第52回八幡市民文化祭 124号

     
第52回八幡市民文化祭 令和6年10月26(土)27(日)


 標記の文化祭に今年も参加しました。
今年も『行基と橋本・山崎橋』と『八幡の道標遺産』の二つをテーマに例年通り展示を行いました。大変多くの方々に興味を持って展示物を見て頂きました。
皆様には大いに好評を頂き誠に有難うございました。スタッフ一同大変励みになりました。以下、展示の内容を簡単に振り返えります。


行基と橋本・山崎橋

橋本

八幡の橋本が山崎橋(大山崎町~橋本)の架橋を通じて行基とは大変深い関係があった。行基は土木事業や救済施設等の設置を通じて民衆の信望を集めた僧であるが、活躍した時代は奈良時代で、都は平城京にあった。平城京への物資の運搬や人の往来に橋本の港や山崎橋が利用され、陸運、水運共に大変重要な交通の要衝であったことが改めてわかる。これらから、八幡の都市としての発展は橋本から始まったといっても過言ではない。八幡宮遷座の130余年前ことである。
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行基菩薩像 近鉄奈良駅前

行基

 天智天皇七年(668)~天平勝宝元年(749)享年82
 河内国大鳥郡蜂田郷(大阪府堺市町)で生まれた。百済系渡来人出身とされ、勉学に謹しむ環境に恵まれていたようで、行基十五歳の時、同郷の道昭を師と仰いで出家、すぐに法相宗の教え『瑜伽唯識論』(ゆがゆいしきろん)を理解したといわれる。
行基三十三歳の時、師の道昭が亡くなり、郷里に帰った行基は、はじめ旅行者の苦難を救うことを中心に、様々な活動を行った。

行基の行動の動機は平城京造営に駆り出された多くの民衆や、調庸物を運んできた人々が、帰郷の途中で食料が足りずに行き倒れになる悲惨な現実を目の当たりにしたことが大きいといわれる。行基は当初、律令国家から批判され、弾圧されたが、それでも民間布教に従事し、全国を巡り、布教を行いながら道路を整備し、池を掘り、橋を架け、寺を建てるなど慈善活動を継続した。
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イメージ写真(宇治橋)

山崎橋の架橋

 「大きな建設工事は何もない大地を一大人口集積地に変える力を持つ。そして大建設工事には必ず宿泊施設が現地に建設されること、そしてその宿泊施設の建設が最初の仕事になる。行基の山崎橋架橋により道場の久修園院が建ち、また布施屋が建つ。そこには優婆塞や職人など多くの人々が労働力として集まり都市化した」(『行基と長屋王の時代』尾田栄章)。行基集団の橋の架橋は神亀二年(725)の久修園院の起工、山崎橋の架橋から始まった。

『行基年譜』は行基の一生を伝える伝記、そこには詳しい事跡が記される。
行基が建立した寺院をはじめ、地溝の開削、布施屋(宿泊・救護施設)の造立九件、ため池十五面、架橋六基などの足跡が記され、その内、寺院の建立は四十九ヶ所を数える。
架橋六基とは山崎橋(大山崎~橋本)、高瀬大橋(現守口市)、泉大橋(現木津川市)、長柄橋、中河橋、堀江橋(三橋とも現大阪市)をいう。

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行基四十九院の一つ、現存する久修園院(枚方市楠葉)


久修園院とは修行の道場

 「行基建立の寺院は当初「修行の道場」の性格が強く、道場とは従前云われるような寺院ではない。行基集団が展開した事業の現地事業所的な性格を持つ施設であること、端的に言えば、行基建立の四十九院(道場)は飯場(共同居住施設)であるといっても過言ではない」(『行基と長屋王の時代』尾田栄章)。
奈良時代の仏教は国家による仏教管理が行われ、寺は官立であり、僧侶も国家公務員のような存在だった。


山崎橋の復活

 山崎橋は11世紀には廃絶していたが、豊臣政権下で一時復活された。
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石清水八幡宮全図(中井家文書)

 文禄元年(1592)8月9日着工し、12月4日竣工した(惺窩先生文集巻之八)。興味を引くのは、この橋は山崎橋ではなく、「橋本之橋」と命名され、近衛信尹(のぶただ)(近衛前久(さきひさ)次男・寛永の三筆)の『三藐院記(さんみゃくいんき)』に、文禄元年(1592)12月14日都をでて、山崎側から橋を渡り「橋本の橋をわたりこし乗船、沈酔故也、同船友枕(伊勢貞知)也」の文章を残している。
その後失われてから現在に至るまで再建されていない。橋が失われた後は昭和三十七年(1962)まで渡船が運航されていた。
石清水八幡宮全図(写真)のやゝ左側に弓状に曲がった京街道が見える。ここに山崎橋の親柱・袖柱があったと推定される。京街道よりも先に橋が完成しているので、山崎橋を弓状に迂回した街道筋が造られたようだ。橋本奧之町の現場に行けば成程と分る。同じ所には橋本等安(石清水八幡宮社士・連歌師)によって造られた橋本寺も旧蹟として全図に記されている。


         【八幡の道標遺産】

 八幡の道は古来「八幡宮道」と呼ばれ、石清水八幡宮遷座(貞観元年(859))以来、八幡宮参詣道として、また八幡信仰の道として整備されてきた歴史がある。現在、八幡市内はもとより、近隣自治体を含めて100基以上の道標石碑が確認されているが、特筆すべきは、これらすべて八幡を指し示す道標であり、江戸時代に建立された貴重な八幡地域の文化的・歴史的遺産であるという点にある。


三大道標遺産

 100基以上の「八幡宮道道標」の中から特に優れた道標遺産を三つ選んでみた。
一.往生礼讃道標 二.指差し地蔵道標 三.八幡大菩薩道標

道標遺産と呼ぶには、それなりに相応しい基準を定めた。
建立が古く江戸時代以前のものであること。
浮彫等の彫刻がなされていること。
近隣の住民によって守られていること


往生礼讃道標
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歴史的景観に彩を添える数ある「八まん宮道」道標の中、最高傑作といわれる「往生礼讃道標」は、まさに石工の技と信仰の結晶といえる。場所は下奈良隅田の「隅田墓地」の入口にある。近くには佐川急便営業所の大きな建物が見える。

嘉永四年(1851)建立の道標正面には卓越した技量をもった石工による「阿弥陀三尊来迎図」の浮彫が驚くほどに鮮やかに表現され、すぐその下部に法然上人と、師である善導大師の姿も描かれて、浄土信仰の深い歴史を物語っている。

右面には「願共諸衆生 往生安楽国」(願わくば、衆生と共に、安楽国(極楽浄土)に往生せん)という善導大師の『往生礼讃』からの言葉が刻まれている。この銘文は、道行く人々に深い精神的慰めを与えたことでしょう。左面上部には「南無阿弥陀仏」の文字の下に「右 うじ・左 よど 道」と記され、旅人を正しい方向に導いている。

屋外の道標に阿弥陀三尊像が彫られているのは極めて珍しく、この「往生礼讃道標」は恐らく唯一無二の存在であり、この事実は、八幡市の文化財の豊かさと地域の歴史的深みを如実に物語っている。「往生礼讃道標」は単なる道しるべを超えた芸術作品であり、歴史遺産である。その存在は八幡市の文化的豊かさを象徴し、訪れる人々に深い感銘を与える。地域の誇りとして末永く保存されるべき貴重な文化財といえる。


指差し地蔵道標

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 地蔵菩薩の信仰は他の仏や菩薩を圧倒して広く大衆の「ほとけ」として拝まれている。その像は寺院境内、町の辻々、墓地の入口、道路、山道、田畑などのいたる所で地蔵菩薩の姿を見ることができる。先般、江戸時代の八幡道標を調査した際には、地蔵菩薩が彫られた道標の数の多さに驚いたものだった。

 江戸時代において特にお地蔵さんと子供とは結びつきが強くなったといわれる。地蔵菩薩は子供の守り本尊として親しまれ、子を失った親が舟形のお地蔵さんを彫り、子供の法名を書き入れる習慣が広まった。この習慣は、地蔵菩薩が子供の守護者として深く信仰されていたことを示している。

八幡市美濃山井ノ元の坂道にめずらしい「指さし地蔵」が残されている。地蔵像は右手に錫杖、左手に宝珠を持つのが基本だが、このお地蔵さんは微妙に首をかしげて「八はたへこれから」の文字を指さしている。これは単なる像ではなく、道案内をしている地蔵道標である。この様な道標を現場でよくよく眺めていると、楽しくなってくるから不思議だ。

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 このようなお地蔵さんは滅多にあるものではないと思っていたら、奈良県大和郡山市の金剛山寺(本尊・地蔵菩薩)こと「矢田寺」にも同様の「指さし地蔵」があると聞いて飛んで行った。こちらは「左 矢田道」と刻まれ、矢田寺への道を指し示していた。
これらユニークは地蔵像は、日本の宗教文化の豊かさと、地域の歴史や信仰が交差する興味深い例といえる。地蔵菩薩は単なる信仰の対象を越えて、日本の文化的景観を形作る重要な要素となっている。


八幡大菩薩道標
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道標は貴重な文化財であり、その発見や歴史は私たちの人生を豊かにする。
それは道案内と共に数百年にわたる固有の歴史をも想像させ、建立の思いは幾世代にもわたって守り伝えられてきた貴重な財産として、現在を生きる我々の眼前の路傍に存在している。

 枚方市の楠葉地区と牧野地区の間を淀川に向かって南北に流れる川が船橋川だが、京阪牧野駅から旧京街道を楠葉方面に歩くと、船橋川の堤に突き当たる。その堤に道標が見えてくる。牧野の船橋川堤にある大型の道標には「八幡宮」と大きな文字が彫られ、その下に「参詣道・橋本へ一里」とある。上部には石清水八幡宮のご本尊であった「八幡大菩薩像」が彫られた貴重な道標で、江戸時代まで石清水八幡宮が「神仏習合」の神社であった事実を示すなど、八幡神の仏教的側面を伝える重要な道標であるといえる。

文禄五年(1596)、豊臣秀吉によって整備された京街道は石清水八幡宮への参詣道でもあったのである。牧野地区の住民によって建立された道標は、楠葉、牧野地域一帯が古来八幡宮の文化圏で、八幡宮を支えてきた地域であったことが充分伺える。
                               以上
             

by y-rekitan | 2024-11-27 09:00 | 事務局だより
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