約16Km(配布資料による)、スマホは30,000歩余を記録していましたが、第1組はメンバー全員が無事に歩きとおせました。歩き終えて先ず感じたことは、歴史に登場する場所に足を運ぶ楽しさでした。今回に限らず歴史的な場所に足を運ぶことで、本などに書かれてあることへの理解が深まり、TVや映画などで観る楽しみが増すことです。
 二つ目は、思いのほか距離が長かったことです。しかしながら、適度な間隔で休憩を取り、ポイントでは手短な説明をいただき、距離を感じさせないようなF氏のガイドぶりと、十分な事前確認がなされていることが良く分かり安心して歩けました。有難く感謝いたしたいと思います。 そして何より参加の仲間全員と味わう「楽しく歩けた喜び」でした。
 なお「家康公の伊賀越え」にはこれと異なるルート説もあることを記して、隣の芝生① を閉じたいと思います。なお②については未定です。
(2023.06.05) 一一
  
【参考資料、史料、情報提供者、書籍等】
*「当日配布の資料」 京田辺市観光ボランティア協会作成
*『山岡荘八全集4 徳川家康(四)』 心火の巻  講談社刊
*『宇治茶師 上林一族の軌跡』 三省堂書店・創英社刊
*『どうする家康 徳川家康とその時代』 宝島社刊
*『稽古照今・石清水歴史探訪選 文化燦燦 第一号』 石清水崇敬会刊
*『新版 郷土枚方の歴史』 枚方市教育委員会発行
*『三宅安兵衛遺志碑 改訂版』 むこうまち歴史サークル石造物班刊


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by y-rekitan | 2023-07-28 10:00 | 隣の芝生
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