野間口 秀國(会員) 本号では、私の住んでおります橋本の川向いの大山崎町の、歴史を学ぶ活動について書きたいと思います。 きっかけは、昨年の夏に京都市考古資料館で開催中(7月8日~11月19日)の特別展示 「おこしやす、古墳時代へ」 に足を運んだ時です。 同館のロビーにある書架には京都に関するさまざまな書籍等に加えて、近隣市町村にて発行された資料が置かれてあり、「大山崎町」と記されたファイルが目に留まりました。思いがけず手にしたファイルが大山崎町の企画展図録でした。数日後、同館で開催中の小企画展 「錦絵にみる山崎合戦」 にも足を運んでみました。 昭和の大合併(昭和28年~36年)にて、合併開始前に国内に約1万あった市町村の数がおよそ3分の1に減少したといわれていますが、現在でも1郡1町(1村)の町や村は残っており、京都府乙訓郡大山崎町もその一つです。 かつての国境(摂津国と山城国)を示すかのように、JR大山崎駅の下りホームには京都・大阪の両府境を示す標柱が確認できますし、大山崎IC・JCT近くの高速道路高架下にある天王山夢ほたる公園には、「山崎合戦古戦場跡」の碑も見られます。町のHPによると、総人口は2023年11月1日時点で30,201人であり、男女比は 男性:14,667人、女性:15,534人とあり、面積は5.97平方Kmと、京都府内で最小であることが分かります。後ろを天王山に、前は淀川に面する大山崎町は、歴史的にも良く知られた町の一つと言えるでしょう。 話は古代に遡りますが、桓武天皇が延暦三年(784)年に長岡(現在の長岡京市)に都を遷したのは、淀と山崎に津(港)を有し、水上では瀬戸内、大和、近江などに直結しており、陸上でも交通の要衝の地であったからとも言われております。長岡遷都以前には平城京と九州の大宰府を、また時代が下ってからも京と大坂や西国の各地を結ぶ歴史的に重要な場所でありました。現在ではJR東海道本線(京都線)、阪急電鉄(京都線)、JR東海道新幹線が、更には名神高速道路や国道171号線などが、東西を結び、最近では大山崎IC・JCTを起点に南北へも繋がっています。 次に、大山崎町の「離宮八幡宮」と八幡市の「石清水八幡宮」との関係についてみてみたいと思います。 『八幡市誌 第一巻』(P205~207) には概略以下のようにあります。 曰く “大安寺の僧行教が、貞観元年(859)4月15日、宇佐宮に参詣したところ、八幡大菩薩が行教の修善に感応し、近都に移座し国家を鎮護しようと(7月15日夜半に)宣託した。まず、現在の山崎離宮八幡宮の地に至り(8月23日)一泊する。再び八幡神が示現して(8月25日)男山に移座することを宣した。朝廷に奏請し(9月19日)天皇の許しを得て遷座した。御殿の完成は翌年、貞観二年(860)である。” と。 このように深いご縁の両宮ですが、現在では離宮八幡宮と石清水八幡宮は、どちらも神社本庁傘下の独立した宗教法人であります。 ここで山崎橋についても触れておきたいと思います。橋はその昔、山崎の対岸、橋本との間に行基によって架けられました。奈良時代の高僧行基は聖武天皇の命で東大寺の建立に尽力した東大寺四賢人(聖武天皇・菩堤僊那(ぼだいせんな)・行基菩薩・良弁僧正)の一人で、畿内に49の寺院を建立、各地で橋を架け、堤を築き、灌漑用の池を作ったりしながら市井での布教活動に努めた僧です。神亀2(725)年には淀川に山崎橋を架け、その後、天平三年(731)橋を管理し行基の教えを広める道場の山崎院を建立しました。JR山崎駅東側の踏切近くには山崎院跡碑があります。一方の橋本側(現:枚方市楠葉中之芝2丁目)には久修園院を建立、今も同名の寺が残っています。 古くは承平五年(935)2月、土佐守の任期を終えた紀貫之が土佐から帰京の際に山崎津に到着、その後数日間この地に滞留したことが 『土佐日記』 にも見えますし、新しくは石清水八幡宮の男山展望台の石碑にも残る谷崎潤一郎の小説 『蘆刈』 の冒頭部分にも山崎で酒を求めた様子が書かれております。山崎には酒を売る店も多かったのでしょうか。 酒はさておき、私が興味を持ったのは、離宮八幡宮が “油類を取り扱う多くの人々に親しまれている歴史ある神社” であることでした。同宮を訪ねると油を扱う多くの企業・団体・個人名が記された案内板(同宮創建1150周年記念事業への募金・寄付賛同者)がそれを教えてくれます。由来は、かつて離宮八幡宮には荏胡麻(えごま)油を独占的に扱う組織の存在があったことです。 物品の流通や売買(商業)が自由でなかった中世では、商品を独占的に売買する権利が必要でしたが、それらの権利は大きな寺院や神社や豪族などに限られていたのです。山崎には西国の船が着く津(港)があり、摂関家の散所(さんじょ:地方に散在した荘園領主の家産を管理する機関)も置かれており、物流の基地として賑わいを極めていたようです。 西国各地や四国などから運ばれてくる荏胡麻を陸揚げして、この地で油を搾り、石清水八幡宮をはじめとする畿内の神社仏閣や、民家の多い都市部に燈油を独占的に供給していたのです。当時の荏胡麻の産地は、中国(西国)筋では備前が最大であり、四国では讃岐、伊予が、京の近辺では育たず、東では尾張、美濃であったことがわかります。 『燈用植物』 深津正著(P197)より。 また、司馬遼太郎著の小説 『国盗り物語』 には、奈良屋又兵衛という畿内有数の油問屋が備前から運ぶ燈油の材料の荏胡麻を運ぶ際の護衛隊長として雇われ、その役目を果たし、 大きな油問屋へと変貌する過程が、架空の人物とは言えとても分かり易く燈油の流通の理解を助けてくれました。また、この『国盗り物語』に書かれている離宮八幡宮の神官のお名前が、現在の第47代宮司と同姓(津田氏)であることをも知り驚きを禁じ得ませんでした。 中世に荏胡麻油の専売権を握り、その本所(本居・本邸・本家とも)として栄えた同宮は今日でも「製油発祥の神社」として業界では広く知られており、境内にはその碑が建てられています。 しかしながら山崎の油問屋の隆盛は、今でも近くに残ります大念寺に建つ駒札に「弘治元年(1555)頃には、すでに衰退期にあった」ことが記されています。衰退の大きな理由は、流通の首座が荏胡麻油から菜種油に代わったからと伝わっています。 今日、大山崎の荏胡麻の燈明油についての啓蒙活動は、「大山崎えごまクラブ」の令和2年(2020)2月28日発行の ”あかりまちだより第7号” に詳しいですので、部分的に以下に引用させていただきます。 曰く、油座の衰退から長い年月が経ち、灯明油で栄えた町の文化や歴史を地元の人たちも忘れかけていました。そこで「大山崎えごまクラブ」では地元の大山崎小学校でエゴマ栽培から始まる灯明油つくりに取り組むことにしました。以下省略。また、同誌には「大山崎小学校では4年生になったらエゴマを育てて油しぼりができるねん」とも書かれてあります。 冒頭の小企画展の帰りに訪れた離宮八幡宮の境内の一角に、子供たちが植えたであろう、と勝手に思い込んだエゴマが夏の日を浴びてプランターで育っていました。 しかしながら、これはクラブのものではありませんでした。「大山崎えごまクラブ」のことをもっと知りたいと思い、町の教育委員会の方にお聞きしましたところ、活動を推進されている荏胡麻クラブ代表の永田正明様を紹介いただきました。幸いにも、代表の永田様はじめ杉藤様、津田様にクラブの歴史や活動内容などを教えて頂く機会を得ることができました。 大山崎小学校4年生の社会科の課程で、「児童の手によって荏胡麻を植え、水やりをして育て、実ったら刈り取って、油を搾る」といった一連の作業がなされていることも知りました。さらに、永田様のご親切に甘えて、夏空のもと青々と育った荏胡麻畑にも案内いただきました。「秋には刈り取って、量はわずかではあるが、燈油を搾る」とのことでした。 好天気に恵まれた12月10日、離宮八幡宮の境内にて大山崎えごまクラブ主催の「2023年 冬のえごまフェスタ」が催行されました。13時から鳥居前で、地元の太鼓演奏クラブ「つくどん」の力強い演奏に始まり、続いて「エゴマ油しぼり」へと進行。既に準備された「立木型搾油機」を前に、まず進行役の方からこの地で荏胡麻油が搾られるようになった歴史的経過の説明がありました。 最初の歴史的史料は信貴山真言宗総本山、朝護孫子寺の『信貴山縁起絵巻』です。この絵巻物は平安末期のものとされ、国宝に指定されており、同寺では複製が保存されています。その第一巻は「山崎長者の巻」とも呼ばれているようですが、その中に同寺と離宮八幡宮の関りが描かれているとの説明でした。(詳細は割愛いたします)。 引き続き搾油機の機能(操作)説明がなされました。なお、搾油機は立木型より時間を置いて後、より量産性の高い長木型が造られたことも学びました。搾油の手順は、刈り取られた荏胡麻から実だけを採って蒸します。蒸した実を搾油機の臼の部分に入れ円柱形の杵で覆います。搾油機の左右の柱の溝にくさび型の木片を挿入し、左右両方向から槌で叩き、杵に下方向の力を加え、搾りだすのです。すると、搾油機の臼につながる管から柔らかな黄金色をした荏胡麻油が出てきます。その量は多くはありません。油を直径4~5cmの皿に受けて、イグサで作られた灯芯を浸して点火すると柔らかい灯りを供してくれます。実際に槌で叩いて荏胡麻油の出ることを確認し、手で触れる貴重な体験でした。「エゴマ油しぼり」に続いて、荏胡麻の実を採った殻で作られた「茅の輪くぐり」も行われました。このように町に残る歴史を小学校で学び、実際に油を搾って灯りを得るといった体験は、子供たちにとっても文字だけでは学べない貴重なものであると思います。大山崎町の荏胡麻油の歴史を学ぶ機会を与えて頂きました関係者の皆様方には感謝あるのみです。また、フェスタ当日、夏に貴重なお話をお聞きし、荏胡麻畑を案内いただきましたクラブの会長様の訃報に接しました。驚きとともに、頂きましたご親切にお礼を述べる機会を失い本当に心残りではございますが、ご冥福をお祈りして本稿を閉じたいと思います。2023.12.13 ※ お断り:燈明と灯明、及びえごまの書き分けは、使用した資料の表現に従いました。 【参考書籍及び資料等】
by y-rekitan
| 2024-01-27 10:00
| 隣の芝生
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