柏村直條の東紀行 124号

《会員研究発表》

柏村直條(柏亭醜哉)の東紀行

令和6年9月 八幡市文化センター第3会議室にて

    田中 美博 (会員)

1.はじめに

 「東紀行」は江戸時代中頃の享保に改元される年(1716)に、石清水八幡宮の神人である柏村直條(かしむらなおえだ:隠居して柏亭醜哉)が日光例幣使の風早公長卿に随い、日光の後、江戸・鹿島・甲府のあと奥州を通り蝦夷松前へ行き、帰途岩出山と江戸に寄る旅をした紀行文です。

「古文書の会八幡」は平成二十九年にこの紀行文を見つけ、それから5年近くをかけて会のメンバーにより輪読を終えました。翻刻に注と解説を付けて令和五年(2023)三月この「翻刻 東紀行」をまとめることができました。
この紀行文は、地元八幡の人であり連歌・和歌・発句に長じた直條が公家、藩主、武家、僧侶、神官、親戚、宿場の人など多くの人達と再会し出会った記録で、直條の広い交際範囲がわかります。また直條が旅した江戸時代中頃の各地の状況と人々の様子を知る参考になればと思います。

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2.柏村直條について


2.1 紹介

 柏村家は、石清水八幡宮寺の神人(相撲預り祢宜)であるとともに、中世では八幡宮の地域では麹の流通と生産の専売権を占有し、江戸時代は時の将軍から領知朱印状を拝受する八幡の有力者の一人でした。

江戸中頃に生まれた柏村直條はその財力と才能により、活動が公家達にまで聞こえ、上皇にまで達した。特に連歌に長じ、当時の連歌師の一翼を担う里村家とも縁が深くその妹(真)が里村昌純の妻となっている。「八幡八景」を選定し、その成立に奔走し、実に多くの詩歌・和歌・発句を公家・武家・僧侶から庶民に至るまで依頼して取集している。さらに、人的交流の多さも実に広く、其故もあって日本全国を旅して、北は北海道から西は厳島・長崎までに及んでいる。

直條の詳細について、「八幡の歴史を探る」第63号(2015年八幡の歴史を探究する会)にはその末裔であられる京都市現住の柏村直樹氏による講演記録がある。また古文書の会八幡発行の「翻刻 柏亭日記」(2018年)には年譜・系図なども掲載している。


2.2 日光例幣使への随行

 東紀行の始まりは正月九日に直條が京都へ年始の挨拶に行き風早家に参上したところ、その朝に公長卿が日光例幣使に決まった。お祝いに人々が集まり直條の随行も許され、直條の発句(5+7+5)で連歌が始まり、公長卿、中将実積朝臣などで続けた。この部分の翻刻を図2で示す。

 NHK大河ドラマの「光る君へ」では道長がトップで開かれる今の内閣のような「陣の定め」がある。江戸時代には政治の実権はないが、その結果は公家補任に記録されている。奉幣使の内示は正月九日であるが、享保元年(正徳六年)の公家補任では三月十九日に発遣日時定めとして奉幣使に風早公長卿と示されている。四月朔日出発なので正月に内示があったのであろう。

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2.3 紀行の全体像

 この紀行に記された行程の概略を示したのが図1である。岩瀬文庫所蔵の柏亭家譜によると、当紀行は『夏四月朔公長卿に従い日光山のにるに東にゆく、日光山に詣で、品川で公長卿と別れ、江戸にとどまりて、酒井勘解由の巣鴨の館に在り、たまたま其親友勝日之会に遇い、直條席を同じうして宴楽せり、遂に香取鹿島に詣ず、鹿島神官東の長門守常山を訪う、此人曽て出雲路信直之門に遊び因りて宿昔を語り饌を為して其子胤貞を見せしむ、越えて甲州にゆき、叔父山田廣正・柳澤重守・長宗春を問い、奥州にゆき室の八島を見、足利の学校に至る ―中略―    玉造江に臨み桜川を渡り、衣川を歴、松前志摩守矩廣之招に就く、松前に在ること凡そ七十日、蝦夷地を渡り出てを見、岩手山を遊歴し、三月二十五日家を出て十一月五日歸る』


3.甲府訪問

3.1 はじめに

 柏村直條は正徳六年四月一日に日光例幣使風早公長卿に従い京都を出て、中仙道と日光例幣使街道をへて十五日に日光に到着し儀式をすませた。例幣使を品川で見送り、香取・鹿島に参拝した。そして同年五月六日に江戸を発ち甲府へ向かった。甲府は柳沢吉保の跡を継いだ柳沢吉里の城である。直條より3歳年下の叔父で柳沢家の筆頭家老となる薮田重守とその他の親戚に会うためであった。

薮田重守の前に直條自身の家族を紹介しておきたい。直條の祖父直重に跡継ぎはなく、父直能は山田家からの養子である。母萬武との長男が直條で妹が真(さな)でその夫は連歌師の里村昌純。継母の繰との間に弟尚誠がいた。直條は妻茂(桂樹)との間に家を継いだ長男真直(まなお)ほか子供達がいた。直條の亡母萬武の弟長宗春とその義弟の村越与次右衛門は柳沢家に仕えて甲府にいた。また弟の尚誠は元禄四年から6年ほど柳沢家に仕えたが、やめて京都に戻っていたらしい。


3.2 薮田重守とその家族

 直條の祖父山田広清には子供が10人あり、直條の父直能はその長男であった。その10番目の子が熊之助で、実姉の起与の夫の薮田忠左衛門重之の養子となり薮田五郎右衛門重守を称した。そして浪人になったあと、元禄元年に柳沢家に出仕して吉保に引き立てられ家老となって二千六百石に出世し、正徳二年には柳沢の姓も賜っていた。甲斐の国主でもあった柳沢吉保は隠居し柳沢吉里の代となり参勤交代を始めた。吉保は1年半前の正徳四年十一月に亡くなっていた。

この年五月に重守は甲府にいたので直條は会いに行ったのである。重守には妻吟と長男熊之介(阿波、後の里守)当時十七歳、次男貞祝「造酒之丞」十七歳、三男甫矩(もろのり)「元右衛門」十五歳の3人の男の子があった。


3.3 増子の御方と馬場で会う

 甲府に着いた八日は重守の屋敷で歓迎され翌九日は屋敷内を案内された。その夕食前に叔父の山田広正の家へ直條が移ったのは、重守の屋敷に国の守の子が来るからとの事。夕食中に呼ばれ重守の妻の吟につれられ、重守とその男の子3人が馬場で馬に乗るのを見た。

その乗馬を見に来た増子の御方と直條は言葉を交わした。増子とは柳沢吉保の末娘でこのとき8歳、母は祝園氏閃子。当主吉里の妹にあたる。3年前に吉保の命で重守の長男と婚約しており、正徳四年四月には重守の養女の形で江戸を出て甲府に来ていた。吉里の転封に伴い享保九年に大和郡山に移り、翌十年に増子が17歳となり長男熊之介と結婚するが、享保十五年四月に22歳で亡くなった。
ところでこの馬場は重守の甲府屋敷の北東部にあり、馬見所があったことが薮田家屋敷図に見ることができる。


3.4 親戚の人々

 九日の夜は長宗春に、その後は山田広正あるいは重守の屋敷に泊まってすごし、十日からは安田岫雲、長宗春の義兄の村越与次右衛門、重守の養父の薮田忠左衛門重之、山田次郎左衛門などの歓迎を受けた。

重守の甥で直條の従弟にあたる山田新蔵重祐は直條が甲府へ行った時には柳沢家にいなかった。彼は引退後の柳沢吉保の御側役であったが讒言にあい正徳三年一月に出奔し帰参の勧めにも応じなかった。東紀行では直條は鹿島への行きと帰りに江戸の近くに住む重祐を訪ねたばかりで、その様子を重守達に伝えたであろう。


3.5 薮田重守の人脈

 甲府で直條は多くの親類縁者に会えたが、そのなかで薮田重守は重要な叔父であった。諸大名家との交際は柳沢家の筆頭家老となる薮田重守なしでは起こりえなかったであろう。

例えば前橋藩の元藩主で藩の実権をもつ酒井勘解由忠挙(ただたか)とはこの旅の中で風早公長卿と一緒でないときも何度か面会し歓迎されている。その親友勝日の会にも参加した。酒井忠挙の娘槌姫(頼子)が藩主柳沢吉里の正室になっており、五月十九日に重守の手紙を直條が酒井勘解由に渡しているなど、重守を通して直條はつながりがあったとみられる。

もう一例は十月十八日に江戸で薮田重守を訪ねたが、その際に淀藩主の松平(戸田)光熈に重守が料理に招かれ、直條も同行した。光熈から「常御ましにてゆるゆると御物語申し」ともてなしをうけた。これは美濃の加納で昔のつながりがあるからかも。

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塩釜神社
直條は6月2日に松前に向い江戸を出発し、6月8日塩釜神社に参拝した



4.松前藩用人工藤家の人々

 柏村直條は藩主矩広の招きで松前を訪問したとき藩の用人工藤八郎右衛門の世話になった。
この工藤家に伝わる「工藤家年々秘録」を閲覧できたので藩主矩広の家族との事項を拾ってみた。
工藤八郎右衛門矩房は正保四年生れなので、享保元年では70歳。家臣中での順は家老達に次ぐ用人で、天和3年(1683) 東部ニイカツフ交易場所を預けられていた。長年桧山奉行を命ぜられあるいは江戸参府に何度も供奉していた。正徳二年頃にかけて京都へも行き、矩広の書道持明院流入門手続きをしていた。

藩主矩広に供奉して江戸在府中の正徳六年正月、跡継ぎ急死と養子問題の際に養子選択の実務にあずかり、その年三月に帰国した。六月に直條を迎えているが、この工藤家年々秘録には直條の名前は全く出てこない。享保五年の矩広死去により隠居を願い出て楽保と改名したが、跡継の邦広に求められて出仕をした。享保九年を最後にしてその名はみえない。

工藤家の跡継ぎは養子の工藤織右衛門で直條訪問時は30~32歳。すでに松前藩に出仕して13年経過し直條の接待にもあたった。宝永二年の項に「織右衛門の妻は養父八郎右衛門の娘(みよ)とあるが実は藩主矩広のご落胤」とある。矩広の晩年には織右衛門の妻となったこのご落胤の「みよ」だけが残っていたことになる。この織右衛門が享保十年には八郎右衛門を名乗るので、柏亭日記の享保十四年の中で直條が交際していた工藤八郎右衛門はこちらであろう。 

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松前城の東城壁と天主閣
天主閣は幕末に建設され、昭和24年に火災で焼失し、
コンクリート造りで再建された
              


5.直條の松前訪問の謎

5.1 はじめに

 東紀行の中で最も大きい事は松前藩主矩広の招きで松前を訪問したことである。しかし、①下記図3の翻刻のとおり72日間の滞在中の六月二十四日から八月末までの65日間の記録が空白となっている。②この長期間に直條は何をしていたのか。③直條の蝦夷松前訪問にはどのような経緯・理由があったのか。これらの疑問を東紀行の記述と松前町史を中心に考えてみた。

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5.2 松前藩の事情

 直條が行こうとした年は松前藩には大変な年であった(以下本項はほとんど松前町史の抜粋)。前年の正徳五年九月松前矩広と跡継ぎの次男富広(橘太郎)は江戸へ向けて松前を出船した。江戸参府と跡継として富広が将軍家継へのお目見えするのが目的であった。このとき富広は19歳、前年公卿高野保光の娘房と結婚していた。十月二十一日江戸に到着し、老中と松前嘉広など江戸
の松前一族への挨拶をすませ、十一月一日将軍に拝謁した。ところがこの頃病気にかかり、翌正徳六年一月十三日に江戸で病没してしまった。
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藩主矩広は正室・後室との間に子はなく、側室の玉との間に男子が3人と女子4人が生まれたが、長男周広は17歳で、三男方広は3歳で早逝、残った次男富広が病没してしまった。矩広は58歳なので連れてきた家老蠣崎(かきざき)主殿広武や用人工藤八郎右衛門らと相談して跡継ぎを決めざるをえなかった。
左記の第3-9家系図(松前町史通説編第一巻上P597)のとおり、父松前高広の従弟にあたり江戸にいる旗本の松前嘉広と當広に迫られ、国元の家臣達と意思疎通ができないまま、江戸にいる松前一族ではあるが遠縁の松前本広の末子の伝吉(12歳、後の邦広)を跡継ぎとすることにした。同年二月十一日に養子縁組を老中が許可、その3日後将軍に拝謁した。閏二月十日江戸を発し三月二十日松前に戻った。

松前矩広は7歳から51年間の藩主在任中に多くの問題を抱えていた。寛文九年(1669)のシャクシャインの戦いの際に自身は幼少で出陣できず、そのあとも家老の変死(延宝二年から3件)が続き、天和二年に将軍側用人牧野成貞から面責され、その後も元禄元年の藩士による江戸藩邸放火、宝永六年の家老蠣崎広久の変死があり、暴風・洪水・飢饉も起きていた。藩内には以前から蠣崎正広系、同守広系、下国氏という藩主一門間の争いがあり、養子問題を契機に騒動となったのは間違いなく、直條到着の17日後の七月八日には、江戸へ同行して処理にあたった家老蠣崎主殿広武がまたも変死している。このような時期に直條は松前を訪問したのである。


5.3 松前伊豆守嘉広

 旗本の松前伊豆守嘉広(よしひろ)は東紀行には松前豆牧公として登場する。松前嘉広は元禄五年四月から元禄十年四月まで京都東町奉行を務め、引き続き元禄十六年十一月まで江戸南町奉行となり、続いて宝永二年まで幕府が諸大名を監視する大目付であった。その後本丸留守居となり享保十六年に80歳で死去している。
嘉広の父の松前泰広は寛文九年(1669)夏に蝦夷でシャクシャインの戦が起きたとき45歳。そのとき松前藩主であった矩広は11歳のため泰広が幕命により総大将となり奥州諸藩の軍も合わせて出陣し鎮圧した。このあと寛文十二年の残余の乱には父と共に21歳の嘉広も出陣している。すなわち嘉広は幕府の要職を務めた人でかつ松前藩が恩義ある一門の中心人物であった。よって松前藩の運営に強い関心をもち、江戸で幕府と松前藩の間のやりとりに深く関与していた。
         
     
5.4 疑問点

 直條は5.2項で述べた騒動の最中であろう六月二十日に松前に着いた、しかも接待役は家老に次ぐ用人の工藤八郎右衛門である。滞在中の家老の変死など松前藩の内情は直條にもわかったであろう。もともと、東紀行は旅行の関係先に配るすなわち公表のために書かれたもので、松前藩による蝦夷地支配の実態ともめた藩内状況は書ける事柄ではなかった。それで、六月二十四日から八月末までのことを直條は書けなかったと考えられる。

では松前で直條は何をしていたのか。連歌の会もしたし小鷹狩もあり、工藤家と温泉にも行ったであろうが72日間は長すぎる。夏の終わりから秋の蝦夷地は歩き回るには不便はなく、好奇心旺盛な直條は蝦夷各地の交易場所へも足を運び現地で見聞きしたのではなかろうか。松前出帆の九月四日は陽暦では十月十八日で、海が荒れやすく雪も近い晩秋まで留まっていたことになる。

松前矩広から連歌など文化的な面で松前に来ないかとの誘いは以前からあったのであろうし、直條を夏に迎える計画であったろう。それが正月に跡継ぎの富広が亡くなり養子伝吉を迎える結果になった。矩広が三月二十日に養子と共に帰国して藩内は騒然としていたはずで、普通の訪問者なら松前行は中止される筈がされなかった。

藩内の騒動が原因か江戸出立は延期されて、その間に直條は香取・鹿島に詣で、さらに甲府へも行っている。甲府から戻って16日後の六月二日にようやく出発できた。仙台では岩出山の伊達家からそのまま岩出山へ来てくれとの誘いを断って北へ急いだ。延びた理由は理解できるが、そこまでして訪問した理由は何だったのか。奥州の芭蕉の足跡をたどり冷泉中納言に紹介された岩出山を訪問するだけでもよかったのではないか。
                      
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水神岬西から松前方向
波荒い日本海に面し、左端が松前小島、中央右より遠方は松前大島、右端の陸地が松前の町


5.5 推測

 疑問を解く鍵となるのは松前豆牧公すなわち松前伊豆守嘉広で、この人が直條の松前行の推進者で内情調査を頼んだのではなかろうか。嘉広は蝦夷の戦のとき父に付いて出陣し、この享保元年の後継者選びでも中心的に動いた人である。

この人は幕府内で数少ない蝦夷地の経験者であり、混乱が続いた松前藩の内情と蝦夷地の運営を心配していた筈である。その上に矩広が養子伝吉を連れて帰国した後の藩内情勢がどうなのかも気がかりだったと思われる。直條は連歌師ということで松前藩に受け入れさせるのに都合よかったのではないか。

松前嘉広が松前行きの推進者ならば行く前に打ち合わせた筈であるが東紀行に事前面会の記録は無い。ただし、直條は松前行の前に松前藩江戸屋敷に何度も泊り、また松前藩江戸留守居役の河合源左衛門宅には10日以上泊まっておりその中で行われたのでは。十月に江戸へ戻ってからは嘉広を何度も訪問し歓待されている。これらの中で松前藩の内情と蝦夷地の運営状況を報告したのではなかろうか。

ところで、直條と松前嘉広との接点はどこにあったのか。柳沢家家老薮田重守を通してということは十分ありうるが、もうひとつ「柏亭日記」元禄九年(1696)七月に京都東町奉行だった松前伊豆守の名前がありその頃からかもしれない。


6.直條の和歌・発句

 東紀行の文中には直條自身の和歌100と発句40が他の関係者の作と共に含まれている。その中で出発前の三月二十五日に石清水八幡宮に旅の祈願をした際に呼んだ和歌がある。

汲て知る 八洲の外も 石清水 流の末の 波立ぬ世を  直條

これに対し、餞別をくれた人々の歌の一つ目は

言のはの 及はぬ程ハ 松嶋の かけをうつして 帰れとそ思ふ  秀信  とある。

 この2つの歌は何を意味しているのだろうか。

直條の歌は日本の外すなわち蝦夷地が静かであってほしいと言っているのだろうか。これに対し秀信の歌は、松島を見たらそれより北へは行かず帰ってきたらどうですか、と言っているのかも。三月二十五日は矩広が松前に帰着した頃で、藩内の騒ぎが京都出発前の直條に伝わっていたのではないかとも推測されるがどうでしょうか。

 さて発句(俳諧)については巻末のお土産の記述の中に、公長卿へ書いて届けた一覧がある。そのいくつかを紹介します。

松嶋  まつ嶋や 何花紅葉 夏木立

塩かま しほかまや からきあつさも なミの上

奥の海 立かへり 又もやミるめ おくの海

松前ニ而 よき所 得たる茂りや 庭の松

象潟  きさかたや 雁さへ落て 波の月

岩手  旅人の いはてもとまる 紅葉哉

玉造江 手にも哉 玉つくり江の 波の月

鹿嶋御社江奉納 五月雨に ぬれぬめくみや 三笠山

 なお、巻末のお土産の記述の中にはえぞ言葉の一覧があり、名詞は「天ヲ にしと イフ」、「地ヲ とひ トイウ」など、また数も書かれている。直條もこれを使ったのかと思われる。

 

7.岩出山訪問

7.1 はじめに

 松前を出た柏村直條は日本海側を経由し享保元年九月二十二日に岩出山に到着した。京都を出る前に(上)冷泉家で権中納言為綱卿から「みちのくへ行くなら類、すなわち親類がいるので立ち寄って来ては」と勧められての訪問であった。岩出山伊達家の当主村泰は不在であったが、前当主の内蔵敏親、その正室毛理(毛里・於妻)および当主弾正村泰の正室伊与(伊世)の歓待を受けて九月二十七日まで滞在した。

柏村直條が交際のあった堂上公家はこの東紀行に出てくるだけで風早公長、武者小路実陰、清水谷雅季、中院通躬、東久世博高(幽海)、広橋兼簾、山本公尹、冷泉為綱、六条有藤と多数であり、直條は公家社会の情報に通じていたと思われる。


7.2 冷泉家と岩出山伊達家の二代にわたる縁組

 岩出山伊達家は伊達政宗の四男宗泰に始まるが、三代宗親(内蔵敏親)に冷泉家から冷泉為清の娘於妻が嫁ぎ、養子の四代村泰には為清の子為綱の娘伊世が嫁ぐという代を重ねた縁組となった。於妻は為綱の姉にあたり、伯母と姪の関係にある。村泰の婚礼は宝永二年(1705)八月なので直條の訪問はその十一年後になる。大名家が公家の娘を迎えるのはよくあることで、仙台藩では家臣である藩主の一門でも例があるが、しかし二代連続は珍しい。

この冷泉家と岩出山伊達家の関係については、岩出山の旧有備館および庭園において令和四年六月から八月まで開催の夏季企画展「京都の文化が東へ、北へー京都冷泉家と岩出山伊達家の交際」の展示資料および解説書に大変詳しく紹介されている。


7.3 岩出山伊達家の歓迎

 九月の帰路では日本海側を南下し、新庄から仙台藩領に入った中山宿で直條が来るのを三月前から待つようにと地元に指示が来ていたとあり、岩出山への入来が待たれていたことがわかる。

九月二十二日に岩出山に着いて八幡宮の別当の屋敷に逗留し、前当主の内蔵敏親、その正室於妻および当主弾正村泰の正室伊世の歓待をうけた。城内や別業で饗応の席に招かれること3回、村泰の子供達にも会い仕舞なども見せてもらった。そのほか何回も使者が来て届け物や食事酒肴の世話をうけ、歌も詠んだ。玉造江のどじょうや赤香色の頭巾などもいただき大変な歓迎ぶりであった。滞在中に雪の日もあった。しかし当主村泰は仙台の用事が終わらず会えなかった。二十七日に岩出山を出たら途中で村泰に出会い「いとねんごろにいひものして」別れた。


7.4 ふたりの公家の姫君

 岩出山で直條は前当主の敏親と冷泉家から嫁いだ二人の正室に大変な歓迎をうけた。京都からはるばる岩出山に輿入れした伯母と姪の2人の公家の姫君が、弟あるいは父である為綱の紹介で京都からやってきた連歌・発句・和歌に通じた人物をいかにもてなしたか、またその生活の一端もよくわかる。手紙で京都とのやりとりはしていても、公家たちや大名家に出入りしていた直條から京都などの話を噂も含めて直接聞けることはとても楽しかったことであろうと想像できる。


8.あとがき

 平成二十九年(2017)六月に私が北海道を訪れた日に札幌の旧道庁の北海道立文書館で松前町史に気付きました。通説編の中に直條の名はなかったが、文芸の項P945に「俳諧師柏亭醜哉の筆(東紀行)も文学作品」との記述を見つけました。写本が北海道大学附属図書館に所蔵されており、コピーを依頼してテキストを作りました。平成二十九年(2017)十二月から「古文書の会八幡」の「とりまとめ会」において輪読を始めました。

 その後、東紀行にはもう一つ写本が函館市中央図書館に所蔵されていること、およびそこには佐々木克郎氏による翻刻の控え(平成九年四月十五日付)もあるとわかりました。そして、3分の2まで読み進んだ令和二年(2020)十月に私は函館と松前を訪問し写本の撮影をしました。両所の写本を比較し、北海道大学附属図書館のものは虫食いの状況から函館市中央図書館所蔵のものを筆写したと判りました。また佐々木氏の翻刻では柏村直條が石清水八幡宮の神人であること、また家族や交遊関係などをご存知なかったとわかりました。

東紀行のコピー入手には北海道大学附属図書館北方資料担当の方々に、また函館市中央図書館でも閲覧と撮影でお世話になりました。さらに松前町教育委員会の佐藤雄生様、宮城県大崎市教育委員会文化財課の大久保弥生様と菊地優子様には現地訪問時にご教示いただき大変お世話になりました。

このたび翻刻本を発行できましたが、これは「古文書の会八幡」の「とりまとめ会」において、参加していただいた方々が翻刻の原案を作成しかつそれをもとにみんなで討論した努力の成果です。とりまとめ会のメンバーは安立俊夫、奥山邦彦、田中美博、中井智久、川島永子、池田さちよ、恩村政雄、畑美弘、谷村勉、江本東一、石田種雄、沖増修治、赤司和敏、堤宗男などの方々でした。ありがとうございました。

                令和6年(2024)11月6日 記


                                 


 
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by y-rekitan | 2024-11-27 11:30 | 講演会・発表会
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