丹波紀美子(会員) 二十数年前松花堂ボランティア仲間の一人の呼びかけで、紀良子(足利3代将軍義満の母)の墓を5~6人で探したことがあった。彼女は知り合いの話で「八幡馬場の中田氏の邸内にあったのを明治になって善法律寺に移した」と、聞いて来て我々に話したのが始まりで、善法律寺の古そうな墓を片端から探して歩いたが、分からなかった。住職さんにも尋ねたが「そんな話は聞いたことがないし知らない」と言われた。住職さんがご存じないのなら、もしかしたら中田さんの家に未だ残っているかも?と、そこにも行ったが、周りは塀で囲まれており入ることも出来ない。塀の内には、樹木のおい繁った一角があり、そこだろうか?と思ってみたが住んでおられる形跡はなく、尋ねることも出来なかった。それに八幡の記録には一言も記載されていないし、変な話だな?とは思いながらも、もしこの事が本当ならば一大発見であるとボランティア仲間は少しワクワクもした。しかし年月とともに何時しか忘れてしまっていた。 歳月が過ぎ、言い出しっぺの彼女も、とっくにボランティアを辞め、私も3月末日をもって卒業した。そんなたわいも無い紀良子の墓探しの思い出にふと紀良子の事をもう少し調べて書いてみようかな?と思いたち数冊の参考本やネットから探し出して記してみた。 ●父は善法寺通清(?~1356) 通清の祖父で石清水八幡宮第27代検校善法寺宮清は鎌倉時代初期(正嘉年間1257~59年)自分の邸宅をお寺にして奈良東大寺から実相上人を招いて開山した人物であり、唐招提寺の末寺で善法律寺という。(善法律寺のしおりから) 紀良子の紀氏というのは石清水八幡宮を宇佐八幡宮から勧請した奈良大安寺の僧 行教系譜の出自である。故に石清水八幡宮の祠官家(田中家、善法寺家、新善法寺家,壇家etc)は全て紀氏の系統。 ※石清水八幡宮の西谷にあった八角堂は順徳天皇の依頼により建保年間(1213~19)善法寺祐清が建立したもので、祐清は邸宅を善法律寺にした善法寺宮清の祖父にあたる。系図は下記の通り。 祐清 ➡ 實清 ➡ 宮清 ➡ 尚清 ➡ 通清 ➡ 良子 ※宮清の孫が通清で通清の長女が良子 ●母は智泉聖通(ちせんしょうつう)(1309~1388) 順徳天皇(1197~1242)の曽孫(ひまご)と言われている。順徳天皇・・後鳥羽上皇の皇子。承久の乱で佐渡へ配流。その地で崩御。路傍の花を見て【都わすれ】と名づけた人との伝承。 系譜について・・84代順徳天皇が佐渡へ配流になった後に善統(よしむね)親王が生まれた。この方が初代の四辻宮善統(よつつじのみやよしむね)親王。 2代四辻宮尊雅(よつつじのみやたかまさ)親王の皇女が智泉聖通(紀良子の母) 系譜 順徳天皇 ➡ 善統親王 ➡ 尊雅親王 ➡ 智泉聖通 ➡ 良子 4人の子どもなした智泉聖通は後に出家して、夢窓疎石に師事し京都に通玄寺を開き曇華庵(どんげあん)を建てて隠棲 嘉慶2年(1388)11月25日没 享年80歳。※夢窓疎石(むそうそせき)(国師)・・・臨済宗の僧。天龍寺開山(開基は足利尊氏) 作庭家(天龍寺、西芳寺など禅庭といわれる枯山水庭園の完成者) 四辻宮家は3代の善成(智泉聖通の弟)で絶家か?。兄は無極志玄(天龍寺2世・夢窓疎石が1世) ●兄は 菊大路(山井)昇清(1326~1364) 石清水八幡宮別当 貞治元年(1362)狂乱した為幽閉。貞治(じょうじ)3年(1364)39歳没 ●妹は 紀仲子(1339~1427) 北朝第4代後光巌天皇(「暦応元年~応安7年」1338~1374)に入侍。〈広橋(藤原)兼綱の猶子 崇賢門院 梅町殿ともいう。 広橋仲子 ――― 後光厳天皇 || 後円融天皇(1359/12/2~1393) 広橋仲子が北朝5代後円融天皇の生母、後円融天皇と足利義満とは従弟同士。 ●妹は奥州伊達家9代伊達政宗(1353~1405)の正室 輪王寺殿(蘭庭明王禅尼)(1356~1442) 鍛代敏雄先生のお書きになったものによると善法寺通性の次男、別当昇清は室町将軍家から祈祷僧を許され善法寺家は代々、将軍家の武家祈祷を任されていた。 奥州伊達家9代政宗の正室、輪王寺殿(蘭庭)の実父は善法寺昇清ではないか?。39歳で不慮の死を遂げた後、9歳の蘭庭(了清1348~84の妹)は長命な祖母、智泉聖通の養女になったのではと記されている。伊達政宗の長男氏宗(1371~1412)は蘭庭16歳の子息。 尚、独眼竜伊達政宗は第17代。 延文(北朝)3年~応永20年(1336~1413) 紀良子が足利義詮(1330~1367)の側室になる前に足利義詮の正室として足利氏の一族の渋川義季の娘、渋川幸子(「元弘2年~明徳3年」1332~1392)がいて、観応2年(1351)7月27日に男子を産み千寿王と名付けられたが、文和4年(1355)に体調を崩し7月18日には足利尊氏は東寺、清水寺、西大寺などへ病気平癒の祈祷を命じているが、れらの甲斐もなく文和4(1355)7月22日、6歳で夭折してしまった。その後には、幸子には子供が無かった。良子の産んだ義満や満詮の嫡母となってその養育に当たり、義満も幸子を重んじて生母良子に対する以上に孝養を尽くしたという。幸子は1381年従一位に叙され1393年61歳で等持院に荼毘され、嵯峨香巌院に埋葬された。 良子は石清水八幡宮、善法寺通清の娘ではあるが、武士の娘として斯波高経の猶子になった後、2代足利義詮の侍女となっている。 良子は1358年8月22日義満を産んだが、その前年1357年5月5日にも男子を産んでいる。またその後1364年5月29日義満の弟の満詮を産んでいる。更にその翌年1365年4月10日にも男児を産んだが、月足らずで翌日死亡した。 良子は2代将軍足利義詮の三条坊門第に住み、義詮が亡くなった後は北向三品禅尼と呼ばれた。3代将軍義満の生母として重んじられたが、1374年6月、にわかに母、智泉尼の草庵に逃れて隠遁しようとし、義満や細川頼之らが,思い止まらせた。原因は明らかでない。義満が北山第に住んだ頃は義満の弟の満詮の小川第に住んで小川殿大御所と称され、義満の子、法尊を養育した。後に従一位となり応永20年(1413)年7月13日に78歳で亡くなった。良子の法号は洪恩院殿月海如光禅定尼と言い洪恩院に葬られた。 三代将軍足利義満 延文(北朝)3年~応永15年(1358~1408)について 義満が生まれたのは足利尊氏(1305~1358年4月30日)が亡くなって丁度100日後の8月22日に誕生したといわれている。幼名を春王と称した。春王の幼少のころは南朝との抗争、足利家の内紛などで寺や武将の所に匿われ幼児期を伊勢邸で養育されたり、赤松則祐の居城、播磨白旗城へ避難、しばらくの間、赤松則祐に養育されたりしたが、京都に帰った後は新しく管領になった斯波義将に養育された。その後、貞治の変で斯波家が失脚し一時期祖母の赤橋登子(尊氏の妻)の所で住まいしていた。細川頼之が管領となり、頼之夫妻が養育。義満の乳母は細川頼之の後室の持明院氏。後年彼女が死去した際に義満は北野天神社に参籠していたが、彼女の死を聞き急いで退出し乳母の所へ駆けつけたという。その位乳母は義満にとって特別の存在だった。(義満は北野天満宮の馬場に万部経会を修めたことで北野信仰の機縁となる) 1366年(南朝:正平21年、北朝:貞治5年)9歳のとき柳原忠光が選び後光厳天皇から義満の名を宸筆にて賜る。 1367年12月7日父の義詮没、享年38歳。義満10歳で三代将軍となる。 父の義詮の法名・・宝筐院殿道権瑞山 墓地・・鎌倉浄妙寺光明院、他、瑞泉寺,円覚寺黄梅院、嵯峨宝筐院(楠正行に敬慕していた義詮の遺言で正行の傍らに眠らせてほしいと二人の墓が並んでいる)。 2代将軍義詮は尊氏や直義の様な度量や機略もない凡庸な器で飲酒にふけり人の好嫌も激しい人であった様で義満は年齢僅か10歳だけれども容姿端麗で慈悲あり、威厳あり、まるで聖徳の天使の兆しと期待された。年若くして全ての学問に通じ、聖徳太子再来説にもなった。 1368年4月15日 義満11歳のとき細川頼之が烏帽子親で元服した。 細川頼之は義満の近習する者の邪曲(不正、非道)を禁じ、学問の師を選び、諸大名の専恣(わがまま、気まま)を制圧し将軍の権威を確立しようと努めた。このようにして義満の権威は次第に増大し,諸将を威伏させ幕府の隆盛をもたらせたと共にそれが朝廷内にも及んだ。 1369年12月30日 13歳 朝廷から征夷大将軍の宣下を受領。 1375年、18歳の時、初めて石清水八幡宮へ参拝。日野業子(義満より6~7歳年上)と結婚。これ以後、足利家は日野家との婚姻が始まる1405年業子55歳で没後、彼女の姪の日野康子が継室になる。 1378年、21歳、京都室町に「花の御所」と言われる政庁及び邸宅を造る。 ![]() 1382年~1393 25歳~36歳 相国寺建立。相国とは中国から伝来の名称。国を助け収めるとの意味合いで、日本では左大臣の位を相国と呼んでいて 義満は左大臣であり、相国であることから相国寺と名付けられた。 1386年 26歳 宗教統制を強化、京都、鎌倉に五山制度を整える(臨済宗)。
1391年、34歳のとき明徳の乱が起こる。因幡の国の守護大名山名氏清、満清が幕府に対して起こした反乱を破り足利将軍の勢力を拡大した。 1392年、義満35歳。南北朝を統一。56年続いた南北朝の分裂を終わらせた。 ※統一の条件➀南朝が持っている三種の神器を北朝へ渡す ②皇位には持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)が交互につく ➂領地は鎌倉幕府時代に戻すこと ※南朝第4代の99代後亀山天皇が100代後小松天皇(北朝6代)に攘夷する形で統合された。しかし後小松天皇の御子の101代称光天皇、102代後花園天皇(後光厳天皇(良子の妹仲子の夫)の兄弟崇光天皇の玄孫)と北朝の天皇が続き現在に至る。102代後花園天皇により善法寺家は天皇の血筋が消えた。 1394年 37歳 相国寺全焼 1394年、37歳 将軍を息子の義持(9歳)に譲る。義満は太政大臣になる。 1394年 37歳のとき春日局から義嗣(1394~1418)誕生。幼名は鶴若丸。(同い年に6代将軍になる義教がいる) (義嗣への異常な愛情が義満死後に義嗣失踪によりに謀反の疑いで義持の命により自害?殺害?25歳没) 1395年~1399年 相国寺再建。 1395年 38歳 出家する。(太政大臣を辞めた)出家したからと言って政権の座から離れたものではない。出家して道義と称し、天山と号した。 1397年~1399年40歳~42歳 北山に別荘 後の金閣寺を建立 。1399年 42歳 応永の乱で大内氏を破り、幕府の力をさらに強める。 1401年 44歳 明との貿易を求め使者を送る。 1404年 日明貿易が始まる。義満「日本国王の印」永楽勘合を携えて明の使者と北山第(きたやまてい)で面会。 1408年 4月3日 51歳石清水八幡宮へ社参。これが石清水八幡宮参拝の最後となる。4月25日愛児の義嗣(1394~1418)を連れて内裏の清涼殿(普通は紫宸殿)にて15歳で元服させている。(清涼殿は主に皇族が元服するところ)義嗣は容姿端麗才気があり義満自慢の息子であった。官位も瞬く間に昇進した。 義嗣は義満の寵児であり、当時の世人は義満の後継者は義持ではなく義嗣であろうと噂した。 4月27日ころから義満の病状が悪化。いろいろ手を尽くしたが5月6日に世を去った。 等持院で荼毘され、相国寺鹿苑院に埋葬 「新捐館(しんえんかん)鹿苑院殿准三宮大相国天山大禅定門」分骨は高野山安養院に収められている。 義満は従一位太政大臣と最高位を極め三宮に準じていて、これ以上贈るべき官位は無く贈号をするならば天皇の父として太上天皇の尊号が贈られたが、4代将軍義持によって辞退された。しかし今でも相国寺過去帳には「鹿王院太上天皇」とある。 尚、義満が石清水八幡宮に社参したのは24回である。その中参籠1回 他代参1回(細川頼元)。 また、義満の子女は20人(良子の孫)、妻妾15人を数えた。 貞治(北朝)3年~応永25年(1364~1418) 良子は貞治3年(1364)5月29日には義満の弟、満詮(みつあきら)を四条坊門朱雀の中条兵庫入道の宿所で出産。幼名は乙若。 名前は父の義詮の詮と兄の義満の満を頂き満詮と名のった1375年11月19日に12歳で元服、官歴は13歳で 従五位下、18歳で左馬頭、1402年には参議従三位翌年の1403年6月には権中納言、同年12月には権大納言、従二位、死後には贈従一位左大臣、兄とは全く違った人生であったが皆から慕われた人で死去の際は「諸人惜之如父」(諸人これを惜しむこと父の如し)の声が上がったといわれた。永和4年(1378)12月義満が東寺に出陣した際には共に錦の直垂に弓箭を帯し、武者数百人を従えて美々しく陣に臨んだこともあったが、その後は義満の華やかな活躍の陰に隠れ、平穏な一生を送った。 生母良子と共に武者小路小川第に暮らした。応永9年(1402)参議従三位、応永10年(1403)12月7日に42歳で出家し、法名を勝山道智となった。義満は小川第に自ら往き、その剃髪を務めた。従二位権大納言は出家後に沙汰されたものである。出家後も小川第に住み応永25年(1418)5月14日、55歳で逝去、等持院で荼毘された。 諡号は養徳院贈左府、彼には藤原誠子(ともこ)と言う室があり、子には実相院増詮、三宝院義賢、浄土院持弁、地蔵院持円、安禅寺比尼らがいた。子供は皆僧籍に入っていて、孫はいない。 3代将軍義満は未だ弟の満詮が存命中の1406年に満詮の妻、藤原誠子(ともこ)を召しだし一子義承(梶井義承)を産ませている。生涯を通じて破天荒な女性関係を持ち続けた義満と常に兄に従順だった満詮との対照的な生き様を物語るエピソードである。 義満が生ませた義承は応永19年(1412)3月に梶井(三千院)に入室得度し梶井門跡、応永35年(1428)には天台座主となる。応仁元年(1467)10月18日示寂、62歳。
5代将軍は義持の息子で義量(よしかず)応永14年(1407)~応永32(1425)19歳 没(実権は父の義持が持っていたため、大酒を飲んでいて体を壊したといわれている)
1403年義持18歳の時初めて石清水八幡宮に社参、生涯のうち八幡宮へは42回社参、その中19回参籠した。 くじは石清水八幡宮で行われたが、義持死後に開封され、6代将軍が決まった。 尚4人の候補者は下記の通り 青蓮院門跡義円〈義教〉 大覚寺門跡義昭 梶井(三千院)門跡義承 相国寺虎山永隆 4人が決まり石清水八幡宮で籤引き。 籤の開封は義持死後に開封。籤引きの結果6代将軍には青蓮院義円(義教)となった。 (義教の母は4代将軍義持と同じ藤原慶子) ![]() 覇権争いをしながら15代まで続く 6代将軍、足利義教は嘉吉の乱(かきつのらん)で暗殺される。 嘉吉の乱とは、嘉吉元年(1441)6月24日、播磨など三カ国の守護を務めていた赤松満祐が京都の自邸に足利義教を招き、暗殺した事件である。義教の恐怖政治ではあったが、赤松満祐が義教を殺した最大の原因は弟の義雅の領土が没収されて一部が遠縁の赤松貞村に与えられたことと、赤松貞村の娘が義教の側室になっていたため特に重用されていて、そして満祐の領地も没収され貞村に与えられるという噂も起こっていたことにもよる。現職の将軍が殺害されたことは、多くの人々に衝撃を与えた。 ※尚、籤将軍といわれた足利義教が、石清水八幡宮に初めて社参したのは永享元年(1429)8月17日で将軍に成った翌年で、不慮の死を遂げるまでに13回社参している。最後の社参は亡くなる3ケ月程前の1441年3月10日である。 紀良子のDNAが覇権争いをしながらも足利15代まで善法寺家の血は続いた。 (添付資料 足利将軍家系図 参照) 紀良子の法号は洪恩院殿月海如光禅定尼と言い、塔所は洪恩院である。(満詮の妻であった藤原誠子(ともこ)も洪恩院にある。) この洪恩院は良子が住んでいた「小川殿」を禅寺に改めたものという。寺は室町時代後期に衰退し金剛院内へ移る。12代将軍足利義晴(1511~1550)の命により鹿王院に移された。 洪恩院の鎮守として鳥居本八幡宮が創建された。1413年良子が亡くなり、その志願によって洪恩院の鎮守社として八幡宮を祀ったという。(鳥居本八幡宮由緒略記)鳥居本八幡宮が独立の神社になるまでは仏式の法要が行われていたことから8月16日に良子の生家である石清水八幡宮へ送り火をしていた行事が、現在伝わる。 それが鳥居形の送り火の起源になったのではと考えられている。今では五山の送り火の一つである。 ![]() 【参考資料】 〇 足利義満 臼井信義 日本歴史学会編集 吉川弘文館 〇 足利義持 伊藤喜良 日本歴史学会編集 吉川弘文館 〇 寺社のH,P 〇『石清水八幡宮の崇敬について』 田中君於 〇 Wikipedia ![]()
by y-rekitan
| 2023-11-27 09:00
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