猿田彦神社と猿田彦大神 120号

《会員研究発表》

猿田彦神社と猿田彦大神

2023年2月 八幡市文化センター第3会議室にて

村山 勉(会員)
 2月2日午後2時より八幡市文化センターにおいて、表題の会員研究発表がありました。八幡市橋本東原に猿田彦神社がありますが、主祭神の「猿田彦命」は、日本神話でニニギノミコトの天孫降臨の際、道案内をしました。全国に2千余社ある猿田彦神社の本宮は三重県にあり、三重県出身の村山氏が各地の猿田彦神社を訪問されて資料や撮影写真を中心に詳細な説明がありました。
講演の概要は村山氏が纏められた。(会報編集担当) 

橋本にある猿田彦神社

 橋本東原にある「猿田彦神社」は「猿田彦命」を祀る神社で、森の中には東西に分かれた夫婦岩があり、猿田彦神社と猿田彦大神 120号_f0300125_17002613.jpg岩倉となっています。岩倉とは神が降臨される神聖な地です。         
 八幡大神が九州の宇佐神宮(式内社・豊前国一宮)から「託宣」で「都の近くに移座し国家を鎮護しよう」と八幡男山に移座される時、山崎で一夜休憩され、翌朝出発されたところ、道中で猿田彦神が「男山の峰にお鎮まりになるとお聞きし、道先案内として参りました」と申され、大神様をご案内されました。村人がこの話を知り、出迎えた地に祠を建てお祀したのがこの地であり、平野山地域の鎮守・守り神となり今日に到っています。

如法経塚と夫婦岩(夫婦岩神社)と猿田彦神社

 石清水八幡宮の宮工司の長濱尚次著の「男山考古録(全5巻)」があり、これに記載があります。石清水八幡宮開祖の行教和尚が「神領鎮護安全の為、法華経を銅板に自ら彫付け石櫃に収め、此の地に埋置、猿田彦神社と猿田彦大神 120号_f0300125_17134858.jpg其上に一基の石造り経塔を建てた。是が所謂如法経塚也と。が、塔も崩れ無く、如法塔石の称メウトイシと訛りて、土俗後代に二個の大小の石を置いた。これが夫婦石で、東の方、小山の如く、石段もあり、牛の伏したる如し。石鳥居石の三方石の透籬(すいがき)有りて、鳥居の柱に安永元年(1772)12月小西長左衛門紀亮長とあり。西の道の傍の石はいささか小、石鳥居石の透籬、同名の彫付けあり。小西某は大阪の住人。松など数株繁茂し、凡そ20間四方もある(この近辺を別峯というは、近くの智渓寺開基の僧・別峯がこの地に住み、里俗のよぶ処なり)。猿田彦神社は、うえにいふ夫婦岩の森の内に在て、西の石の東の傍に坐し小祠なり、左右に石燈籠あり」とあります。境内には、「南岩倉(右 如法経塚三丁・左 浄瑠璃姫墓五丁)の石碑があります。

猿田彦大神と天鈿女命と天孫降臨

 「古事記」「日本書紀」に猿田彦大神と天鈿女命が出てきます。天孫降臨とは、天照大神の子・天忍穂耳尊と高皇産霊尊の娘・栲幡千千媛命との子・瓊瓊杵尊が、葦原中国の主として天降り、日向国高千穂の嶺に至った。三種の神器と5柱の神と天児屋命らが従った。途中、猿田彦神が出迎え案内した。
待ち受けた八衢で国津神・猿田彦の名を尋ねたのが天鈿女命で、名を明らかした天鈿女命がその功で「猨女君」の称号を授かる。案内を終えた猿田彦を「伊勢の狭長田五十鈴川の川上」に送り、夫婦となり、ともに全国の開拓に当たったといわれています。御神徳は、家内安全・夫婦円満・交通安全。

猿田彦神社の本宮

 全国に二千余社あるとされる猿田彦神社の本宮はどこか?三重県伊勢市宇治浦田にある猿田彦神社は「大神第一の本拠地・本宮(もとつやしろ)」とあります。 
猿田彦神社と猿田彦大神 120号_f0300125_17261205.jpg 第11代垂仁天皇の御代、皇女・倭姫命が神宮御鎮座を求め、伊勢に到着の時、お迎えし、五十鈴川の川上の霊地を献上され、そこに皇大神宮(内宮)が創建されました。その五十鈴川の川向うに神社はあります。宮司・宇治土公(うじのつちぎみ)家が、祖神(猿田彦大神と大田命)の祭祀を邸内で行っていたが、江戸時代の延宝5年現在地に祀られました。
 御祭神は猿田彦大神と相殿(配神)大田命です。境内には天宇受売命を祀る「佐瑠女神社」があります。
 宇治土公家は、伊勢神宮の玉串大内人(たまくしおおうちんど=式年遷宮で心柱と御船代を造奉)を務め代々宮司職にあります。境内には本居宣長の宮司家を詠んだ歌碑もあります。
 御祭神は猿田彦大神と大田命で、御神徳は、猿田彦大神は「啓行(みちひらき)の大神」として、道案内や道の守護、方角・方位除け・災難除け・開運事業発展・五穀豊穣・大漁満足とあり、天宇受売命は「芸事の神様」」として技芸の上達、良縁、「玉鎮・振魂の神」鎮魂等。

もう一つの猿田彦神社の本宮・椿大神社つばきおおかみやしろ

 三重県鈴鹿市山本町に椿大神社があります。神社名石碑「伊勢一之宮 猿田彦大本宮」が建っています。御祭神は「主神 道祖 猿田彦大神」「相殿 天孫 瓊瓊杵尊 御姥 栲幡千千姫命」。「別宮 天宇受女命」。とあります。猿田彦神社と猿田彦大神 120号_f0300125_17323975.jpg 仁徳天皇の御霊夢により「椿」の字もって社名となり、又、昭和の初め内務省神社局の調査で猿田彦大神を祀る本宮と明らかとなり「地祇猿田彦大本宮」と尊称されていす。天平11年聖武天皇が親拝、勅願で吉備真備をして大神御神面及び獅子頭一頭を刻ませて奉納された。
 これに由来して獅子神による祈祷神事、獅子舞の宗家として知られる。又ここには、土公神・猿田彦大神の御陵(高山土公神陵)があり、「御船磐座」は謡曲「鈿女」に謡われる神代の神跡(天孫・瓊瓊杵尊の御船がここに繋がれ、この地より九州に御先導されたと伝えられ、禁足地となっています。
 御神徳は、「みちびきの祖神」として地まつり・方災解除・厄祓、「興玉の神」として神々の御霊を奮い興すとして先達・延命長寿・縁結び、「道祖の神」として家内安全・無病息災、交通安全、「船玉の神」として大漁満足・航海・旅行安全。又、天野鈿女命を祀る別宮・椿岸神社では、「縁結びの神」として夫婦円満・家族親族の和合、「芸能祖神」で技芸上達等々。又、猿田彦大神の神裔で役の行者を導いた行満大明神を祀る「行満堂神霊殿」では、日本最古の獅子舞神事が行われます。
 また、「縣主神社(境内摂社)」には、御祭神は「倭建命(やまとたけるのみこと=伊吹山で敗れ鈴鹿の能褒野で「わが足は三重にまかりなして、いと疲れたり」=三重県の名の由来)と、その子・建貝子王です。同じく境内には松下幸之助翁が寄進された茶室 鈴松庵 庭園 松下社もあります。

「伊勢国一の宮」が二つ

 三重県鈴鹿市一之宮町に都波岐・奈加等神社(つばき・なかとじんじゃ)があります。延喜式で小社ではあるが、伊勢国一の宮である。猿田彦大神8世の孫・伊勢国造・高雄束命(たかおわけのみこと)が勅を奉じ、「都波岐神社」と「奈加等神社」を創建しました。猿田彦神社と猿田彦大神 120号_f0300125_17385541.jpg都波岐神社の祭神は猿田彦大神、奈加等神社の祭神は天椹野命(あめのくぬのみこと=「先代旧事本記」に、饒速日命(八幡市飛行神社の祭神)が天磐船で大和に天降った時に隋伴した32人の防衛(ふせぎもり)の一人)と、中筒男命です。
 明治時代に合併されて現在の社名になりました。天長年間に弘法大師が参籠し、獅子頭2つを奉納しました。雄雌2頭の獅子舞(中戸流舞神楽)は一時中断されたが、平成29年に復活し、鈴鹿市の無形文化財に指定されている。境内社には天宇受売命を祀る「小川薬王寺社」があります。

「お伊勢参り」関連の二見興玉ふたみおきたま 神社

 伊勢市二見町江に「二見興玉神社」があります。御祭神は「興玉大神:御名 猿田彦大神」と「宇迦乃御魂大神」です、二見浦の夫婦岩ですが、日の大神と沖合に鎮む猿田彦大神縁の興玉神石を遥拝する鳥居の役目を果たしています。猿田彦神社と猿田彦大神 120号_f0300125_17450928.jpg 天照皇大神御神が奉載された御船を二見浦に停められた時、興玉大神が海上の厳島に出でまされ、御神幸を守護し五十鈴川の川上に大宮地を定められました。伊勢の二見浦は清き渚と呼ばれ、神代の昔より霊域で清浄な浜辺で、伊勢参宮への参拝者が浜辺で汐水を浴び心身を清める禊場であった(浜参宮、無垢塩祓)。興玉大神の由来は起魂・招魂で、魂を導き甦らせる神であり、大地主大神・衢の神・災厄を祓い清め道を開く大神であります。
 境内に天の岩屋があり、往古より宇迦御魂大神を祀った三宮神社が鎮座されていたが、文禄年間に外側へ遷祀さ  れた。日の大神がお隠れになった岩屋と伝わっています。
 二見蛙は日の神に谷蟆蟆(蛙)を献じたものと伝、神宮参拝者が旅の安全、航海の安穏を祈念し無事「かえる」の願いからとも言い伝えられ、若かえる・貸したものがかえる等の縁起により献納されています。

猿田彦大神の終焉、阿邪加あざか神社二社

 「男山考古録巻六 大将軍社 同猿田彦大神」の記載に、「猨田昆古神、阿邪詞(あさか)に坐時、漁して比良夫貝に其手作合(くいあひ)、海鹽に溺れ沈み其底に沈時の名を、底度久御魂・其海水の都夫多都時の名を、都夫多都御魂、其阿和佐久時の名を阿和佐久御魂(祭神3座に比定、本居宣長の「古事記伝」)。この阿邪詞は伊勢国壹志郡(現松阪市)にて今も大阿坂・小阿坂と南北二村にわかれたり」。天照大神の神霊を奉じ、巡行の時、安佐賀山嶺の荒ぶる神・伊豆速布留神(いつはやふるのかみ)が「五十鈴川上之宮」への巡行を阻止するので、阿坂国を平定した天日別命(あめのひわけのみこと)の子孫・大若子命(おおわくごのみこと)に荒悪神を祀らせ神社を建立した。 
猿田彦神社と猿田彦大神 120号_f0300125_17510391.jpg 「荒悪神」が当神社の祭神であった。当初の阿坂山山上から山麓への遷座の時、伊勢神宮外宮の御厨が延元4年に「大阿邪賀御厨」と「小阿邪賀御厨」に2分(給人引付并神領目録)、両社(同じ社名)はその分割に際してそれぞれの御厨に鎮守神として勧請された。御祭神は猿田彦大神・伊豆速布留大神・龍天大明神で、当地一帯を領有する神だが、後の水田耕作での水神信仰と結びつき「龍天大明神」の俗称を得た。神位は835年従5位下から866年の間に従3位に昇如。後醍醐天皇延長5年(890)には式内大神社に編入、延喜式神名帳には伊勢国阿邪賀神社3座並名神大とあります。
 御鎮座地は、①三重県松阪市大阿坂670、②三重県松阪市小阿坂町120にあります。非常に参道が長く誰もいず、又拝殿らしきも建物はなく、お賽銭箱が何処にも見当たりませんでした。

旧八幡水豆の白髪大神を祀った 凉 森 すずしのもり神社

猿田彦神社と猿田彦大神 120号_f0300125_18001212.jpg 京都市伏見区淀美豆町(八幡庄外四郷の一つ・美豆)にある「凉森神社」には祭神として、白髭大神・神速須佐之男命・大国主神・事代主神に・菅原道真とあります。白髭大神は猿田彦神です。古墳時代、第16代仁徳天皇が難波高津宮に遷都の時、難波・奈良への交通の要所のこの地に休息地として行宮を造られた際に創建されたと伝わります。樹木が繁茂し大変凉しい事で凉森神社と称されるようになりました。

猿田彦神社と猿田彦大神 120号_f0300125_18045749.jpg  又、平安時代・菅原道真公が九州左遷される時に立ち寄られ、鈴・自画像を献上したことから、鈴身神社と別称されたが、後に凉森神社に転訛したといいます。戦国時代この地に水豆城があり、「当代守護の三方山城入道(範忠)が、国に入部した。この時、水豆に城郭を構え移住した(「看聞御記」)」と記載があります。境内地には石清水八幡宮の関連で「石清水八幡宮神領守護不入之所」(江戸時代建立)の石碑があります。 
以上 一一

「一口感想」より

◎かつては橋本の里から猿田彦神社 狩尾神社 石清水八幡宮へが正式参拝ルートであったことも興味深いお話であった。(O・T)
◎散歩道として何度も猿田彦神社には家内と参りますが、その後平野山地区を通って古窯の事を見て帰宅します。今日はありがとうございました。(T・U)
◎猿田彦さんの祠は、ウチの近くの神社(二ノ宮神社)の中にもあります。興味ある神さんです。日本の神さんの世界はおもしろいです。個人でこれだけの調査はすごいです。次回も楽しみにしております。(F・K)
◎素晴らしい研究発表をありがとうございました。自分が長年住ませて貰いながら、こんなに歴史のつながりの中に居たことを改めて感無量です。深く詳しく調べて頂き、誇らしく思います。
 ※忘れかけていた古字(ふるい字や神々の名)もよみがえり良い勉強になりました。歴史ある”橋本の路”ありがとう!(M・K)



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by y-rekitan | 2024-03-22 11:00 | 講演会・発表会
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