谷村 勉 (会員) (※最終回、水無瀬神宮・石清水八幡宮に参る) 十二日のけふ みなせまてまかるへき程とをしとていそきけるに。此の寺の舎利毎日巳の刻に出させ給へとも彼別当御使たる人ことわり申て朝のほとにいたし奉る。頂戴随喜かぎりなし。僧物語して云やう此舎利は七仏の毘婆尸仏(びばしぶつ)の双眼なり。普広院の御時都へめしのぼせられしかは。その間亀井の水とまりて御帰の程より本のことく出ける事。又本尊ちかき乱にくだけ給ひしを続奉るに。 御足いささかふみちかへてつぎしを一夜の間居なをらせ給ふ事なと。近き世にもかやうのふしぎ有よしかたりけり。秋野と云人道まて送りにとて。楼のきしわたなべ大江まて酒をもたせてきけり。川のほとりにて数盃をかたふけ。こしにて夕つかた山さきみなせに着にけり。いまた日も残れり和漢一折すべきと有しかは 雲やいづれやまさきかくす花さくら 迎客燕談春 水無瀬三位 雨の日やゆうへの空もをそからむ 十三日早朝に御影堂に参れり。男山八幡にまいり帰るさ釈迦のおはします堂にて。ある人酒すゝめてかへりぬ。此程の旅のつかれゆへ心ちあしくてけふはふしくらしけり。 ![]() 『訳文』 十二日。今日は水無瀬までの予定で、その道のりは遠いというので出発を急いだのだが、四天王寺の仏舎利は、毎日午前十時ころにお出しなさるのに、あの別当の御使者である人が事情を説明して、朝の間に出し奉り、おし頂いた。その喜びは限りがない。寺僧が物語って言うには、この舎利は七仏の中の毘婆尸仏(びばしぶつ)の両眼である。普広院足利義教の御時に、京都へ召し上せられたので、その間は亀井の水が出なくなって、仏舎利が寺にお帰りの時から元のように水が出たこと、また、ご本尊が最近の戦乱で砕けなさったのを接ぎ申し上げる時に御足を少しばかり踏み違う姿で接いだところ、一夜の間に坐り直られたことなど、近い世でもこうした不思議のあることを思った。 秋野という人が水無瀬への道筋まで見送りにと付いてきて、楼の岸、そして渡辺・大江の辺りまで供に酒を持たせてきて、川の岸辺で数杯を傾け飲んで、そこからは輿に乗って、夕方に山崎の水無瀬に到着した。まだ夕日は西の空に残っていた。和漢連歌を一折興行しようとの誘いがあったので、 雲はいづれに行ったのだろう。山崎の山を隠すように咲く桜の花よ 遠来の客人を迎え、燕のようにむつまじく春の情趣を語り合おう 水無瀬三位 春雨の日でも春の永日なので夕暮れの空は遅い、主客ゆっくり語り合おう 紹巴 十三日。早朝に後鳥羽院の御影堂(現在の水無瀬神宮)にお参りした。その後、水無瀬からは対岸の男山石清水八幡宮にお参りして帰るその帰り道に、八幡宮の、お釈迦様がおられる岩屋堂で、ある人が酒を進めてくれ、それを飲んで水無瀬へ戻った。これまでの長旅の疲れから、具合が悪くて、今日はそのまま横になって日を暮らした。 ![]() ![]() 水無瀬三位とは水無瀬親氏の事で、後、兼成(永正十一年(1514)~慶長七年(1603))。『公卿補任』天文十六年条に「藤 親氏 前三木従二位英兼卿男。実入道前右大臣藤公条公二男。母同権大納言実澄卿」とある。即ち、公条は水無瀬家を継いだ実子親氏を尋ね、旅の最後の日をくつろいだのである。 室町時代に活躍した連歌師の宗祇は三条西公条の父、三条西実隆と親しかった。その飯尾宗祇と牡丹花肖伯、柴屋軒宗長の水無瀬三吟百韻連歌が水無瀬神宮に納められている。水無瀬親氏こと水無瀬兼成は能筆家で駒の銘を書き、水無瀬駒を制作している。この駒は美術的価値が高く重宝された。 なお、水無瀬氏は、信成、親成父子の代に、後鳥羽上皇の遺領として水無瀬離宮を賜り、御影堂を設け、以来ここを住居とした。 後水尾院から下賜されたと伝わる書院風の茶室「燈心亭」がある。江戸初期の公家好みの代表的な茶室とされている。茶室内部は三畳台目席で天井は格式の高い格天井となっている。美味しい水で点てるお茶の味は格別であるが、神社内では頻りに茶会が行われている。境内には大阪府で唯一の「全国名水百選」に選ばれた「離宮ノ水」が湧いていて、水汲み場には、連日早朝から多くの人々が取水に訪れている。 ![]() 茶室「燈心亭」 R2.11.8撮影 ◎男山八幡(石清水八幡宮) (八幡市八幡高坊30) 石清水八幡宮は、応神天皇・神功皇后・比咩大神を祭神として祀る神社で、貞観元年(859)宇佐八幡宮の神託を受け、大安寺の僧行教によって勧進された。朝廷や幕府の厚い崇敬を集め、公家や武将たちが頻繁に参詣した歴史がある。水無瀬からは淀川を越えた対岸の男山山上にある。 ![]() ![]() 連歌に関連し、もう一度おさらいすると 連歌は和歌から問答対話の形を踏まえて、平安時代に登場し、室町時代から戦国時代にかけて最盛期を迎えた。普通、短連歌と長連歌に分れ、短連歌は短歌の長句(五七五)と短句(七七)の二句で終わり、長連歌とは長句、短句にまた長句、短句を繰返しながら最後の句(挙句・あげく)は七七でおわる詩形をとる。何句続けて終わるか明らかではないが、後鳥羽院の頃に百句で終わる様になり、これを「百韻」と言う。百韻とは百句からなる連歌の形式で、特に明智光秀の「愛宕百韻」が世に有名である。 連歌最盛期の第一人者「里村紹巴」の弟子に八幡宮神人の「橋本等安」がいた。『八幡市誌』第二巻に「かの里村紹巴に連歌を学び、豊臣秀吉の御連(ごれん)衆(じゅ)として活躍した」と紹介され、「等安連歌巻」から引用した発句も並んでいる。橋本等安の「等安連歌巻」には細川幽斎、里村紹巴の評点や紹巴の手紙が出てくる。 また、天理図書館に細川幽斎自筆の連歌巻『賦何人連歌百韻』が残る。その下絵には雲間の満月や帰雁、桜花などが金銀泥で描かれた豪華な巻子本であるが、そこには里村紹巴、細川藤孝、里村昌𠮟、蘆中心前、歓喜光寺の文閑、堺豪商の津田宗及などと交じって橋本等安も集っている。 (参照『八幡の歴史を探究する会』会報102号・近世八幡の歴史に興味はつきない) ![]() 岩屋堂跡 本殿北側若宮社の東側にあった ○慈尊院或いは岩屋堂と号す 『男山考古録』には次のように記されている。「縁事抄曰、大御神男山にご鎮座以前の堂也云々、岩屋堂と号るは、側に石もて造れる堂形の物在りて此称あり、前条にいふ、御本宮艮(うしとら)隅に在て、今其趾所を岩屋堂蹟といふ、慶長四年敷地図(尚次家伝来)に、五間四方と記せり、後漸(ぜん)(しだいに)小堂なりしか、…‥又寛延二年(1749)九月、其所を検地せる記に、東御門石階の所より北へ入事八間と記せり、本尊釈迦如来、」…。 ○同釈迦堂 同じく『男山考古録』より抜粋すると、「慈尊院略名同所歟、此地方に別に在事無之、本尊釈迦如来安置あれハ斯号せるならむ、吉野詣記称名院曰、男山八幡宮に参り帰るさ、釈迦のおはします堂にて或人酒すすめて帰りぬ」云々…。 十四日 水無瀬から輿にて帰りけり。はつかしの森のほとりにてこしをたてたる所にて。 此あたりの名所も大方爰をかきりなりとて 紹巴 たひ衣たちかくればややつれこし身をはずかしのもりの小かけに 返しに かりそめとおもふ日数もつもりつゝはやはつかしのかけに来にけり 都出し日数廿日になりにけり。かくて東寺 南大門まて 都よりむかへに人々来り。是より乗物を返しうちつれ帰にけり。道すから障礙(しょうがい)なく帰りし事など申て野宮の寺より出立しかは。此に帰りつきていつしか余波おしげにてみな別にけり。やがて立帰りても独すみの床もあれて道すがらの物かたりすへきたよりもなければ かたるへき事はかずゝゝなみだのみふるき軒端のつまなしのはな ぞかひなきや 老いの坂のほりくだるもこのたひをかきりとおもふにふかきやまみち 今生の宿望来世の結縁満足するものそ 天文廿二年三月十四日 ![]() 『訳文』 十四日。水無瀬から輿に乗って京へと帰った。羽束師の森の近く、輿を置きとどめた所で、この近辺の名所どもも、おおよそここが最後であるといって、 旅衣の身は、その名も羽束師の森の木陰に立ち隠れたいものだ。 長旅にやつれてきてみすぼらしい姿なので 紹巴 返歌として、 思いがけずに日数も積り重なって、早くもこの羽束師の森の 木陰に戻ってきてしまったよ 都を出てからの日数は、二十日にもなってしまった。こうして東寺の南大門まで都から迎えの人々がやって来た。 ![]() それでここから乗物を返し、乗り換えて都に帰り着いた。その道すがら、無事に帰った幸せを言って、行く時は野宮の寺から出発したので、まずはここに帰り着いて、やがては、名残惜しそうにしてみな別れ別れになってしまった。そのまま家にたち帰ってみても、独り住みの床も荒れて、道中の出来事を物語るような相手もいないので、 古い軒端には妻梨の花が咲き、土産話は数々あるが、 聞いてくれる妻はいなくて、涙が落ちるばかりだよ と詠んでみてもかいのないことだ。 老いた身で道中の山坂を上がり下がりしてきたが、 これが最後だと思うと、深く心に残る奥深い山道の旅だった。 現世における宿望も、来世における結縁も、この旅で成就するものと思い、心から満足するものである。 あとがき 連載は最終回となった。 石清水八幡宮警固社士、橋本等安の連歌の師である里村紹巴と公家の三条西公条の旅した『吉野詣記』(天文廿二年(1553))を追ったものであった。 三条西公条は「吉野詣記」の最終章で、この旅の終わりに対して深い感慨と満足感を抱いていた。67歳という高齢にもかかわらず、困難な山道を踏破したことに対して大きな達成感を感じている。「老いた身で道中の山坂を上がり下がりしてきたが、これが最後だと思うと、深く心に残る奥深い山道の旅だった」と詠んでいることから、この旅が人生最後の大旅行になるかもしれないという思いが、旅の思い出をより一層深く心に刻ませた。 公条はこの旅に深い精神的・宗教的意義を見出している。「現世における宿望も、来世における結縁も、この旅で成就するものと思い、心から満足するものである」という言葉は、この旅が単なる物見遊山ではなく、現世と来世の両方に関わる重要な意味を持っていた。公条は前年に妻を亡くしており、この旅には妻の冥福を祈るという目的も含まれ、帰宅後の寂しさを詠んだ和歌「古い軒端には妻梨の花が咲き、土産話は数々あるが、聞いてくれる妻はいなくて、涙が落ちるばかりだよ」からは、旅の終わりと共に再び妻の不在を痛感する公条の心情が読み取れる。 先年、柿衛文庫の『松花堂昭乗奈良吉野紀行』を読んだ。この吉野紀行で、松花堂昭乗は寛永15年(1638)3月、主に吉野の花見を目的として、大徳寺江月宗玩(こうげつそうがん)和尚と10日間にわたり、春日大社、二月堂、内山永久寺、石上神宮、吉野蔵王堂、後醍醐天皇陵など凡そ18か所の神社仏閣や史蹟などを訪ねている(歴探会報第94号・会員研究発表)。なお、この時代は戦国乱世の時代は終わり徳川3代将軍家光の治世であり、島原の乱はあったが、比較的平和な時代であった。 三条西公条の『吉野詣記』は戦国大名が群雄割拠する時代背景の最中で、天文22年(1553)2月23日に出発し、22日間で35か所という、多くの名所旧蹟を廻っている。主な目的は妻の冥福を祈り、太子信仰の巡礼や父(三条西実(さね)隆(たか))の足跡を辿るなどの目的があった。 二つの旅行記を読み終えて、互いを比べると、新たな気付や知見があり、思考が深まるなどの効果にもつながった。春夏秋冬、四季折々に変化する風景や雰囲気を再び現場で味わいたい、との強い思いをもった。 ![]() 東大寺周辺や二月堂のお水取り、三月堂の不空羂索観音や耐震化工事が終わった戒壇院内の四天王立像などを拝観し、すぐ近くの写真家入江泰吉住居跡も訪問し、奈良公園では広い芝生の中で鹿を眺めながら、古代から連綿と続く日本文化や歴史を体感したい。さらに昆虫好きにはたまらない瑠璃色に輝く宝石、糞虫ルリセンチコガネとの出会も楽しい。幸い奈良ならいつでも行けるところである。 ―おわり- 空白 主な参考文献 『吉野詣記』鶴崎裕雄他 翻刻・校注 (相愛女子短大研究論集三三) 『中世日記紀行集』新編日本古典文学全集 小学館 『古今和歌集』日本古典文学全集 小学館 『神社の古代史』岡田清司 大阪書房 『等安連歌巻』 橋本等安 個人蔵
by y-rekitan
| 2025-01-27 22:00
| 吉野詣記
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