野間口 秀國(会員) 昨年夏、当会会報第116号(‘23.7.24)で、京田辺市観光ボランティアガイド協会主催の「家康公の伊賀越えハイキング」への参加体験を本シリーズ初回として報告させていただきました。ハイキング終盤に木津川左岸に建つ「草内の渡し跡」に着いた時、川向の城陽市奈島の「十六の渡し跡」(同第83号・’18.1.15)に思いを致しておりました。ハイキングから約1年を経たこの6月下旬、城陽市歴史民俗資料館にて開催中の「古墳へ行こう!2024+発掘調査速報展」に足を運び「隣の芝生⑥城陽市」に着手しました。 会報第121号にて久御山町の町名変遷について触れましたが、本号では隣の「淀のあたり」(現:伏見区淀)について書きたいと思います。 『京都府地誌久世郡村誌』の「山城國久世郡淀 新町下津町池上町」の項には、(原文のまま) “此地本郡ノ西北ニ位シ旧時一小村ニ過キス天正以後城郭ヲ築キ従テ街市ヲ成ス (略) 東ハ同郡御牧村ト悪水溝ヲ以テ堺シ西ハ淀川中央ヲ以テ紀伊郡納所・水垂・大下津ノ三村ニ面シ南ハ綴喜郡美豆村ニ對ス (略) ” とあります。小村だった淀は後述します豊臣政権の城の築城後に栄えてきたようです。 時代は下り、町村制公布の翌年、明治22年(1889)当時は久世郡淀町でしたが、昭和10年(1935)に綴喜郡美豆村と合併、翌昭和11年(1936)に乙訓郡淀村と合併の後、昭和32年(1957)に京都市伏見区に合併編入しました。このように、現在の淀のあたりは久世、綴喜、乙訓、紀伊のいずれかの郡に属していたか隣接していたことが見て取れます。 近年の京都市埋蔵文化財研究所の発掘調査でも、古くは弥生時代から明治時代まで、各時代の遺物発見が報告されています。現在、淀のあたりは京都市伏見区の一部で、単独の町名としての「淀」は存在していませんが、「八幡市の隣」ですので取り上げない訳にはと思い、古くから歴史に残る「淀(のあたり・界隈)」を取り上げました。 なお、「よど」の表記は資料・書籍・史料等により、淀、與等、与等、與杼、与杼、予度などがありますので、本稿では一部を除き「淀」に統一させていただきます。 古くから「淀」地区は桂川、宇治川、木津川の流れが集まり、加えて大池(巨椋池)と繋がり、水に囲まれ、低湿地なども多く、いくつかの地名は水とのかかわりが感じられますが、「淀水垂町」もその一つと思われます。豊富な水の恵みを受ける一方、その被害からも逃れられない地区だったのでしょう。 昨年の春、「淀の水害鎮める秘仏初公開」と題した記事(京都新聞・’24.4.25)に誘われて、淀駅から北西へおよそ1Km、桂川に架かる宮前橋を渡って常念寺を訪れました。 記事には「水害の多い地域で守り伝えられてきた像」との同寺ご住職の言葉があり、また、元は桂川左岸の納所地区にあった寺が、豊臣秀吉による淀城整備で右岸の水垂地区に移されたことや、2022年から行われた像の修復に伴い、製作年代が14世紀と裏付けられたことなども分かります。 修復が完了して公開された「郡分(こおりわけ)十一面観音菩薩像」(高さ42cm)は小ぶりながらみごとな彩色に輝いていました。今後公開の機会がございましたら、訪ねられることも「淀のあたり」を理解する一助になるのではないでしょうか。 「納所」をどう読むのか? 広辞苑(第三版)には「なっしょ」とあり、年貢などを納める所、納めること、またそれをつかさどる役人、などとあります。淀の納所交差点傍に立つ「納所」を説明する駒札には、「皇室に納める穀類の重要な倉庫があったため」とあり、フリガナは「のうそ」とあります。 上記のように、淀の「納所(なっしょ)」は長岡京・平安京の時代より、山陰・山陽・南海・西海の諸国から、水運によって都へ運ばれる年貢がこの地(淀津)で陸揚げされ保管された場所でした。また同時に保管された物がここから街道を利用して朝廷に納められ、それらを取り仕切る役所であったのです。昔の役所の部門名であった「なっしょ」が、呼び方を「のうそ」と変えて定着した地名と思われます。最近では地名表記板にアルファベット併記が増えましたので、「納所」を「NOUSO」と読むことも解ります。郵便番号簿を開くと、かつての納所区域には「納所町」の他に納所北城堀、納所南城堀など、10の「納所○○」の地名が確認できます。 ![]() さて、淀の初見はいつ頃なのでしょうか? (お断り:この部分は原文に従い、與等および与等と書きます。) 『淀の歴史と文化』 P20、には次のように書かれてありますので参考までに転記いたします。 曰く、 “淀が初めて平安時代の文献に見えているものは、延暦23年(804)7月23日条の『日本後紀』にある「丙申。幸與等津。」とわずか四字の史料である。 (略) 淀はこの段階で港であった。 (略) 淀が港としての役割を果たしたのは、長岡京・平安京以前からと考えて良い。” と。 また、平安時代の与等津に関しては、令和6年12月5日に京都学・歴彩館にて「与等津と平安京」と題する「館長特別ミニ講座」で金田館長より、“平安時代の与等津は、桂川の東岸(左岸)及び西岸(右岸)にあった津の総称” とのお話がありました。 城の重要な機能の一つは、その地を護る防衛施設でした。城は戦いの拠点であるとともに、食料・武器・資金などの備蓄場所であり、為政者や指揮官の住居であり、政治や情報の拠点でもあったのです(ウイキペディア百科事典「城」より)。このように淀は古くから水運の要衝(津)であり、街道の要衝(宿・役所)であり、防衛基地(城)でもあったのです。古い時代の城には、今日私たちが大阪城や姫路城などに見るような、石垣や櫓(やぐら)や天守はありませんし、形態・規模・機能も千差万別で、「納所(なっしょ)」はまさに「淀の城」の始まりだったことが想像できます。 城その1: 戦国時代の城(山城国の守護所では) 淀の城の初見について、小林大祐氏の資料(資料等一覧を参照)には、“文明10年(1478)、東院年中行事に「山城守護代遊佐弾正の代 (略) 神保与三左衛門淀へ入部する」とあり、さらに 「畠山政長が応仁の乱にあわせて守護所を勝竜寺城から淀に移したのではないかと考えられている」” と書かれています。 以降、明応2年(1493)に細川氏の支配となり、永禄6年(1563)に三好氏の支配、永禄11年(1568)、織田信長の上洛に伴い落城、天正10年(1582)、本能寺の変の後に明智光秀が修理、等々の歴史を有しています。 城その2: 豊臣政権の淀城(側室淀殿の城) 豊臣秀吉の時代になると、天正12年(1584)頃より秀吉は淀城を頻繁に利用しており、天正17年(1589)に側室淀殿のために、豊臣秀長に命じて築城を命じました。城は現在の納所の妙教寺(寺へは入れませんでしたが、境内には淀古城跡の碑も・・・)周辺で、納所小学校の北側あたり、といわれますが詳細な位置は不明のようです。城は、先に “側室淀殿のため” と書きましたが、決して淀殿とその長子鶴松の為のみに築かれたものでは無く、豊臣政権の城として築かれました。大坂城と聚楽第を結んだ戦略上の要点として重視された城も、伏見城の造営に伴い役目を終え、数年後の文禄3年(1594)には破却されました。 城その3: 徳川幕府の淀城(西の防御拠点) 徳川幕府が開かれて後、二代将軍秀忠は元和5年(1619)の伏見城廃城に伴い、松平定綱に水陸の要衝である淀の地に築城を命じました。新しい城は秀吉の淀古城の推定地から南に600mくらい離れた地に、淀藩立藩の年、元和9年(1623)に着工、寛永2年(1625)に京都守護の城として竣工しました。複数の譜代大名が城主を勤め、およそ百年後の享保8年(1723)に下総佐倉から稲葉丹後守正知が城主を勤めてからは、稲葉家の居城として明治維新まで存続しました。京都守護の城として、また西国諸国の反乱の可能性に備えて幕府を護る西の防御拠点として重要な役割を与えられた城だったのです。 城跡は昭和43年(1968)に「淀城跡公園」として開園して市民に親しまれており、昨秋放映のNHKのTV番組「ブラタモリ」で石清水八幡宮と共に取り上げられましたので記憶に新しい方もおられるのではないでしょうか。 ![]() 写真2: 淀城跡公園の濠と石垣と京阪電車(右奥) 江戸時代、日本と世界との交流は、殆ど閉じられた状態ではありましたが、琉球(現在の沖縄県)、長崎(出島と対馬)、蝦夷(現在の北海道)などでの限定的な交流窓口はあったようです。それら窓口での交流とは少し異なると思いますが、唯一の対朝鮮王国(李氏朝鮮)との交流の痕跡が淀には残されています。本項表題の「朝鮮通信使(正式名称を朝鮮聘礼使(ちょうせんへいれいし)と言う」とは、江戸時代に朝鮮王国から日本に派遣された外交使節であり、初回の慶長12年(1607)(徳川秀忠の時代)から、文化8年(1811)(徳川家斉の時代)までの約200年間に合計12回を数えます。なお、「朝鮮通信使」の名称が使われたのは第4回目からであり、初回から第3回目までは「回答兼刷還使(かいとうけんさつかんし)」の名称で呼ばれています。 時代は少し戻りますが、全国統一を見た秀吉はその2年後、明征服を目指して朝鮮に軍を派遣しました。文禄元年(1592)に始まった「文禄の役」です。翌文禄2年(1593)には一度和解しますが、慶長2年(1597)に再度朝鮮へ出兵しました。 「慶長の役」です。しかし朝鮮は明と協力して抵抗を続け、日本側は次第に撤退、「文禄・慶長の役」による二度の戦いは慶長3年(1598)、秀吉の死によって終わりを迎えました。 朝鮮通信使の名称を「回答兼刷還使」と書きましたが、派遣の当初の主目的は、まさに「文禄・慶長の役」の「戦後処理と敵情探索」であったのです。 豊臣政権を引き継いだ徳川政権とは? 朝鮮王国側は、新政権の状況把握、戦後処理の窓口、捕虜の返還や、講和への条件確認や対応などが必要だったのです。一方、徳川幕府の都度の対応は前向きであり、2回目、3回目へと進展しました。結果、4回目以降は名称も「朝鮮通信使」が使われるようになりました。ちなみに「朝鮮通信使」とは、室町時代から江戸時代にかけて朝鮮王朝から日本へ派遣された外交使節団の名称なのです。 ![]() 写真3: 納所に建つ「唐人雁木旧跡」の碑 ところで、なぜ「淀」が関係するのかですが、使節団一行の船は、朝鮮(釜山)を出て、対馬を経由、瀬戸内海を東進し、大坂(大坂港の川口、中津川と尻無川)へ着きます(『朝鮮通信使と同時代の知識人』 小田弘史著 P163)。ここから陸路を進んだと思われるでしょうが、船はそのまま淀川を上ります。飯沼雅行氏(資料等一覧を参照)はその理由を、“豪華な御座船での旅行が一行への「馳走」でもあったこと、加えて、淀川を通行する様子を民衆に見せる幕府の思惑もあった” と書かれています。 納所交差点近くに建てられた碑には「唐人雁木旧跡」と刻まれています。「雁木(がんぎ)」とは階段状の船着き場ですので、使節団一行はここ「淀津」にて御座船を降りて陸路を取り、京都そして江戸へと向かいました。また碑に刻まれた「唐人」は明国の人では無く朝鮮の通信使と思われます。なお一行の対馬から江戸までの各寄港地や宿での様子などは本稿では割愛させていただきます。 少し硬い話が続きましたので、ここで少し「淀」で楽しんでいただきたいと思います。ここ淀のあたりに競馬場があることは多くの人がご存知と思いますが、正式名称は「京都競馬場」です。東京競馬場が「府中」と呼ばれるように、京都競馬場はファンには親しみを込めて「淀」の競馬場と呼ばれています。なお京阪電車の淀駅に隣接してはいますが、正確な所在地名は「伏見区葭島渡場島(よしじま わたしばじま)町」です。 京都市考古資料館の「リーフレット京都No. 412」には、京都の競馬場の歴史が概略次のようにありました。 曰く “明治40年(1907)に京都市下京区島原に「島原競馬場」が建設されました。大正元年(1912)、施設の焼失などによって、翌大正2年、船井郡須知町(現京丹波町蒲生)へ移転。その後、大正14年(1925)に現在の場所(当時の紀伊郡向島村大字葭島新田)に移転いたしました。” と。 約4年余り前、2020年10月10日の京都新聞に「京都競馬場は2020年11月1日をもって、2023年3月まで競馬開催を休止します。」と16・17面の見開き公告が載りました。幸か不幸か、この休止期間は殆どがコロナウイルス感染拡大防止期間と重なりましたので、この間に観覧席やパドックなどが一新され、予定通り2023年の春から再開されました。 ![]() 写真4: 第4コーナーから望む「淀の坂」 最後に常念寺で、淀古城近くで、また京都競馬場に関してご教示頂きました皆様に紙面を借りて御礼申し上げ、まだ書くことはございますがここまでとさせていただきます。 (令和6年12月19日) 一一 参考書籍及び資料等: 「鍵屋のにぎわいを今につたえて」 鍵屋資料館開館二〇周年記念誌編集委員会編(飯沼雅行氏、他) 名著出版刊 「第337回 京都市考古資料館文化財講座(’23・7・22)」の配布資料 『淀の歴史と文化』 西川幸治編 淀観光協会刊 「近世の淀城下町の成立と展開(宇治市民大学’21.3.27)」小林大祐氏の資料 「淀城の歴史と構造(アスニーセミナー’22.7.22)」中井均氏の資料 『朝鮮通信使』 仲尾宏著 岩波新書刊 『京都の渡来文化と朝鮮通信使』 仲尾宏著 阿吽社刊 「京都新聞記事」’20.10.10刊、’24.4.25刊
by y-rekitan
| 2025-01-27 21:00
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